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被害者の呪い

毎日新聞に三ヶ月に一度「水脈」というコラムを書いている。
いささか旧聞に属するが、そこに聖火リレーのことを書いた。
昨日の夕刊に出たので、もうブログに採録してもよろしいであろう。
こんな話。

 オリンピックの聖火リレーをめぐる騒動を眺めていて、いささか気鬱になってきた。何か「厭な感じ」がしたからである。何が厭なのか、それについて少し考えたいと思う。
 熱い鉄板に手が触れたときに、私たちは跳びすさる。「手が今熱いものに触れており、このまま放置すると火傷するので、すみやか接点から手を離すことが必要である」というふうに合理的な推論してから行動するわけではない。たいていの場合、私たちはわが身に何が起きたのかを行動の後に知る。
 聖火リレーにまつわる「厭な感じ」はそれに似ている。
 だから、この論件については、誰の言い分が正しく、誰の言い分が誤っているというような「合理的」なことは申し上げられない。それは「厭な感じ」が議論の内容ではなく、論を差し出す仕方のうちに感知されているからである。語られている政治的言説の当否は私にとっては副次的なことにすぎない。
 私が「厭な感じ」を覚えたのは、たぶんこの政治的イベントに登場してきた人たちが全員「自分の当然の権利を踏みにじられた被害者」の顔をしていたせいである。
 チベット人の人権を守ろうとする人々も、中国の穢された威信を守ろうとする人々も、聖火リレーを「大過なく」実施したい日本側の人々も、みな「被害者」の顔で登場していた。ここには「悪者」を告発し、排除しようとする人々だけがいて、「私が悪者です」と名乗る「加害者」がどこにもいない。
 そんなの当たり前じゃないか、と言われるかも知れない。権利を主張するということは「被害者」の立場を先取することなのだから、と。
 まことに、その通りである。「本来私に帰属するはずのものが不当に奪われている。それを返せ」というのが権利請求の標準的なありようである。それで正しい。困ったことに、私はこの「正しさ」にうんざりし始めているのである。
 近代市民革命から始まって、プロレタリアの名における政治革命も、虐げられた第三世界の名における反植民地主義の戦いも、民族的威信を賭けた民族解放闘争も、つねに「被害者」の側よりする「本来私に帰属するはずの権利の奪還」として営まれてきた。
 私たちが歴史的経験から学んだことの一つは、一度被害者の立場に立つと、「正しい主張」を自制することはたいへんにむずかしいということである。
  争いがとりあえず決着するために必要なのは、万人が認める正否の裁定が下ることではない(残念ながら、そのようなものは下らない)。そうではなくて、当事者の少なくとも一方が(できれば双方が)、自分の権利請求には多少無理があるかもしれないという「節度の感覚」を持つことである。エンドレスの争いを止めたいと思うなら「とりつく島」は権利請求者の心に兆す、このわずかな自制の念しかない。
 私は自制することが「正しい」と言っているのではない(「正しい主張」を自制することは論理的にはむろん「正しくない」)。けれども、それによって争いの無限連鎖がとりあえず停止するなら、それだけでもかなりの達成ではないかと思っているのである。
 私が今回の事件を見ていて「厭な感じ」がしたのは、権利請求はできる限り大きな声で、人目を惹くようになすことが「正しい」という考え方に誰も異議を唱えなかったことである。「ことの当否を措いて」自制を求める声がどこからも聞こえなかったことである。
 「いいから、少し頭を冷やせ」というメッセージが政治的にもっとも適切である場面が存在する。そのような「大人の常識」を私たちはもう失って久しいようである。

