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御影駅からリッツカールトンにゆく途中で考えたこと

養老孟司先生が書評で取り上げてた月本洋『日本人の脳に主語はいらない』(講談社選書メチエ、2008年)を読む。
御影駅の待合室でぱらりと開いて、「私は人工知能の研究をしていたが、数年前に人間並みの知能を実現するには『身体』が必要であるという考えにいたった。」(4頁)という箇所を読んで、思わず「おおおお」とのけぞってしまった。
同じことを二年前の正月に気錬会の工藤くんから聞いたことを思い出した(彼もロボットの研究者である)。
そのときはそれが非常に重要なことであることはわかったのだが、どういうふうに武道の稽古につなげればいいのかよくわからなかった。
そのあと池谷裕二さんと対談したときにミラーニューロンの話を聞いて、学習というのが決定的に身体的な経験であることを教えていただいた。
それから島﨑徹さんと出会い、その指導を見て、身体図式のブレークスルーは知的なブレークスルーと同期するということについての確信が深まった。
そして、この本を読んでいろいろなことが繋がった。
月本さんによると、最近の脳科学の実験により、「人間はイメージするときに身体を動かしている」ことがわかった。
月本さんはこれを「仮想的身体運動」と呼ぶ。
「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」(4頁)ということである。
書き手と読み手の「身体的な(要は「脳的な」ということだけれど)同期」が「理解」ということの本質であるという月本説は、「身体で読む」私にはたいへん腑に落ちる説明である。
ミラーニューロンによって、私たちは他人の行動を見ているときに、それと同じ行動を仮想的に脳内で再演している。
その仮想身体運動を通じて「他人の心と自分の心」が同期する(ように感じ)、他人の心が理解できる(ように感じる)のである。
子どもの場合は、「母親の身体動作を模倣することで、自分の脳神経回路を母親の脳神経回路と同様なものに組織化してゆく」(121頁)。
子どもにおける「自己の形成」とはその組織化プロセスのことである。
「まわりの他人の動作の模倣を繰り返すことによって、子どもは自分の脳神経回路を、まわりの人間(大人と子ども)の脳神経回路と同様にすることによって、自己を形成してゆく。すなわち、まわりの他人の心を部分的に模倣して組み合わせることで、自分の心を作っていくのである。」(121頁)
こういう書き方をするとまだ「主体と他者」という二元論の枠内であるけれど、実際には、「主体」という機能自体が模倣の効果なわけであるから、最初にあるのは「模倣する主体」ではなく、「模倣それ自体」なのである。
だとすれば、「人間を中心に据えるのではなく、複写(模倣)を中心に据えて考えたほうが適切ではないだろうか。」(126頁)
他人の心を私たちは仮想身体運動を経由して理解したつもりになっている。私たちは他人の心に直接触れているわけではない。
しかし、では私たちは自分の心になら直接触れているということは言えるであろうか。
月本さんは、私たちは結局自分の心についても、「他人の心」の場合と同様に「理解したつもり」になることしかできないのではないかと示唆している。
「私はどこまで自分を理解できるのであろうか。自分はそんなに自分のことを理解しているのであろうか。あまりよくわかっていないのではなかろうか。さきほどまでの理解によれば、自分というものは、他人の視線、表情、身体動作を模倣し、それを通して、神経回路を訓練してイメージを作るという作業を、何万回も繰り返して作り上げたものである。とすると、自分も、非常に多くの他人の一部を複写して、足し合わせたようなものではなかろうか。
 すると、自分とは多くの他人の一部を複写して作り上げたものなのだから、基本的には他人と同じ程度にしか理解できないのではなかろうか。(・・・)
自分というものは、そんなに秘密なものではない。自分は他人の模倣を通してしか作れないのであるから、その出発点からして社会的なのである。自分とは原理的に社会的なのである。社会的でない自己は、ある意味で壊れた自己である。それは自己として機能しないし、自分にとっても理解不可能な自己となる。」(133-134頁)
私はこの月本さんの「自己」の定義に深く同意する。
クリエイティヴ・ライティングの授業では、「どう書けば、言葉は読者に『触れる』か?」という原理的な問題を先週から扱っている。
言葉が読み手に触れるのは、書き手と読み手のあいだの「同期」が成立するときなのだが、同期がうまくゆくのは、書き手が「自分を完全に理解している」からではない。
そうではなくて、「自分が何を考えているのかよくわからない」という事況にまっすぐ向かうことによってである。
このときに書き手は「書き手である私自身の言動」に仮想身体運動をつうじて同期しようとしている。
そのとき書き手と読者は「書き手である私(というよくわからない人)」に対して、「仮想身体運動でそれに同期しようとする人」という点で同じポジションにいる。
読んでいるときに、ふと書き手が私のすぐかたわらにいて、その息づかいまで感じられる愉悦的な瞬間が訪れることがある。
それは書き手自身が自分を「二つに割って」、その一つを遠景に置き、その一つを読者と同じライン上に置くことによって達成されているのではないか。
電車の中で本を読みながら、そのようなことを考えながら、「邪・魔女」サトウの結婚式のためにリッツカールトンに出かける。
サトウはご案内のとおり、私が教組をつとめる宗教法人(うそ)「邪道」の高位聖職者である。
結婚式にはサトウのさまざまな武勲を知る人々が集まっており、その話で盛り上がる。
その血塗られた武勇伝についてはそれをリークした人々の身の安全のためにも、このような場で公開することができぬのであるが、私が二十歳のサトウにはじめて会って以来「授業に出ていただく」「卒論を書いていただく」「ご飯につきあわせていただく」という「いただく」的態度で終始したという事実から推しても、その「威圧感」の差は窺い知れるのである。
式後、えりりん、ピロコ、おばけちゃんたちゼミの同期生たちとお茶。
みんなたいへん魅力的でパワフルな女性に成長されていて、老生はうれしいです。

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コメント (26)

雪国のTT [TypeKey Profile Page]:

内田先生今晩は。今日の朝日新聞の日曜版というのでしょうか(私は「みどビー」と呼んでいますが)そこに漏れる動作というのがあってメニューを一緒に見る人たちの動作というのが出てました。そこに今日の先生のブログで面白いなあと思ったのです。身体というのはずっと「口ほどに物を言い」続けているのでしょうね。考えることがいっぱいあります

