御影駅からリッツカールトンにゆく途中で考えたこと

2008-05-04 dimanche

養老孟司先生が書評で取り上げてた月本洋『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ、2008年)を読む。
御影駅の待合室でぱらりと開いて、「私は人工知能の研究をしていたが、数年前に人間並みの知能を実現するには『身体』が必要であるという考えにいたった。」(4頁)という箇所を読んで、思わず「おおおお」とのけぞってしまった。
同じことを二年前の正月に気錬会の工藤くんから聞いたことを思い出した(彼もロボットの研究者である)。
そのときはそれが非常に重要なことであることはわかったのだが、どういうふうに武道の稽古につなげればいいのかよくわからなかった。
そのあと池谷裕二さんと対談したときにミラーニューロンの話を聞いて、学習というのが決定的に身体的な経験であることを教えていただいた。
それから島﨑徹さんと出会い、その指導を見て、身体図式のブレークスルーは知的なブレークスルーと同期するということについての確信が深まった。
そして、この本を読んでいろいろなことが繋がった。
月本さんによると、最近の脳科学の実験により、「人間はイメージするときに身体を動かしている」ことがわかった。
月本さんはこれを「仮想的身体運動」と呼ぶ。
「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」(4頁)ということである。
書き手と読み手の「身体的な(要は「脳的な」ということだけれど)同期」が「理解」ということの本質であるという月本説は、「身体で読む」私にはたいへん腑に落ちる説明である。
ミラーニューロンによって、私たちは他人の行動を見ているときに、それと同じ行動を仮想的に脳内で再演している。
その仮想身体運動を通じて「他人の心と自分の心」が同期する(ように感じ)、他人の心が理解できる(ように感じる)のである。
子どもの場合は、「母親の身体動作を模倣することで、自分の脳神経回路を母親の脳神経回路と同様なものに組織化してゆく」(121頁)。
子どもにおける「自己の形成」とはその組織化プロセスのことである。

「まわりの他人の動作の模倣を繰り返すことによって、子どもは自分の脳神経回路を、まわりの人間(大人と子ども)の脳神経回路と同様にすることによって、自己を形成してゆく。すなわち、まわりの他人の心を部分的に模倣して組み合わせることで、自分の心を作っていくのである。」(121頁)

こういう書き方をするとまだ「主体と他者」という二元論の枠内であるけれど、実際には、「主体」という機能自体が模倣の効果なわけであるから、最初にあるのは「模倣する主体」ではなく、「模倣それ自体」なのである。
だとすれば、「人間を中心に据えるのではなく、複写(模倣)を中心に据えて考えたほうが適切ではないだろうか。」(126頁)
他人の心を私たちは仮想身体運動を経由して理解したつもりになっている。私たちは他人の心に直接触れているわけではない。
しかし、では私たちは自分の心になら直接触れているということは言えるであろうか。
月本さんは、私たちは結局自分の心についても、「他人の心」の場合と同様に「理解したつもり」になることしかできないのではないかと示唆している。

「私はどこまで自分を理解できるのであろうか。自分はそんなに自分のことを理解しているのであろうか。あまりよくわかっていないのではなかろうか。さきほどまでの理解によれば、自分というものは、他人の視線、表情、身体動作を模倣し、それを通して、神経回路を訓練してイメージを作るという作業を、何万回も繰り返して作り上げたものである。とすると、自分も、非常に多くの他人の一部を複写して、足し合わせたようなものではなかろうか。
 すると、自分とは多くの他人の一部を複写して作り上げたものなのだから、基本的には他人と同じ程度にしか理解できないのではなかろうか。(…)
自分というものは、そんなに秘密なものではない。自分は他人の模倣を通してしか作れないのであるから、その出発点からして社会的なのである。自分とは原理的に社会的なのである。社会的でない自己は、ある意味で壊れた自己である。それは自己として機能しないし、自分にとっても理解不可能な自己となる。」(133-134頁)

私はこの月本さんの「自己」の定義に深く同意する。
クリエイティヴ・ライティングの授業では、「どう書けば、言葉は読者に『触れる』か?」という原理的な問題を先週から扱っている。
言葉が読み手に触れるのは、書き手と読み手のあいだの「同期」が成立するときなのだが、同期がうまくゆくのは、書き手が「自分を完全に理解している」からではない。
そうではなくて、「自分が何を考えているのかよくわからない」という事況にまっすぐ向かうことによってである。
このときに書き手は「書き手である私自身の言動」に仮想身体運動をつうじて同期しようとしている。
そのとき書き手と読者は「書き手である私(というよくわからない人)」に対して、「仮想身体運動でそれに同期しようとする人」という点で同じポジションにいる。
読んでいるときに、ふと書き手が私のすぐかたわらにいて、その息づかいまで感じられる愉悦的な瞬間が訪れることがある。
それは書き手自身が自分を「二つに割って」、その一つを遠景に置き、その一つを読者と同じライン上に置くことによって達成されているのではないか。

電車の中で本を読みながら、そのようなことを考えながら、「邪・魔女」サトウの結婚式のためにリッツカールトンに出かける。
サトウはご案内のとおり、私が教組をつとめる宗教法人(うそ)「邪道」の高位聖職者である。
結婚式にはサトウのさまざまな武勲を知る人々が集まっており、その話で盛り上がる。
その血塗られた武勇伝についてはそれをリークした人々の身の安全のためにも、このような場で公開することができぬのであるが、私が二十歳のサトウにはじめて会って以来「授業に出ていただく」「卒論を書いていただく」「ご飯につきあわせていただく」という「いただく」的態度で終始したという事実から推しても、その「威圧感」の差は窺い知れるのである。
式後、えりりん、ピロコ、おばけちゃんたちゼミの同期生たちとお茶。
みんなたいへん魅力的でパワフルな女性に成長されていて、老生はうれしいです。
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