「被害者意識」というマインドが含有している有毒性に人々は警戒心がなさすぎるように思える。
以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。
「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人は、ご本人はそれを「個性」だと思っているのであろうが、実は「よくある病気」なのである。
統合失調症の特徴はその「定型性」にある。
「妄想」という漢語の印象から、私たちはそれを「想念が支離滅裂に乱れる」状態だと思いがちであるが、実はそうではなくて、「妄想」が病的であるのは、「あまりに型にはまっている」からである。
健全な想念は適度に揺らいで、あちこちにふらふらするが、病的な想念は一点に固着して動かない。その可動域の狭さが妄想の特徴なのである。
病とはある状態に「居着く」ことである。
私が言っているわけではない。柳生宗矩がそう言っているのである(澤庵禅師も言っている)。
「こだわる」というのは文字通り「居着く」ことである。
「プライドを持つ」というのも、「理想我」に居着くことである。
「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。
もし「私」がこの説明を足がかりにして、何らかの行動を起こし、自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現した場合、その「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになる。
これは前件に背馳する。
それゆえ、一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。
自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。
自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。
「被害者である私」という名乗りを一度行った人は、その名乗りの「正しさ」を証明するために、そのあとどのような救済措置によっても、あるいは自助努力によっても、「失ったもの」を回復できないほどに深く傷つき、損なわれたことを繰り返し証明する義務に「居着く」ことになる。
もし、すみやかな救済措置や、気分の切り換えで「被害」の傷跡が癒えるようであれば、それは「被害者」の名乗りに背馳するからである。
「私はどのような手だてによっても癒されることのない深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させるし、「加害者」に対するさまざまな「権利回復要求」を正当化するだろう。
けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。
「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。

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コメント (23)

raincoatcrowd [TypeKey Profile Page]:

統合失調症はあくまで病気なのでありますから、治療してあげないといけませんです。この話の中で持ち出すのはちと違和感がありますな。趣旨はもっともなことであるだけにもったいない。ご自分の知見を強化したいためには手段を選ばないというのであれば、それは違うのではないかと思う。

モコモコ [TypeKey Profile Page]:

この論旨は、何度か読ませていただいているうちに、ようやく私の「常識」になりつつある感じがします。私だけかもしれませんが、何度も言ってもらわないと身についてきません。アホなので。
今後ともよろしくお願いします。

kotama [TypeKey Profile Page]:

raincoatcrowdさん

ここでの趣旨は、本当は「病気」の前駆症状であるものを「個性」と勘違いしてはいけませんよ、ということではないでしょうか。
おっしゃるように病気は治療する必要があります。
しかし、自分が「病気」であることに気づかない限りそれはできませんので……。

もっとも、難しいのはこの種の「病気」になったとき、そのことに本人は気づきにくいということでしょうね。
昔から信頼できる誰かが存在し、その人に指摘されるならば「病気」に気づくこともある。
しかし、多くの場合は指摘されても「バカにするな」と腹を立てたり、「どうせオレは変だ」と開き直ったりしてしまい、やがて人も自分から離れていってしまい、ますます悪化してしまうような気がします。

個人的には、下記の件を読んでぞっとしました。

>「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。

もしかして、自分では「信念」と思ってきたものが、「呪い」である可能性もあるかもしれない、と。
実際、若い頃の「信念」が、今振り返れば「妄想」であったことが何度も……(汗)。

>>raincoatcrowdさん。
「統合失調症はあくまで病気なので・・・この話の中で持ち出すのはちと違和感がありますな。」
このお話の全体は、人が罹患しやすい精神疾患についてなので・・・。
どうもraincoatcrowdさんの読みとか感想とか、微妙な語の使い方とか、いまでは「懐かしい」人のそれと、すごく似ている気が。なぜ?(笑)

ふれむで [TypeKey Profile Page]:

中華民国の将中正という政治家が以徳報怨と言うことをいった、とならったとき、子供ながら、不思議な気がしたことを思い出します。政治的には、その言葉の分析はさまざまにおこなわれますが、陽明学からみれば、なにかに突き当たるのかな、と考えていますが、時間がない。

三村 [TypeKey Profile Page]:

統合失調症を引き合いに出すのは、やはり乱暴であるように思います。理由は下記のとおり。

1)患者にとり、多くの病名はそれ自体がstigmaである。
2)そそっかしい読み手は、「心がけが悪いと病気になる」
  と誤読することがある。
3)病名でなく「心理的にバランスを崩す」等の言い回しで
  十分主旨は通じる。

内田先生の論旨には全く異議はありません。

knobuki [TypeKey Profile Page]:

ひとたび呪いにかけられると、覚えずその人の中で時が止まり、それと気付かないまま、年月だけが過ぎていく。

呪いをとくのは、笑いかもしれません。不条理を滑稽に感じて笑うとき、止まっていた時が、覚えず再び動き始めるのではないでしょうか。

笑いには、一瞬にして世界を黒から白に反転させるほどの大きな力があると思います。

neko [TypeKey Profile Page]:

ダライラマ法王は間違いなく「自制」を保った人でした。しかしその「自制」の結果、チベットの状況はまったく改善されることなく、それどころか中国による民族同化政策によってチベットという国は無くなりつつあります。

たしかに自制することによって争いの無限連鎖は停止するかもしれません。しかし弱者の声は歴史の彼方に葬り去られ、忘却されることでしょう。これはもっとも悪質な暴力ではないですか?