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

ほかのことならともかく、内田先生が文章やことばについて語るのは、ちと荷が重過ぎるような気がします。

いつの日かのあなた [TypeKey Profile Page]:

こんにちわ、毎度毎度膝をうちながらこちらのブログを拝見させていただいているものです。

ぼくはフッサールの現象学が大好きなのですが、その独我論ともいわれるものの最大の弱点が、今回のお話にあった「他者ありきの自己」という所なのでしょうか。たしかに、他者がなければ自己なんて成立しようがない(だからといってフッサール現象学の価値がさがるわけではないと思いますが)。

20世紀からずーっと注目され続けていることですが、これからも、「身体」と「他者と自己の不可分性」というのは、大事なテーマなのでしょうね。もしくは、見失われてきたからこそ、その重要性がうたわれるようになってきたのかもしれませんが。

morinohito [TypeKey Profile Page]:

内田先生、いつもありがとうございます。

読者との同期、という言葉を「ターゲッティング」といったビジネスのワーディングで語ってしまうとどうしても、「仮想的な大衆」(F1層だとか、団塊、団塊ジュニアといった世代類型論ですね)を想定してさらにその典型的な思考、嗜好に媚を売るような発想になってしまいがちです。けれど内田先生の仰る内容はまったく違いますね。乱暴にまとめれば「わたしという未知に共に分け入っていくこと」を読者と分かち合う、ということになるのでしょうか。

ミラーニューロンに関しては、学習効果は別としても、例えば「目の前のひとが苦しむ様子」に共感してしまう(それは傍観者にとっても苦痛でしかないので)ことでそれを忌避する傾向が生まれる、といった倫理的な発想しかありませんでした。言語と身体を結ぶ可能性、じっくり検討してみたいと思います。

話は少し変わりますが、山本五十六の教育論というのがありますよね。

「やってみせ、言って聞かせてさせてみせ、ほめてやらねば人は育たじ」

っていう例のアレです。コレって、「最近の新人はここまで教えてやらなきゃぜんっぜん動こうとしないんだよ!」という先輩社員のグチとして登場することの多い格言かと思うのですが……正解、なのだと思います。科学的な発見が、賢い人の経験則を裏付けるケースって結構ありますよね。内田先生に教えていただいたラカンの「欲望は他者の欲望である」もまた然り、というか、ミラーニューロンの話を先に仕入れていたクチとしては、うわわわわ!と衝撃的に襲い掛かってきたものでした。

問題は、人は学ぶ前の己を致命的に忘却する、という点でしょうか。

knobuki [TypeKey Profile Page]:

はじめまして。コメント欄も含め、内田先生のブログをいつも楽しみに読んでおります。

今まで何となく分かるような分からないような感じがしていた内田先生の言わんとするところが、清水博先生のインタビュー記事を読んで、すとんと私の中に落ちてきた気がしました。世の中には、同じようなことを考える人がいるものですね。さまざまな意見を対立させるのではなく重ね合わせることで、思索をより深めることができると思います。

http://www.so-net.ne.jp/tokyotrash/_media/shimizu/media_shimizu.html

内田先生のお好きなマージャン、合気道、茶道、そして大学でのゼミ、これらは全て”場を共有する”もの。他の誰でもなく、そこに集う人々が相互に働きかけることによって場がつくられ、各々が努力して場を継続していくのですね。

このブログの読者のみなさんにも興味をもっていただけると思いますので、長くなりますが清水先生の別のインタービュ記事を以下に引用させていただきます。


私は大学時代、先生に「薬学部は、薬だけではなく、薬が作用する人間について同時に研究すべきです」など、よく生意気なことをいいました。しかし、先生は否定をせず、話を聞いて受け止めてくれました。気取らずフランクに自分を表現したときに、否定せず一つの考え方として受け止めてもらえると、自信が生まれ、成長の糧にもなります。ですから、そういう仲間を作ったらよいと思います。
 そして、できれば輪を広げていってください。ネットワークが広がり深まっていくと、ネットワーク内でコミュニケートされる情報のレベルは上がり、存在に直接関係する情報が交換できるようになります。これを「場の情報」といっているのですが、今のインターネットやメールというツールは、表現の仕方によっては誤解を生んでしまうため、正しく伝えられません。今の皆さんは、会うことによってチャンネルが開かれていくと考えていただけばよいと思います。
 場の情報を伝える方法は、未来の社会、科学技術の課題になっていくと思います。

http://www.goipeace.or.jp/japanese/activities/news/2007/0710_00lecture.html

ポール [TypeKey Profile Page]:

いつの日かのあなたさんへ
「独我論」を論破するのは簡単です。
いきなり「ポカリ」と殴ってしまえばよいのです。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

>いつの日かのあなたさんへ
「独我論」を論破するのは簡単です。
いきなり「ポカリ」と殴ってしまえばよいのです。


フッサール「現象学」のどこが〈独我論〉なんだ?
フッサールも知らないで表層をなでたような俗論をもってくるのはどうかなとおもうよ。

それはともかく、そもそも〈独我論〉はぽかりと殴って論破できるというように、突如〈身体性〉を〈ことば〉の場へもってくることが正気だとでも思っているのだろうか?

なんどもいうように内田樹の思考はどこまでもズレている。
アクロバットのあまりそのズレに気がつかなくなってはおしまいだ。
ときにはポール氏のような非常に愚かな考え方を蔓延させることになる。

たとえばぼくたちは「何が一番おいしいか」という議論において、いつも最強の答えを見つけ出そうとするが、その手の議論には果てがなく、しまいには疲れ果てて飽きがくる。
そこでいつもある種のズレというか誤謬をともなって考え出されるのが以下のよな内田的アクロバットだ。
「腹が空いたときは何でも一番美味いのだ!」
この答えはたしかに正解ではあるが、最初の問いとは微妙にズレていることに気がつかなければならない。
そしてこの答えは一瞬、新鮮な驚きをもって迎えられるが、やはりすぐに飽きられるのだ。
なぜならこの答えは当初の設問にいっさい答えを与えることができないからだ。
「何が一番おいしいか」という問いはじつは唯一の正解を求めるような類の設問ではないこと。そのことを知ることにじつは重点が置かれているからだ。
世の中にはそのようなことが一杯あるのに、内田樹はいつもそれに無理矢理、最強の答えを与えようとして無理をしている。


bun [TypeKey Profile Page]:

