忙しい週末 once again

2008-06-23 lundi

金曜日はゼミのあと、会議が二つ。それから温情会。今回は大阪ヒルトン。
温情会というのは学校法人神戸女学院の教職員の懇談会である。日ごろあまり会う機会のない、中高部の先生がたや、法人の職員のみなさんとテーブルを囲んで会食をするのである。
このところいろいろな用事とバッティングしていたので、出るのは久しぶりである。
今回はイタリアン。
音楽学部の先生がたと同じテーブルになる。右隣が斉藤言子先生で、左隣が島崎徹先生。
左右に首を振りながら、ワイン片手にずっとしゃべり続ける。
岡田先生のピアノをはじめて聴く。
すばらしい。
眼福という言葉があるが、これは耳福。

週末は東京。
新宿住友ビルで本願寺(こんどはお東さん)の市民講座。
聴衆は100人くらいの市民のみなさん。雨の中をお運びいただき、まことに申し訳ない。
このところのテーマである「呪いのナラティヴ」について90分お話する。
私たちの時代に瀰漫している「批評的言説」のほとんどが、「呪い」の語法で語られていることに、当の発話者自身が気づいていない。
「呪い」というのは「他人がその権威や財力や威信や声望を失うことを、みずからの喜びとすること」である。
自分はいかなる利益も得ない。
他人が「不当に占有している利益を失う」だけであるが、それを自分の「得点」にカウントする。
久しくこのゼロサム的社会理論は左翼の思想運動において「政治的正しさ」の実現とみなされてきた。
マルクスの労働価値説がそれでも人間的理説でありえたのは、「ブルジョワが不当に占有している利益」を「プロレタリアが奪還する」ことの正当性を挙証したマルクス自身がブルジョワであり、彼にその理論の構築を促したのが、19世紀なかばのイギリスの児童労働者に対する「惻隠の情」だったからである。
「奪還論」が人間的理説でありうるのは、「私のものをあなたは奪う権利がある」という話型で語りだされたからである。
それは社会的リソースの分配についてだけ見れば、「おまえのものを私は奪う権利がある」という言い方でなされた場合と、結果的には同じことである。
同じことだが、違う。
祝福と呪詛ほどに違う。
私たちの社会では、「他者が何かを失うこと」をみずからの喜びとする人間が異常な速度で増殖している。
これはひとつには「偏差値教育」の効果であるとも言える。
偏差値というのは、ご存知の通り、同学齢集団の中のどこに位置するかの指標であり、絶対学力とは何の関係もない。
自分の偏差値を上げるためには二つ方法がある。
自分の学力を上げるか、他人の学力を下げるか、である。
そして、ほとんどの人は後者を選択する。
その結果、私たちの社会では、偏差値競争が激化するのに相関して、子どもたちの学力が低下するという不可解な現象が起きている。
子どもたちは自分の周囲の子どもたちの学習時間を減らすこと、学習意欲を損なうことについてはきわめて勤勉である。
ほとんど感動的なまでに勤勉である。
彼らは級友が失った学習時間や学習意欲を自分の「得点」にカウントする習慣をいつのまにか身につけている。
だから、学習塾で学校より単元を「先へ」進んで学んだこどもたちは、学校の教科がさっぱり理解できない子どもたちと、「授業の妨害にたいへん熱心である」という点で似てくる。
それは「教師の話を聴かないで、退屈そうにしている」という消極的なしかたで教室の緊張感を殺ぐことから始まり、私語する、歩き回る、騒ぎ立てる、というふうにエスカレートする。
彼らがそれほど熱心なのは、それを「勉強している」ことにカウントしているからである。
たしかに、彼らは級友たちの学習時間を削減し、学習意欲を損なうことには成功しているのである。
だから、そのささやかな努力の成果は彼らの「偏差値」のわずかな上昇として現れることを期待してよいのである。
競争が同一集団内だけで行われるのであれば、自分の学力を高めることと、他人の学力を下げることは、同じである。
けれども、集団外にも世界は広がっている。
全員がおたがいの学力を下げることに熱中しているうちに、日本の子どもたちの学力は国際的に下がり続けている。
これを是正するために、教育行政は「さらなる競争を」の必要であることを主張しているが、もちろん、日本国内で競争圧力を強化した場合(成績上位者への報償を増やし、成績下位者への罰をより残酷なものにすることで)、学力はさらに下がり続けるのである。
彼ら自身が「他人のパフォーマンスを下げること」を通じて、今日の地位を得たことを(無意識のうちに)知っている官僚たちが、「他人のパフォーマンスを上げる」方法を思いつくはずがない。
これが「呪い」の効果である。
90年代からあと、日本社会では、ほとんどの批評的言説はつねに「呪い」の語法で語られてきた。
私の書いているこの文章も例外ではない。
批評性はつねに「呪い」に取り憑かれるリスクを負っている。
だから、私たちは絶えず自分の言動のうちに含まれている「呪い」を「祓う」必要がある。
呪いを祓うとはどういうことか。
それについてお話をする。

学士会館泊。
早起きして、新幹線で大阪に戻る。
リーガロイヤルで養老先生とAERAのための対談。
2時間半ほど、おしゃべり。
エネルギーの話、環境の話、北京オリンピックの話、ラオスの虫取りの話、秋葉原の殺人事件の話、などなど先生の話頭は転々として奇を究めるのである。
次回は8月2日、本学のオープンキャンパスに養老先生をお迎えして、「虫と人間」というお題でご講演をいただくのである。
迎え撃つのはいつもの三人組(甲野、島崎、そして私)と、本学の誇る「虫屋」である遠藤先生。
どんな展開になるか、今から楽しみである。
昼酒でぼおっとして帰宅。
桐野夏生『東京島』を読みながら眠る。
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