死のロードが終わった

2008-08-03 dimanche

7月27日に始まった、死のロードがようやく終わった。
8月1日、佐賀教育センターでの講演。
博多で一泊して、佐賀へ。
佐賀は静かできれいなところだった。
佐賀の先生たちはまことに熱心に耳を傾けてくれたので、こちらもつい気合いが入り、「あんなこと」や「こんなこと」を口走ってしまう。
佐賀から博多経由で新神戸。
家に戻ると9時過ぎ。
長い旅であった。

翌2日は神戸女学院大学新制大学認可60周年記念講演会&シンポジウム「虫と人間」。
ゲストは養老孟司先生。
養老先生の基調講演のあと、いつものトリオ(甲野善紀、島崎徹、そして私)プラス本学の誇る「虫屋」(ご専門は蜂)の遠藤知二先生を加えて、どうして人は虫を観察したり、捕虫網をもって虫を追いかけ回したりするのであるかという根源的な問いについて語り合う。
私の考えはこうだ。
おそらく、人間は「ヒューマン・スケールを超えたもの」(極大であれ極小であれ)に触れることによって、「人間とは何か」ということへの理解を深める。
脳化した社会には「ヒューマン・スケール」で考量できるものしか存在しないし、存在することが許されない。
だから、あまりに人間的な社会になじんだ人間たちは、「人間の世界でのみ価値があり、それ以外のところでは無価値なもの」をどうして人間たちはつくりだしたのか、そのおおもとの理由がわからなくなる。
ベルナルダン・サン=ピエールは海に沈む日没を凝視しているうちに「神」を実感した。
その感じが私にはわかるような気がする。
本邦にも「日想観」という浄土信仰の儀礼が存在する。
でも、日没のうちに神は存在しない。
神は人間たちの世界にしか存在しない(ゾウムシの世界にも素粒子の世界にもブラックホールの中にも神はいない)。
しかし、人が神の存在を確信するのはむしろ「そういうもの」に触れたときである。
アポロ計画に参加した宇宙飛行士たちのうちかなりの人々はそのあと信仰の道に入った。
「人間がいない世界」に足を踏み入れたときに、彼らはおそらく「人間だけしかいない世界」のかけがえのなさを自覚したのである。
人間とはなんと可憐な生き物であろうか、ということを思い知ったのである。
だからこそ、私たちは子どもたちが虫や花や鳥や動物や、あるいは星や雲や海や川の流れに触れる機会をもつことを「人間的成熟」のための必須の行程だと考えてきたのである。
「人間たちの世界」で人間的に生きるためには、「人間たちのいない世界」に定期的に触れている必要がある。
だから、養老先生は暇さえあれば虫とりに出かけ、池上先生は海中に潜って魚と戯れている。
そういうおまえは何をしているのだと訊かれるかもしれない。
私は毎日自分の「脳」を内側から眺めている。
脳は「人間的意味」を構成する基盤であるが、それ自体は何百グラムかの細胞のかたまりであり、神経細胞のあいだを電気信号がゆききするだけの「人間のいない世界」である。
人間の思考が人間的次元を生成する。
だが、人間の思考が生成するプロセスは人間的次元には属さない。
それはモノのレベルにある。
「人間的なもの」がつくりだされる当の生成装置の複雑怪奇な動きをぼんやりみつめて時間を忘れている私のありさまは、虫の動きをじっとみつめて時間を忘れている「虫屋」のありさまと本質的にはそれほど変わっていないはずである。

シンポジウムは爆笑のうちに終わり、そのあと芦屋川のベリーニで、三宅先生の「カルマ落とし」スポンサーシップによる大打ち上げ宴会。
このメンバーが信じられないほど濃かった。
養老孟司、池上六朗、光岡英稔、名越康文、甲野善紀、島﨑徹、遠藤知二、甲野陽紀、足立真穂、三宅安道・・・
これだけ濃いメンバーが一堂に会する機会は今後もおそらくないであろう。
講堂を埋め尽くして盛り上げてくださったみなさん、応援ありがとうございました。入学センター、企画広報の平山課長、長谷川さん、住野大学事務長、そして川合学長、イベントが無事に済みましたのもみなさんのおかげです。ほんとうにどうもありがとうございました。
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