おはようございます。

ははあ、そのような女性を育てておられるのですか。そんな女性を受け入れなければならない社会の身にもなっていただきたい(笑)。

履歴書に「内田ゼミ」出身と書くだけでその文言が有形無形のパワーとなって働く日が近づいている気がいたします。

・・・

阻止せねば(笑)。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

いまの日本はもはや「殺し合い」の世でしょ。
だれが野垂れ死にしようと自殺しようと公園に遺棄されようといっさい頓着なく人を引き摺り下ろし、人を押しのけ人がどのように死のうと一ミリとも感じないくせに、そ知らぬふりでヒューマンな装いや倫理的な言説だけがふわふわ浮いている。
もう、いい加減にしようよ。
おれたちは人殺しで、だれが死のうと知ったことではなく、憲法改悪反対や戦争反対や差別反対を掲げながら平気で異者を排除し、差別し、うわっつらだけのいいかっこしいだってことを。

そんななかで内田樹のブログにて「おれたちの頭脳はこんなに鋭いぞ。こんなに豊かな感性でもモノを観察してんだぞ」って自慢し・合い、褒めあうことのどこにどんな意義があるの?
パワフルな婆ぁを育てることがなんだってのよ?
しょせん、関西あたりのことだから、せいぜい船場吉兆の社長のような目のぎょろついた婆を育てるだけのことじゃないの?
うん? 大先生。

ポール [TypeKey Profile Page]:

いつの日かのあなた さん
わたしの哲学的立場は
「プディングの味は食べて見なければわからない(エンゲルス老師)」唯物論です。

でもまだまだ「青かった」
神は妄想である リチャード・ドーキンス著
http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/112163.html
人はなぜ神という、ありそうもないものを信じるのか? なぜ宗教だけが特別扱いをされるのか? 「私は無神論者である」と公言することがはばかられる、たとえば現在のアメリカ社会のあり方は、おかしくはないのか……『利己的な遺伝子』の著者で、科学啓蒙にも精力的に携わっているドーキンスはかねてから宗教への違和感を公言していたが、本書ではついにまる1冊を費やしてこのテーマに取り組んだ。彼は科学者の立場からあくまで論理的に考察を重ねながら、神を信仰することについてあらゆる方向から鋭い批判を加えていく。宗教が社会へ及ぼす実害のあることを訴えるために。神の存在という「仮説」を粉砕するために…… 古くは創造論者、昨今ではインテリジェント・デザインに代表される、非合理をよしとする風潮が根強い今、あえて反迷信、反・非合理主義の立場を貫き通すドーキンスの、畳みかけるような舌鋒が冴える。発売されるや全米ベストセラーとなった超話題作。

聖書研究の第一人者が下した最終結論!
『破綻した神 キリスト』
著者: バート・D・アーマン=著 松田和也=訳
http://www.kashiwashobo.co.jp/cgi-bin/bookisbn.cgi?isbn=978-4-7601-3333-8
内容: 全知全能の神がいながら、なぜこの世から苦しみや悲しみがなくならないのか。ホロコーストやカンボジアの大虐殺は神の意思なのか。──聖書研究の第一人者である著者が、キリスト教教義の成立過程を考察し明らかにしていく、その矛盾・欠点・問題点。悪いのは神なのか? 人間なのか? そして著者のキリスト教信仰を捨てさせた、その理由とは?

うちの両親が「法事をやらなかったのは単にお金が無かったから」という理由」なのですがね。

茶々 [TypeKey Profile Page]:

最終回(完全版#5)『愚よ愚よ汝をイカに戦記』by 茶々 (あらかじめご注意申し上げておきますが、ここは本当に危険ですので、しばらくの間、私以外の方は書き込みをしないでください。その理由を知りたい方は、宮崎駿のコミック版『風の谷のナウシカ』第7巻をどうぞ!)

#1

え? もう終わりかよ。うん。あんだけ引っぱっといて、ナンダヨー。まっ、最終回ですべての謎が解けますからご安心を... ふふふ。ところで、最終回のお楽しみの「答え」は、『わかりません』でした。えええええええええ! 何それぇ?!  いわゆる「ひっかけ問題」ってやつですね。『すみません』でした。つまりー、

すでに啓蒙されている虚偽意識であるシニシズムには、説得という「知」による教化は不可能なんです。なぜなら虚偽(嘘)だとわかっていて、わざとやっているのがシニシズムだからです。「そんなことはわかっていてやっているんだよ」っていうのが「I.H」さんのポリシーなんですね。だから主観的には「I.H」さんには「知らないことはない」。なぜなら全部「わかっていて、計算の上でやっている」ことだからです。たとえ不意を討たれるようにして未知に出会ったとしても、「I.H」さんは事後的に必ず「そんなことは知っていたよ。わかっていてわざとやっていたんだ」と負け惜しみを言うのです。未知は許せないのですね。それが自分の設計、計画、計略にないからであり、「I.H」さんは、自分の行動を全てコントールして、知っててすべてわかっていてやりたいことだからです。つまりもう十分人生に裏切られていて、これ以上予想外のマイナス情報に傷つきたくないっていうのが「I.H」さんの偽らざる本音であり、人生において想定外のことに出会うと、そんなことは最初から知っていたよと「事後的に」虚偽の予防線を張ることで、自分は安全であると思い込みたいのです。なぜなら自分の支配が及んでいるところは安全であり、それゆえ「支配欲」の頑さの固まりになるのです。