日本のおフランス哲学者の平和ボケにはほとほと呆れ果てます。レヴィナスもデリダも政治に深くコミットした人たちでした。決して「みんな節度を持って大人になろうよ」などと寝ぼけたことを言った人たちではありませんでした。なぜフランス文学や思想は日本に輸入されると牙を抜かれてしまうのでしょうかね?不思議でなりません。

LINUS [TypeKey Profile Page]:

統合失調と診断されなくとも、それに非常に近い体験を持つ自分としては、「その病名を出す意味合い」がより深く理解できます。「鳥居みゆき」の芸が地上波で流されて、皆それを見て笑っている事の方が驚愕ですが(笑)。

>病とはある状態に「居着く」ことである。

わたしみたいに、簡単に「ごめんなさい」と謝ってしまうのも問題あるけど。プライドなんてぜんぜんないし。

本当に自分が悪いとおもってるんですよ。(その時は)

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

ちわ!
トーゴー失調症のイカフライです。(*ー_-)

台風2号が日本列島の南をかすったので磯ノ浦に外洋からのうねりが入り、内田大先生のブログを見るヒマがないくらい忙しかった。
ほぼ十年に一度というパーフェクトなうねりが五月の晴れた空の下、二キロにわたって磯ノ浦の弓状の湾岸の隅から隅まで広がっていた。
右からの完璧な崩れ方は壮観の一言。
巨大な波に二時間乗ってはへとへとに疲れ、昼寝をしてまた午後から海原へ。その繰り返しで真っ黒に日焼けしてしまった。

さて、内田大先生さんは相変わらずアホウなことを言ってますな。
かってに他人を「被害を申し立てる者」にしちゃまずかろうに。ましてチベット問題では「被害」なんかだれも訴えてはいない。
被害とかそういうことではなく、単純に平和を訴えている素朴な心持ちの人たちだと思いますがね。
なかには〈平和マニア〉もいるかもしれないけど。
内田大先生さま、いつも「定型」を固陋に断定=仮説?してくるのはむしろあなたの傾向性のように思われるのですが、医者の不養生といいます。
どうかお脳の方、お気をつけて。ま、
まともに反論するのもはばかれる。
しょせん、神戸女学院あたりの先生のレベルはこの程度ってことでよろしいでしょうか?

では、おあとよろしいようで。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

あ!\(・o・;)!
いま気がついたけど「被害者の呪い」があるなら、「加害者の愉悦」っちゅうのもあるんじゃにゃいのσ(・.ー;)?

内田ダイセンセーは「被害者」に固執しすぎるところがあるようなので、できれば「加害者」の愉悦についても、すこし語って欲しいなー。ボク的には。(o_ _)ノ彡☆

bribribrizauemon [TypeKey Profile Page]:

なぜ”被害者を守る善良な私”な人たちに”被害者椅子取りゲーム”の人たちはボラれ続けながら、彼(彼女?)達には罵詈雑言をぶつけないのでしょう。

やればいいのに。

あと、”加害者椅子取りゲーム”な人たちも確かにいますよね。

そのまんま東とか亀田一家とか。

”そのまんま東のはげ頭は頭を下げる効果の最大化を狙った演出では?”なんて思ってしまいます。

自らの利益の為、悪いことをしてとがめられなければ得するし、とがめられても頭を下げたら下げたで男が上がる。

何故なら、それを許す人たちは、自分が”そういうこと”ができるチャンスに”奴らもやっていた"というエクスキューズを通すために許しているからで・・・

困りました。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

内田さんと、内田さんのコメントを無批判に受け止めている方々に一言、申し上げておきたい。
聖火リレーのような機会を利用して中国政府によるチベットへの弾圧を非難する行動は、平和メッセージを世界に投げかける、ごくあたりまえ単純な行動として、まずは単純素朴に受け止めるほうがいいとおもう。
それを「被害者意識の発露」とだけ読むようなうがった見方もあるだろうが、それは、ふつうでない読み方であるという自省のもとに、一歩下がって謙虚に語られるべきだと思う。

