クリエイティヴ・ライティングの宿題は「葛藤」。
何が葛藤するかというと、「作家」と「登場人物」が葛藤するのである。
その消息を理解してもらうために、学生たちには二週間前に宿題として、「書いている途中で、視点が切り替わるテクスト」を選んできてもらった。
ふつうは「神の視点」と「焦点的人物の視点」のあいだを行き来する。
「ふざけたことを言うな」と貞夫は怒りの叫び声を上げた。その言葉が貞夫の運命を一変させることになった。
なんていうのがあるでしょ。
二番目のセンテンスで書き手の視点から見える空間的・時間的な眺望がいきなり広大になる。
いまその出来事を経験しつつある当の本人が記述できる権限を超えてしまう。
そういうのは「なし」ね、とかつてサルトルは言った。
神の視点から登場人物たちの内面に勝手に入り込んだり、まだ起きていない出来事を先取りしたりするのは「フェアではない」というのである。
なるほど、おっしゃるとおりである。
しかし、複数の視点を往還し、さまざまな人物の内側に入り込んで、「他者をその内側から経験する」ことのうちに小説を読むことの愉悦は存する。
サルトルが言ったのは複数の視点がダメということではなく、「神の視点」はダメ、ということである。
その視点からの記述がひとりの人間の経験できることに限定されていれば、視点はいくらあってもオッケー。
だから、サルトルは『自由への道』で次々と焦点的人物を入れ替え、彼ら彼女らのあいだをものすごいスピードで行き来して、同一の事件に複数の相があり、さまざまな解釈可能性があることを示した。
小説的には成功した。
たいした力業である。
ところが、いまは『自由への道』なんて読む人はほとんどいない。
なぜか。
それはサルトルが否定したはずの「神の視点」を物語の中に密輸入しており、そのことにサルトル自身が無自覚だったからである。
自分が「表のドア」から追い出した「神の視点」を、「裏口」から導き入れたのである。
サルトルが「神」に擬したのは「歴史の審判力」である。
登場人物は複数だが、物語はシーケンシャルに進行する。
そして、登場人物たちがそのつどの状況において行った「実存的」な選択の「正しさ」は、「それからあとに起きたこと」の歴史的意義に徴して査定される。
共産党に入党すべきかどうかを思い悩む登場人物がいる。
物語の舞台は大戦間期である。
サルトルが『自由への道』を執筆した時点(1945年/49年)においてはもう戦争は終わっており、「大戦間期に共産党に入党して、レジスタンス軍事行動をした人は歴史的に正しい選択をした」ということが「常識」になっていた。
だから、入党をためらった登場人物の歴史的評価は「間違い」ということになる。
たぶん、リアルタイムの読者はそういう評価「込み」でこの小説を読んだ。
でも、サルトルがこの小説を書き終えたあと、フランス共産党はスターリン主義の評価を誤り、それまで享受していた圧倒的な国民的信認を失ってしまった。
その場合、「入党しなかった登場人物」は、今度は「やはり先見の明があった」ということで「名誉回復」されるのだろうか?
サルトルは別に物語内部的に「入党しなかった登場人物」を断罪したわけではない(ちょっとはしたけど)。
1949年時点での政治的状況に鑑みて「正しい」選択が物語的にも正しい・・というような教条主義的な書き方をしていたら、サルトルはとうの昔にその名前さえ忘れられていたであろう。
けれども、いま『自由への道』を読む読者は、なんとなく居心地の悪さを感じるはずである。
「この登場人物たちが結局何者であり、その行為が正しかったかどうかは、そのつどの現代史を参照しないと、わからないの? こっちの世界で何か新しい政治的事件が起こって、歴史的事件の意味の解釈が変わるたびに、フィクションの中の人たちその毀誉褒貶を変じるわけ?」
それって、やっぱり変ですよね。
物語は物語としてとりあえずは完結していなくてはならない。
物語外現実が変わるたびに、登場人物のしていることの当否や発言の真偽がそのつど変わられてはたまらない。
サルトルは物語世界の中に「神」を置くことを拒否した。
でも、その代わりに、物語世界の外に「歴史という名の神」を置いて、それに小説世界を統制する権限を委ねた。
それは小説を読む経験をあまり豊かなものにはしなかった。
と、私は思う。
たぶん、みんなもそう思ったので、『自由への道』は顧みられなくなった。
複数の視点のあいだを往還する、という小説構造は正しい。
けれど、その複数の視点は「等権利的」であってはならない。
物語の中が等権利的であると、物語の外に「神」が登場してしまうからだ。
「神」はできれば物語の中にいていただきたい。
エクリチュールを先へ進める複数の視点、複数の欲望のうちのひとつでありながら、他を圧倒するもの。
それが「神」である。
それは何か。
ということで、学生たちがもってきた素材をいくつか読む。