原理原則というものから演繹的に、また既知の情報から帰納的にすべての真理という英知を引き出して、世界を隅々まで自分の知の支配の及んだ「想像的世界」を構築しようとする一種のマッドサイエンティストになってしまっている「I.H」さんは、オリジナルである主体(=No.1である存在)であり続けようと常に先手を取ろうとすることで、かえって後手後手を踏み続けることになるのですが、たとえそうだとしても、すべてを知っていると想定された訓導すべき〈師〉であることが理想我である主体にとっては、主観的には先手を取られることがあってはならないのです。ですから、たとえ先手を取られて「しまった」と思っても必ず、そんなことはわかっていたよ、とその先行するテクストを反駁し解体し、他者の先行性を無化しようとするのです。そしてその負け(=後背性)を認めようとしない頑さが、つまり頭のネジがゆるまないようにゆるまないようにと、原理的・原則的に締め付け過ぎることが、逆に「I.H」さんの知性から「遊び(=グルーチョ・マルクス的な自虐的諧謔を可能にする自我よりももう一段メタな視点)」というものを奪ってしまい、結果的に「I.H」さんから創造性(=オリジナリティ=先行性)を欠落させてしまうことになるのです。批判に拘泥する二次的知性(リアクション)と、創造してゆく一次的知性(ファースト・アクション)の違いです。

つまるところ「I.H」さんは、未知をひたすら既知に還元しようとする双数的母子鏡像関係にあって、先に教えてもらいながら、相手をしてもらいながら、あやしてもらいながら、おっぱいをもらいながら、テクストを生産してもらいながら、考えるヒントを提示して貰いながら、それを受けてそれを解体しそれを批判しそれを脱構築し、尚かつ No.1である男性性(=ファルス)の示威を行おうとしているということなのです。基本的に母子双数関係にある鏡像段階の〈男の子〉のファルスは「皮被りのファルス」です。つまり「I.H」さんのテクストの批判性(=攻撃性)は、「短小包茎」をおったてたガキ(餓鬼)同然であり、それ故たとえ想像界の〈母〉にそのテクストのヴォイスが届いたとしても、現実界の〈他者〉には届かず、それで満たされない、受け止めてもらえない欲望を抱えたままの欲求不満の塊になってしまうというわけなのです。「I.H」さんが想像界の住人であるが故に、現実界を支配する大人の男性の前では塩らしくならざるを得ず、未だ外の現実界(外気)に曝されていない弱い皮膚をもつ〈子供〉の「皮被りのファルス」の持ち主である「I.H」さんが攻撃的になれるのは、実に想像界の住人である「弱きもの」「女性的なもの」の前だけなのです。本質的に内弁慶なのですね。それが、ネット界の想像界的なヴァーチャルな空間では全能感を誇る帝王気取りでいられても、現実界では実名の暴露を恐れる「I.H」さんの打たれ弱さの原因ともなっているのです。『女子と小人は養い難し』という言葉や「女子供」という言葉があるように、〈子供〉とは本来〈女性〉的な存在です。鏡像段階的双数関係にある者は、基本的に「体面=対面」を非常に気にします。「体面」とはまさしく鏡像的双数関係にある相対的存在の二者の間の境界線、すなわち鏡像を写し出す鏡面そのものだからです。両者の領域・テリトリーの境界面である「体面」こそが、自己の想像的イメージの死守すべき国境線(=支配権の及ぶところの監視の視線の地平線)にあたるのです。

#2

我らが老師がいつもおっしゃっておられるように、「謎」を追うものは必ず〈弟子〉=〈子供〉の立ち位置(=ビハインド・敗勢)に嵌ることになります。しかしながら、『述べて作らず』という〈弟子〉の〈師〉への正しい態度・位置取り・敬意を示せない者は、本質的に後追いの敗勢にありながら、すべてを知っていると想定された〈師〉の立ち位置を先取しようとします。テクストを産出してもらいながら、情報を教えてもらいながら、それに寄りかかりかつ甘えながら、それでも決してその敗北(後背性)を認めようとはしないのです。それを認めると、理想我であるところの「すべてを知っていると想定された〈師〉」としての自我構造(=万能感・全能感)を断念しなければならないからです。それまでの甘い母子双数関係性の揺り籠の中で培われて来た、自分の弱い想像界的自我を構成している全努力の積み重ねのすべて失ってしまう恐れを抱くからです。本当は古い殻を捨てなければ、新しいステージでの成長もまたありえないのですが、三者的な象徴段階への「命がけの跳躍」が「I.H」さんにとってはとても怖いらしいのです。外の世界の現実にもう十分過ぎるくらい十二分に傷ついているからでしょうか。皮を被ったままの〈子供〉のファルスが外気に曝されるときの〈他者〉の視線の「冷ややかさ」に耐えられないからでしょうか。齢六十になんなんとする「I.H」さんが、想像界的な甘い世界でのみ十全な発現を許された万能の自我を夢み過ぎたからでしょうか。甘えん坊の「マザコン」(おかあさんっ子)であり、「シスコン」(おねえさんっ子)だからでしょうか。

それはともかく、「I.H」さんは規範的であろうとし過ぎたせいで、つまり頭のネジを締め付け過ぎたせいで、かえってネジが切れてゆるんで、それでテクストの捻りが1/4回転になってしまい意味の取れないテクストを大量生産することになりました。「I.H」さんにとっては十分捻りを利かせた味の有る文章のつもりなのですが、たぶん本人以外には誰もその諧謔性が理解出来ない。何処がどう面白いのか〈他者〉にとってはさっぱりわからないのです。もともと自我の中に〈他者〉がいないから、そこには主観性だけがあって客観性がないからです。一方「うっかり系」の人は文章を捻り過ぎて、一回転して元へ戻ってしまっているのですが(いまどきエイプリル・フールなんか生真面目にやるかよー。そーゆーところが「うっかり」なんだよな。ったく)、捻りというものはちょうど「真半分」が両義的であり、「判じ絵」と同じく、老婆にも若い女にも、アヒルにもウサギにも、どっちにも見えるものなのです。ひとによっては、そこに自分の見たいものを見ることが出来る。鏡像的想像界にいる者は結局すべてそういうものなのです。母子関係性の幸福な揺り籠もそうですし、アイドルとファンの関係性もまたそうです。恋愛初期の恋人同士もまたそうであり、両者ともが互いに自分が見たいものを相手の中に見る。つまり「判じ絵」を見るものは、もう「見るな」の禁制を破っているのです。ひたすら知的でありたいと思うものは、すべてその「罠」にはまります。パラドックスとは論理的な「判じ絵」です。