でなければ世界の基底にある精神の健全性が破壊される。

わたしたちはまずは単純素朴にあのような行動を、平和を望む人たちのやむにやまれぬ行動だと信じたほうがいいのだ。その上で、二次的、三次的に側面から補う見方として内田さんのような考え方をするのならばわかる。
しかしそれがまるでメインになってしまってはいけないと思う。
悪いがそのような精神のあり方は「ふつう」ではない。
ましてや「自分自身にかけた呪い」云々という語りのおどろおそろしさには眉をひそめたくなる。
人間はそんなに身動き取れなく措定する人の複雑な精神というものを想像するだに怖気を感じる。
内田さんの思想はあまりにも強迫的、かつ神経症的で、あまりほめられたものではない。

わたしは正直、聖火リレーにことよせてフランスやら韓国やらで中国政府批判の声を上がったことにほっとした。
まだまだ人間ってムダを承知で、やむにやまれずそういう声をあげる人がいるのだなと。
だれもが黙っている社会が到来したとばかり思っていた。
でも人間はそう捨てたものじゃない。
そう思うふつうの精神を忘れてはいけないような気がする。

midi [TypeKey Profile Page]:

>「被害者である私」という名乗りを一度行った人は、その名乗りの「正しさ」を証明するために、そのあとどのような救済措置によっても、あるいは自助努力によっても、「失ったもの」を回復できないほどに深く傷つき、損なわれたことを繰り返し証明する義務に「居着く」ことになる。

モンスターペアレンツと呼ばれる人たちも、「呪い」から逃れられずにいる人たちなわけで、この親たちから「被害に遭っている」と考える教育現場の方々も、きっと「呪い」にかかっているんですよね。
「繰り返し証明する義務」という袋小路から、誰もが抜け出せなくなっている。日常のあらゆる場面で。

顔を上げて前を向いて歩いていこうって、思いました!

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

べつに顔を上げて前を向いて歩かなくてもいいじゃないの?
人間は下を向くこともあるし、後ろを振り返ることもある。
わたしたちには「こうしなければならない」ようなものなんてひとつもない。
「こうしなければならない」という言説を振りまくような人を信じてはいけませんね。
しかし、困った、いやな世の中になってきたなあ。
とんでもないのが人気を得て跋扈しだす。
いや、困った。

>>三村さん。
乱暴な言葉使いは避けたいと考えていらっしゃるみたいですね。
ですが、
1)多くの病名はstigma――と主張されると、言葉狩りの側に立ってしまいませんか? また、「stigma(恥辱・不名誉)」という言葉が採用されている苦情(?)は、弱者として自分の不幸を妄想する主体に「現代」を読もうとする文脈の一部となり、苦情(?)としての外部的な他者的な意味を失い、むしろ補足・強化しているとさえ思われるのです。
さらに、
3)「心理的にバランスを崩す」等の言い回し――では十分主旨が通じるとは思われません。なぜなら聖火リレーをめぐる騒動を例にとり、文脈は、統合失調症を現代社会のひとつの特徴として描きだそうとするからです。この場面での先生の過激さには、統合失調症という病名はむしろ不可欠でしょう。
もちろん「2)そそっかしい読み手」とは、おれのことかと自覚(笑)。

hiroshi [TypeKey Profile Page]:

ここに頻繁に被害者であることを訴えている方もやはり自分が「よくある病気」であることをわかってしまっているんですよね。きっと。
それでもやめられない。
だから病気なんですよね。

でもたとえそれが病気だとしても、その本人にとってそれが幸せなのであれば、周りの人がそれを咎めるのはむずかしいですよね。

だってその状態がじぶんにとって一番幸せだと感じているんだから。

三村 [TypeKey Profile Page]:

>誤読しらずさん
レスをありがとうございます。
はて。何を申し上げると不毛なやりとりにならずに済むでしょう。
うーん。
まず、stigma につきましては、
焼き印、烙印という意味を込めております。
受け手によって、せっかくできたカサブタがむしられてしまうような、どぎつさを与える言葉が存在するのは事実であると思います。そのような言葉の使用をいつでもどこでも禁止するならば、おっしゃるように言葉狩りでしょう。