綿矢りさの『蹴りたい背中』を持ってきた学生がいた。
ナイスなチョイスである。
冒頭の部分を朗読する。
よいね。
どこがよいのか。
直木賞受賞経験のある女流作家のものを持ってきた学生もいた。
その冒頭を朗読する。
う・・・ん、これはちょっと、ね。
両者の何が違うか。
あのね、綿矢さんはたぶんこの冒頭部分のところに最初はもう数十行多く書いていたと思う。
女子高生が理科室で屈託しているところであるから、それを描写した記述があったはずである。
どうして、意味もなくプリントをちぎるようになったのか、どこからプリントを取り出したのか、どうしてちぎるという行為を選択したのか、それについても、おそらく若干の説明もあったと思う。
でも、書いたあとに、そういうところはざっくり削除した。
削除すると、意味がとおりにくくなる。
けれども、綿矢さんは、この部分は「あまり美しくない」と思ったのである(たぶん)。
テクストが「表現」する意味の深さやメッセージの適法性よりも、その言葉の並びが造形的にあるいは音韻的に「美しいかどうか」を優先的に配慮せずにはいられないことがある。
それがテクストの世界における「神」の機能である。
「何が書きたいのか」よりも「どう書くか」の方をついつい気遣ってしまうこと。
真理を語るつもりではじめたのだが、気がつくと、それをどう美しく語るかに夢中になってしまうこと。
それがテクストを司る「神」である。
ある種の書き手においては、この「神」がたいへん専横であり、ある書き手においてはそれほどではない。
直木賞作家の書き物には残念ながら、「美しく書くことに夢中になっている」という狂気の気配が薄かった。
体温の低い文体であることは、少しも悪いことではない。
「体温の低い文体」というのもやはり書くことを完全に統御したいという「常軌を逸した」欲望の副産物である。
世の中には「自分の狂気を完全に統御したい」という種類の狂気も存在するし、「審美性などに一歩も譲歩しない完全に合理的な秩序を達成したい」という欲望のかたちをとる「美的配慮」も存在する。
けれども、「神」は無意識に機能しているときが、いちばんパフォーマンスが高いのである。
「なんか、この形容詞、画数がうっとおしい」とか「あ、エの音が、続いている。きもちわる」とか、そういう内容と無関係なところでいきなり「神」は「厭なものは、厭」的に断固として介入してくる。
それは美文を書くということとは違う。
意識的な操作ではないからだ。
ということでふたたび幸田文の『父』の一部を朗読する。
『父』はただの看病日誌である。
終戦直後の市川の夏の、やけるような暑さと、病人を介護することの心身の苦労と、物資の不足と、さまざまな生活上の不如意が書いてあるだけである。
それなのに、読んでいると胸がどきどきしてくる。
愉悦を感じる。
美しいからである。
美しく書こうというようなさかしらは書き手のうちに少しもないのに、美しい。
それは「美しい」ということの規矩が身体化しているからである。
みごとな身体所作をする人は、ただ立ちあがって、襖を開けて、するりと出てゆくだけで、吐息が出るほど美しい。
サラ・ベルナールはレストランのメニューを読み上げただけで、同席していた客たちは感動の涙を流したという逸話がある。
何度も書いたことけれど、「ヴォイス」を発見したジュード・ロウくんの場合は、ある日いつものように「死亡記事」を書いていたのだけれど、それを読んだ読者たちがあまりに面白くて、つい読みふけってしまった・・・ということがあって、編集長が「キミは今日から学芸の担当になってね」という配置転換の辞令がおりたのである(知らないけど、たぶん)。
そういうものである。
極端な話、素材なんかなんでもいいのである。
美しければいいのである。
というふうに「作家」は考える。
でも、「登場人物」は違う。
彼らには彼らに固有の抜き差しならぬ「物語内的現実」がある。
それを精密に記述し、それを彫琢し、読者に差し出し、その理解と支援を求めるという「仕事」が登場人物たちにはある。
彼らは「真実」の再現を求める。
作家は「美」への配慮ゆえに平気でそれをざっくり削り込むし、あることないこと書き足してしまう。
すぐれた作品においては、フィクティシャスな人物たちが「真実」を求め、生身の作者が「なもん、どうだっていいじゃねーか」とぶつぶつ言いながら「推敲」の暴力を揮う。
それを私は冒頭で「葛藤」と申し上げたのである。
「身体化した美の規矩」と「現実を圧倒しようとする虚構のリアリティ」がはげしく葛藤するときに、文学はそのパフォーマンスを最大化する。
それを実現していると思われる作品を探してきてください。
というのが今週の宿題。
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(2008-06-21 11:40)