鏡像段階に在る者の秘密を知りたければ、両義的な問題を投げかけてカマをかけさえすれば必ず見たいものを、本人がそう思いたいものをそこに見い出すことが出来ます。こっちが「謎」をかけると、本人が知っていることを先にしゃべってしまうのです。それは本人のアイデンティティであるところの「主体性」が「すべてを知っていて、すべてをコントロールしている主体」であり、自分の行動はあらかじめわかってやっていたこと、すべて想定内のことのはずだからです。こっちが知りたいことを知っている振りをして、思わせぶりに「問い」を投げかけるだけで、「そんなことは知っていたよ」と、ぽろっと自ら告白してしまうのですね。「I.H」さんにしてみれば、規範的に全てを知っていてやったことでなければならないので、本人自身でさえ知らなかったことを、つまり自分の無意識の世界のことを、本人が一番隠しておきたかった個人の秘密まで、結果的にべらべらと人前に暴露しまうことになるのです。あらかじめ「自分は知っていた」ということを、顕示しなくてはならないからです。つまりゲロ吐いてしまうのですね(うっ、トラウマ体験が... )。両義的な曖昧な問いというものは、双数的鏡像段階にある者にとっての「鏡」となり、相手の姿を映してしまうものなのです。両義的な問いで我々が鏡に映し出そうとするものは相手の真の姿であり、その鏡に映っている虚像とは、「I.H」さんは知っているけれど我々が知らなかったことです。この場合は、我々が知りたかったのは相手の本名(これは「I.H」さんは知っていたことですが、我々が知らなかったこと、「I.H」さんが我々には隠しておきたかったこと)です。一方で我々は「I.H」さんを過去時制の捕囚にしているトラウマや魂の真実を知っていますが、これは「I.H」さんが意識的には「知らない」ことであり、また「知りたくない」ことです。

ではなぜそんなにも簡単に、「I.H」さんは我々の投げかける「問い」に引っかかってしまうのか。それは「I.H」さんの「理想我」が全てを知っていると想定された主体だからです。先の先をとろうとして、事後的に後手後手を踏み続ける。「I.H」さんが本質的に、わかっていること(先行して投げかけられている既存の枠組みである謎や物語というコンテクスト・文脈)の後追いしか出来ないからです。一般に普通の人は、自分自身の内面の真理や無意識の真実、あるいは魂の秘密を、つまり自分の行動の本当の動機を内省という形で「知る」ことが出来ます。反省とか自制とか自省という形でです。それが成熟した大人のあり方であることは、言うまでもないことですが、しかしながら、自我を隔壁で多重人格という〈仮称〉(=仮の二次的構築物・ヴァーチャルな存在)に分割している「I.H」さんにはそれが出来ない。深刻な(貴重な)経験が体験にならないでいるから、「人格」という形で統合された自分史に登録されないでいるのです。それで「I.H」さんの秘密は「I.H」さんの記憶や心の中ではなく、「I.H」さんの書くテクスト、「I.H」さんが創造し自分を仮託したキャラ(二次的パーソナリティ)というアヴァターが演じるところの、自作自演の登場人物の台詞の中に文字通りスクリプトという形で現れるのです。驚きに出会ったら素直に驚き、未知を既存のフレームワークの中の既知に回収せず、驚きを驚きのままにしておく「センス・オブ・ワンダー」があれば、こんなことにはならずに済んだのですが、あらゆるキャラを思い通りに動かすシナリオ・ライター兼演出家であろうとしている「I.H」さんにしてみれば、すべてを知っていると想定された主体、すなわち全知全能の神に自身を準えているのですから、神秘というものがこの世から消えてしまって、現実というものに退屈してこんなことにしか熱中出来ないのも当然と言えば当然です。お可哀想ですね。哀れむべき悲しい獣です。

#3

2008年04月07日エントリーの『原則的であることについて』で、〈師〉と想定された主体から直接かまってもらえると思ったときの、この「I.H」さんの小躍りするようなコメント(2008年04月07日19:39に投稿されたコメント)をよく見て下さい。まるで母親から「おっぱいの時間ですよー」と言われた幼児のような有り様が、手に取るように伝わって来て、貴重なフィールドワークの研究資料になっています。また〈娘〉としてのメス鳥が待てど暮らせど現れなかった時の、いやそもそもが片思いのお相手がこの世に存在しなかったのですから、いわば〈子供〉が自己を主張し、ファルスを顕示して、反論して解体すべきテクストを与えてくれる〈娘〉あるいは〈姉〉の「(セックスとしての)おっぱい」の時間が永遠に来ないのですから、〈子供〉は益々むずかり、暴れ、だだをこねて、泣き叫ぶという形でしか、つまり解体された言語、声にならない声、意味を周りに深読みしてもらうしか聞き届けられないぶーぶーという豚のパロールでしか、コンタクト交話を語れないでいるのも当然なのです。学習者、研究者の方はよーく見ておいて下さいね。「I.H」さんの十八番の「党内抵抗勢力」を作っての自作自演、意味のない、歴史として統合されない断片的な記憶や言葉の垂れ流しのエクリチュールの量産の数々を。

双数的鏡像関係にある者がもたらす、あるいは想像段階にある者にふりかかる悪とは、いわゆる経済学で言うところの「合成の誤謬」ってやつなのです。ケインズの「美人コンテストの投票原理」と一緒で、それが「猫の手を万力で締め付けるような邪悪なもの」(@村上春樹)の正体です。〈父〉なき双数的関係にある〈母子〉の、お互いに相手を受容し相手に主体性(決定権・善悪の判断)を譲ろうとする、合わせ鏡の迷宮に捕われた甘い母子関係性の揺り籠の中にある二者にとっての地獄とは、実にそういったものなのです。内田先生が人に対してなるべくフレンドリーでありたいがため、執筆依頼を断れずに捌き切れない程の仕事を抱えて、結果的に自分の首を絞めることになるのも「合成の誤謬」です。お互いに相手に良かれと思って為すことが、ある臨界点を超えて合成されると善意が邪悪なものにかわってしまうのです。「I.H」さんの場合でいえば、ひとつひとつのキャラやアヴァターのコメントはまともであったとしても、それが合成されるとある邪悪な意志を構成しているということです。これが想像界の罠です。お互いに主体性(=責任を引き受ける者・責任主体)を譲り合っていては事態は先に進まないということです。経済学的用語で言うところの、いわゆる「ホット・ポテト(蒸しあがったばかりの熱々のジャガイモ)」をババ抜きみたいにお互いの間でキャッチボールしているということです。内田先生の場合は「アンチ・フレンドリネス」という名のホット・ポテトを、「I.H」さんの場合は「悪」ないしは「罪」というホット・ポテトを。ですから、ここは〈父〉なるものの干渉による母子関係性の紐帯の切断、すなわち「去勢」がなされなければ、〈母子〉ともに両者共倒れに終わります。「エディプス的切断」が行われないと、〈子供〉が一個の人格的姿であるところの真の人間的主体となれずに発育不全・形成不全にとどまってしまい、いわゆる「胞状奇胎」に陥るのです。まさにどれも独り立ち出来ない多重人格のキャラたちの葡萄の房のような塊ですね。おそろしい化け物のような醜い獣です。もうそれは人間と呼べるような代物ではありません。ちなみに母にとって異物である胎児と癌細胞はともに同じ仕組みで、母体の免疫による異物排除の攻撃のメカニズムを逃れているのだそうです。いつまでも〈子供〉であり続けたいと相手の善意に甘え、〈母〉の生産するテクスト(乳房)に取りすがり続ける者は、癌細胞と一緒です。