しかし。言葉は大昔から、惜しみ惜しみ、ためらいがちに使われてきたものではありますまいか。言葉を控えるという言い回しは数百年来、日本中で聞かれてきたことでしょう。

文章は、多くの人々の目にふれるものならば、なるべく
「治療的」であってほしい。過激さなど、なくてもよい。
そう強く願うのは、もちろん個人的・生理的な資質から
発するものであり、他に根拠はありません。

ねんねこ飯店 [TypeKey Profile Page]:

国際社会は善であり、未来永劫純心無垢であり、悪いことは常に国際社会外で行われるという認識。これは地球をあまねく覆うベールのようで可変的なドーナツ状の空間である。紛争が起これば穴があき、国際社会が対処すべき局所的な悪を感知する。地理的にはヨーロッパ、北アメリカに偏っており、アフリカ、中東諸国は除外される。「国際」はイメージの中であって、幻想的で、ストーリー性に富み、遍在し、しかも王様は不在だから国際社会を構成する国々は責任を回避できる。国際社会は中国がオリンピックを通じて国際社会の一員になることを望まなかった。騒動のループ状の伝播は、国際社会という、国連でもG7でもない、象徴的な統治機構出現の宣言であった。「チベットに自由を」と訴えた大部分の人々は、チベットがどこにあるかさえ知らなかった。見かけ上は団結して、国際社会の純粋さの保持を目的に平和を訴えた。国際社会が考える不純さとは、一にイスラム。二に共産主義である。純粋さとは、一にキリスト教、二に資本主義である。

>>三村さん。
言葉をつないでいただいてサンクスです。
乱暴な言葉使いは避けたいという読みが、逆説的に、乱暴な読みに転化してる可能性は?――というのが、こちらのコメント内容でしたけど。
「そう強く願うのは、もちろん個人的・生理的な資質から発する」
のご発言に(再度?)ふれて、三村さんに確立された世界が少しだけ再現できました。おれのようなガチャついた者が口をはさむ余地もないって感じ。申し訳ありません。
>言葉は大昔から、惜しみ惜しみ、ためらいがちに使われてきた
>なるべく「治療的」であってほしい。過激さなど、なくてもよい。
など、こちらにも理解できるものがありました。インフレを起こしつづける言葉に味気ない空虚しか読めず、何気ない日常描写に、ふと身もだえさせられたりしています。
ですが一方、『ラカンはこう読め!』(なかなか読めず、そろそろページが黒くなってます)では、ジジェクやラカンの言葉はかなり過激です。クリシェを突き破り、盲点に入って見えなかったものを引きずり出し、ひらいて並べ、サンマやイカを露天干しにした砂浜みたいな「暴力的」な記述に気がつき感動させられます。不用意に書いた「過激さ」とは、ただ用語の問題でもないのでした。言い尽くせませんけど、長文は迷惑。
ではでは、このへんで。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