「I.H」さん自身は、自分は無限の可能性を蔵していて、それを育ててくれる人がいたら、自分のいうことに耳を傾け、自分にかまってくれる人がいたなら、自分の可能性は十全な創造性として開花するはずだと、いつもそう思っています。一度自分が本気になったら、なんでもどんなことでも出来ると思いながら、結局どれも中途で投げだして何一つ満足に完成させることのないままで終わっているのですが、他人には常に前段の同意を求めているのです。「準備中」の看板や少しも実行されない素晴らしい計画案ばかりを量産し続けて、ついに一生のうちでなんの専門性も持ち得ず、なんら社会的な有為性を発揮しないままで人生を終わってしまうことになるのですが、「I.H」さんにしてみれば、創造的であろうとして、成熟した一個の独立した社会人や生活人でありたいと願望しながら、つねに自分を庇護し保護してくれる〈母〉なるものを、そこに自分が見たいと思う「本当の自分」を映し出してくれる「己惚れ鏡」としての〈他我〉を、実際には求め続けているのです。現実に裏切られ続けているにもかかわらず、いやそれだからこそ、せめて自己の想像的世界の中では、すべてを知っていると想定された理想我でありたいと思っているからです。六十歳になんなんとして未だ「エディプス的切断」を拒否している甘えん坊の〈子供〉の立ち位置を選択し続けているわけですから、つまり「成熟」を拒否しているのですから、成長が止まり、未熟のまま人生が暮れようとしているのも当然と言えば当然ですね。だからそのファルス(攻撃性)も皮(保護皮膜=緩衝材)を被ったままであり、真の批判性に達しないから、実社会への影響力もまたないのです。

トラウマ的体験を克服するためには、それは過去に起きたことであり、あなたはもうそれを現実に克服して今現在生き延びているのだから、もうそれ(=トラウマ体験)はあなたの脅威にはなりえないのだと、そうはっきりと告げることだけです。つまり事実を事実として素直に認めれば済むことなのに、それ(=トラウマ体験)をあれこれと理屈をこねて解釈し和らげようとするから、かえって常にそれが脅威であった(つまり和らげる必要性のあった)過去に縛りつけられ、繰り返し過去に舞い戻ってしまうのです。悲劇的ですね。お可哀想です。知的であり過ぎるのも考えものであり、『過ぎたるは及ばざるが如し』を地で行く、知を病んで「やまいだれ」の方の「痴的」になってしまった「I.H」さんでした。言うも愚かです。

#4

真に利口になるためには、つまりブレイクスルーによって殻をやぶり飛躍するために必要な言葉は、内田先生がいつもおっしゃっておられるように、「わかりません」と「すみません」です。よく覚えておいてくださいね。これが素直に口からついて出るようになれば、あなたの知は飛躍的に亢進するでしょう。ぜひ「I.H」さんにも教えてあげたいところですが、といっても説得は不可能なので、「おしりぺんぺん」ということになります。つまり「泣きをみる」ことになるわけです。あーあ。だからやめろって言ったのに。と言うよりも、止めろと言われることを「I.H」さんはしてしまうのです。「見るな」の禁忌ですね。『目に美しく、食べるによく、賢くなるに好ましい』と思うこと、すなわち知者であろうとすることとは、常にそういったものなのです。知的であろうとすること、知識を得て、知恵を得て、「あらかじめわかっておこう」とするものは、必ず「見るな」(=禁断の木の実を食べるな)の禁制を破ってしまうのです。ですから「それ」(=「なぜか」という問いかけ・謎かけ)が知者への罠であり、投げ込む餌になるのです。つまり「するな」っていう否定形の言葉が囚われの元になるのですね。つまり反論の必要性が、テクストへの批判性が、攻撃的な言葉が、脱構築の意志が「I.H」さんをして双数的鏡像関係の牢獄、合わせ鏡の無限連鎖の迷宮の中に閉じ込めてしまうことになるのです。

だから我々はこう言いましょう。「わかりません」と「すみません」です。つまり「わかりません」から「すみません」が、「教えてもらえないでしょうか」です。「謎」を「謎」のままに、「問い」を「問い」のままに素直に信じる者は救われるのです。信じる者は基本的に一者だからです。「謎」を解体し、「謎」を「問い」と「答え」に脱構築する者は、つまり知者であろうとする者は、基本的に二者です。なぜなら判るとは「分ける」ことだからです。未知を既知との双数関係に関係づけるのが、知性の働きだからです。しかし知の階段を一歩一歩、石橋を叩いて渡るようにして上ることでは人間は決して天国に入れません。「知的パラダイス」という意味合いを含めて全知全能の神なる主のおられる天国に入る為には、子供のように無邪気に信じるほかないのです。なぜなら素直に信じる者は神と一緒(複素体)であり、疑う者(反論する者)は悪魔と道づれ(対話・対論をがーがー交わしながらの道行きの二者)なのです。神が隠れるのは善行をなす善男善女に善を帰する為です。悪魔が隠れるのは自分に迷惑がかかるからであり、悪行の不名誉を自分に帰さない為、自分の悪から善なる自分を守ろうとするからです。これを信じることの出来る者には全知全能の神からの祝福があるでしょう。知的面においても『弱き者は幸いかな』ですが、「I.H」さんにしてみれば、どうしても受け入れることの出来ないソリューションでしょうか。本当にお可哀想です。

さて、このブログのアーカイブにあるエントリー記事とそのコメント欄にあるコメントの時系列をよーく観察して下さい。どれが本当の善か、つまり悪を含んではいるがその悪を善が凌駕しているほんとうの善{(善=善(手段)>悪(動機)}か。またどれとどれが単なる二元論的・二項対立的な、定型的な善悪二分論の善{ 悪=悪(手段)/善(目的)}か。つまり善は、悪意から始まったとしても善で終わることはあるが、悪は善意を分母として始まっても結局悪で終わるのです。本当の善とは善と悪との複素体、つまり善が悪をコントロールしている状態、図式的に表すと「善」=(善>悪)になるものです。ちょうど人間進化のある段階で、大脳皮質がそれよりも古い原始的な暴力的感情的野性的な脳を、覆い包み込むようにして発達して来たのと一緒です。どんな悪にも悪自体を生きさせている生命力という名の善性が必ず含まれています。ちょうど内田先生のブログに寄生することなしには、「I.H」さんが悪態をつけなかったように、悪も善なくしては生きられないのです。しかしながら悪は自己愛に狂っているからこそ、結局生命力という善性を利己愛という悪に消費してしまうのです。善と悪の二元論に陥っているからこそ、頭のネジを締め付け過ぎて、ひたすら自分の意識を善に純化するあまり、自己を素晴らしい独善であらしめようとして、逆に抑圧したもうひとつの方の純粋な悪に転落してしまうのです。世の原理主義者の方はよく覚えておいて下さいね。原理主義はなにも「まごころ原理主義」の「I.H」さんだけの話ではないのですから。

『悪とは善の欠如』というときの欠如している善とは、二元論的な完全分離した二項対立における善ではなくて、悪を含んである、つねに悪を置き去りにして悪を超えて凌駕し、悪を「遅れ」のうちに抜き去る再帰的な複素体として存在する「生命力の善性への指向性」のことです。静止的な評価的(世評的)善と動態的な意志としての善性の違いです。「止まっているもの」と「動いているもの」の違い、「閉じているもの」と「開いているもの」の違いです。関数とその導関数の違いと言ったらより分かりにくくなるでしょうか。それはともかく、「I.H」さんはあまりに完全であろうとして、結局他人の悪ばかりが目につく純粋主義、原理主義者に陥ってしまいました。他人の足らざる悪の部分を指摘して矯正しようとこだわるあまり、悪を追い越すことが、自分の悪を過去のものすることが出来なくなったのです。「I.H」さんのことで言えば「学歴」差別のことです。十五の春で泣いたことを克服しようとするあまり、そこにかえって釘付けにされる。トラウマ体験とはそういうものですが、中卒の方が単なる知的エリートよりも知的でありうることを証明しようとする原理主義者になってしまったがゆえに、逆説的に絶えず「十五の春の挫折体験」の悔しさ・切なさのフラッシュバックが起きるのです。一般に悪はどれも同じ顔をした悪ですが、善には大善と小善があります。そして真犯人はいつも意外な小市民的な善人面をしていたり、パリサイ人のような不機嫌で生真面目な道学者ぶっているものです。偽善者というものはそういったものです。「I.H」さんが正にそうでした。悪魔は一見善人面をしている人の背後に隠れているということです。もっとも本物の大サタンとなるとちょっと違いますから、油断してはいけませんよ。

#5

閑話休題。私はいまでもタレント政治家には偏見を持っていますが、ときには『毒を持って毒を制す』ことも必要でしょうか。一部反動勢力期待のナポレオンは、エルバ島から脱出したとしてもまた同じように「ワーテルローの戦い」で惨敗することになるでしょう。二度目は茶番劇として終わることを彼だけが知らないのですが、知らないからこそ、本当はそれを知っていたんだよ、と言わんばかりに自爆するようにそれをやってしまうのですね。「I.H」さんの末路と同じでしょうか。昭和天皇が「それが私の心だ」とおっしゃられたのなら、そして今上陛下も先帝のご遺志を追認しておられるのだから、善悪の判断はつくはずです。しかしシニカルな者は、善悪の判断を自分ではつけないで、悪いことをあえて挑戦的にしてしまうのです。なぜなら、人にかまってほしいから。ちょうど愛に飢えた淋しい〈子供〉がわざと〈親〉を困らせるようなことをして、〈親〉の気を引くことで〈親〉の愛情を確かめるようにです。自分がまだ人気がある、自分はまだ人様からかまってもらえることがわかると、そこに見たい自分の理想我をみることが出来るからです。それが母子双数関係にある者の、蜜のように甘い自我像を映す鏡像だからです。でもそれは人がそう思っているからこそ、そこに存在する虚像であり、彼が真性に真実信じている自己像でもなんでもないのです。ブームが去れば、ただ虚しいだけです。だから、一部政界やマスメディアの方々が心配している、あるいは期待しているK泉ブームはもう起きないと思います。なぜなら、政策には何一つ関心を持たずに「政局一筋」で来たはずなのに、自分の権力構造の死命に直結するある読み間違いを「人生には上り坂もあれば、下り坂もあります。もうひとつ坂があるんです。『まさか』という坂であります」というオヤジギャグさながらの俚諺でしか回収出来ない彼は(たったひとつの得意で負けたということは命運が尽きたということです。それは「I.H」と同じことです)、もう本当に只の「ほやじ」(@倉田真由美)のですから。そして同じオヤジキャラなら、もっと愛らしいチャーミングな方がいらっしゃいますよね。ほら、他県のどこにいっても「知事、知事」って言われる人が。全県的な知事さんって一体どんな存在なのでしょうか? 今度は「日本をどげんとせんといかん」ですか。