ちょっと気になったので「統合失調症」についてかんたんに調べてみた。
100人に一人の割合でその傾向の病に苦しんでいる人がいるんですね。妄想からやっと抜け出して働いている人もいるがなかなか社会復帰がむつかしいらしい。
本人は一生懸命働いても動作や返事がのろのろしているように見えるらしい。
さぼっているとみなされてすぐにやめる。長続きしない。
いわばある意味で社会的な健全性から排除された「弱者」である。
内田樹はこういう人たちの病態を取り上げ、他に当てはめて口汚く罵るための道具に使っているが、なぜだろう?
内田樹は自分が「統合失調症」かもしれないと自身を疑ったことが一度もないのだろうか?
100人に一人が統合失調症であるということは脳梗塞の罹患(らかん)率よりも多い。
わたしなんかは、おまえは統合失調症だとだれかにいわれたとしても別におどろかない。
現代に生きる以上、そのような精神の失調はだれにも必ず生じているはずだからだ。
そもそも「言葉を使って思想を語る」という行為が精神の失調を回復する仕草の一つではないか。
内田はそれがわかっているのか?
それともレヴィナスには統合の失調がなかったとでも?
哲学者の多くは統合失調症であるとわたしは思っている。
レヴィナスは著書をデリダに批判されて思想の再構築をめざしたと
ウィキペディアに書かれているが、そような心の動き、つまり真理をだれよりも深く究めたいという欲望は、
おいしいものを誰よりもたくさん食べたいとか、
だれよりも美しいいい女と付き合いたいという欲望とどう違うのか?
ベクトル(方向と力)としてはまるっきり同じなのだ。
わたしたちはなにか哲学思想への欲望を崇高なことのように考えているが
欲望のベクトルとしては美しい女やおいしい食物への指向性となんらかわりがないのだ。
ほんとは、適度な料理で満足し、ふつうの容貌の女性で満足することが異常ではない普通の精神なのだ。
それと同じで哲学思想もほんとはベクトルがないほうがいい。
レヴィナスのように真理を極めたい、だれよりも深い思索に到達したいというような欲望のもとに書かれた思念は、
その思想内容の当否の前に、
やはりとんでもなく統合の失調したおかしなものにしかならないのだ。
内田は被害者ヅラする人たちを「統合失調症」として断罪するまえに、
自分がいったいどこに立ってどれほどおかしなことを言っているか
よ~く振り返り、その立ち位置からこそ語るべききだろうと、
他称トーゴー失調のわたしはいっておきたいとおもうよ。
あ、それから低脳内田信者なんか、言うだけ無駄だろうからおまえら信者はこのコメント読む必要、ないよ。


deprassion [TypeKey Profile Page]:

病について
プライドの高い人は,その「理想我」を何者かに奪われたと思い込み,「被害者にさせられる」=「理想我を返せという権利請求を簒奪者でない他者(簒奪者は事実上不在なのだから)に向けて開始する」ことによって病む。この受動性かつ能動性は同じことの二面性であり,弁証法的にことの順番が決定しているのではない。被害者にさせられた者はさせられたことの身振りをパフォーマティヴに示すために権利請求をせざるを得ない状態であるかのように自ら行為するのであるし,また権利請求を口にし始めるや否や,もともと無かったはずの「理想我」が自分より強大で邪悪な他者により簒奪されたかのように振る舞い,いつまでたっても,自分の想像できる限りでの強大さや邪悪さを現前する被害者であるかのように振る舞わされ続けるのである。自分ではどうにもならないと嘯いて被害者のポジションを先取りするのだ。このことはこの病に触れた他者を哀れませたり,仕方の無い出来事だと諦めさせたりもする。だがしかし,この病はこの世界においては有用性を見出すことができるように思われる。この病んでいるものの「顔」を見てしまった他者は,哀れんだり,仕方なさを感じたりもするだろう。それだけでなく「厭な感じ」を受けもするだろう。時間が経てば経つほどに,病んだものが病みをパフォーマティヴに現前させ続けるほどに,より強く「厭な感じ」受けるはずなのである。この「厭な感じ」はメディアにのって伝染する。そして,病んだものの前にこの「厭な感じ」を表明した他者が,まるで権利請求でもするかのように現前するのだ。しかしこれも束の間である。「厭な感じ」を表明した者は,この件に関する「厭な感じ」を保とうとするエネルギーがあるはずも無く,一度,病んでいるものの「顔」に曝されてしまったのではあるが,「あーあほくさ。これは法外な権利請求だったのかなあ」とその「厭な感じを表明する権利請求」を自制するようになる。いや,正確には自制する振りをするのである。自制する振りをすることで病んでいるものの「顔」にはそもそも曝されてはいなかったのだと,意識下に抑圧していくのだ。一方,一旦は「厭な感じ」を表明されはするが,そのうちすっかりと忘れ去られてしまった病んだ者は,「理想我」を簒奪したものが強大であることを証明しようとする他者を失い,また邪悪な者がいるはずだと騒ぎたて続けても「また狼(邪悪)少年が来た」と思われるだけであり,病むことに意味を失うのである。「厭な感じ」を表明した者はその権利請求を自制することで「大人」になり,病んでいたものも,癒される。だって,「理想我」の簒奪者が強大で邪悪である証明をしてみせなくてはならないはずの当の相手が事実上いなくなってしまったことになったのだから。Depressionの私がいうのだから間違いないと思うのだが・・・(こうして被害者のポジション争いは止むことが無いのである。続く)

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2008年05月13日 11:56 に投稿されたエントリーのページです。

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