繰り返しますが、「I.H」さんにとっては自分自身がいちばんの謎なのです。なぜならば自分を欲望しているから。自分の事を、自分の事だけをいつも考えて、本来ならばこう在り得たであろう「本当の自分」という自分探しの青い鳥を追っているから。〈女子供〉という弱いもの同士が、〈父〉なるものの天蓋に守られて来た母子関係性の中の揺り籠のなかで、〈母〉が〈子供〉を繰り返しあやすように語りかけて来た蜜のように甘いお伽噺・寝物語の続きを、ひたすらおねだりしているのです。だから双数的鏡像段階にある者が革命指向・改革断行路線をとると、必ず自分の立ち位置そのものを掘り崩して自滅することになります。ヒトラーもそうでした。ヒトラーの革命はワイマール体制という、ヒトラーのような非寛容なものに対しても寛容なレジームの中で生まれ、ヒトラーはワイマール体制にのっかって頂点にまで上りつめておきながら、そこで一挙にワイマール体制の転覆、すなわち「合法的革命」をやろうとした。目的が正しければ手段は正当化される、目的が正しければなんでも許されると思いながら... 。そして「I.H」さんの場合の目的(動機)とは、人を動かすことの出来る「まごころ」でした。しかしその「まごころ革命家」は「イカさま」であり、「I.H」さんの増上慢をゆるすことになった非寛容にも寛容であった旧体制とは、このブログの管理者であるヴァーチャルなウチダ先生でした。しかし実際の内田樹はそうではありませんよ。注意して下さいね。

さて実は〈母〉にも「皮を被ったファルス」はあります。それは〈子供〉の「短小包茎」であるファルス、つまり「皮被りのファルス」と同相のもの、それと鏡像関係にあるものです。しかしその両者のファルスは、その攻撃的指向性は、理想我のシニフィアン(理想を指し示す指示行為=政治的意志)は、ともに「皮被り」なのです。実際「I.H」さんが事ここに至ってまで実身を闇(悪魔の保護皮膜・悪魔の天蓋)に隠そうとするのは、「I.H」さんの政治的意志(ファルス)が皮を被った〈子供〉のファルスだからです。そして〈女性〉と〈子供〉が持つ攻撃性は、つまり〈女子供〉が示す政治的意志は、すなわち双数的鏡像段階にある者の理想社会を指向する革命的意志は、実にその攻撃的な先端である外気に曝されたことのない弱くナイーブな「鬼頭」を保護し覆っているところ当のもの、彼らが撃とうとしている旧体制=〈父〉そのものなのです。つまりそれは、〈母子〉を保護している現在の政治体制であるところの「家庭」、つまりアンシャンレジームそのものを攻撃し、自らの保護皮膜である「天蓋」を撃つようにして、結果的に自らの立ち位置を掘り崩し、結局自滅するように自壊して行くことにしかならないのです。しかもそれがなぜそうなってしまうのか、自分で自分でやっていることの意味さえさっぱり分からないでいるままで、滅びに至ってしまうのです。それは、もう自分の居場所はここにしかないのに、未だに「I.H」さんが複数のアヴァターを使ってここを操作しようとしているのとそっくり同じことです。「子供」というものはときに、アンシャンレジームに乗っかって総理大臣にまで上りつめておきながら、レジームチェンジ・戦後レジームからの脱却などという、頭のネジの切れたとんちんかんなことを言い、しかもそれがどう可笑しいのさえさっぱりわからないでいるのですね。

ですから本当は前首相は現首相を全力で支えなければならない。たとえどのような経緯であったにせよ、現首相は現首相の身代わりとなって最高指導者の重責を担って下さっているのです。現首相は前首相が病院で静養する時間と機会を与えてくれた命の恩人と言える人です。たとえ前首相の意中の人に権力をバトンタッチ出来なくて、横からトンビに油揚を攫われたように思っていたとしても、現首相は正当な党内手続きを経て正式に選ばれた人です。前首相を総理総裁に押し上げた前首相の所属する派閥も現首相を支持したのです。前首相だってそうやって最高指導者のポストに就いたのですから、その倫理性の理路を忘れないようにしなければなりません。倒閣運動などもってのほかです。もし三代目の悪ガキ同士で権力奪取の相談をするのなら、前首相が現首相を全力で支えて、それにもかかわらずそれが潰えて、それが現実になってからのことです。すべてはそれからのことです。「子供」は一事が万事、こういった自分に都合の良いことばかりを考えて天の理を介さないから、あとでお天道様の罰が当たることにもなるのですが、聞く耳があるなら聞いておきなさい。罰が当たる前にあらかじめ私からよくよく言っておきますね。もう充分罰が当たっていると言えば言えるのですが、懲りない面々というものは、なにもここだけの話ではなさそうですから、よくよく申し上げておきます。

ブルー [TypeKey Profile Page]:

いつの日かのあなたさん、僕も現象学にはとても興味があります。フッサール自身が書いた本を読んだことがないので見当はずれかもしれませんが。

> 実際には、「主体」という機能自体が模倣の効果なわけであるから、最初にあるのは「模倣する主体」ではなく、「模倣それ自体」なのである。だとすれば、「人間を中心に据えるのではなく、複写(模倣)を中心に据えて考えたほうが適切ではないだろうか。」

個体と個体がお互いに模倣し合うネットワークを「模倣のシステム」のようなものとして想定すると、ただちにその外部、すなわち「そのシステム自体を可能にしている何か」を措定したくなります。フッサールが超越論的主観性という概念でつかもうとしたのはそのような「何か」だったのではないかと僕は今回のエントリーを読んで思いました。だからフッサールはいわゆる独我論よりもずっと深いところに手を伸ばしていたと想像するけど、木村敏さんが『自覚の精神病理』などで指摘しているように、それを「モノ」として対象化しようとしたところに限界があったのだろうと僕は思います。ただし「モノではなくコトなのだ」という態度を取るとそれは原理的に言語化不能・認識不能になってしまって語ることができなくなってしまう。そういう語ることのできる範囲の限界ぎりぎりまで思考を突き詰めていったという意味でフッサールという人は偉大ですね(たぶん、読んでないけど)。

あと、僕は日本語の「無い主語」が「超越論的主観性」に非常に近い機能を持っていると感じているのですが、これも一方で「一体感の醸成」という力を持つと同時に、他方では「民族的ひとりよがり」に陥る危険性も孕んでいますね。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

茶々=aikagamiさん、こんばんわ。
あなたのコメントもこうやってみるとずいぶん長くなりましたね。
いや、たいしたものです。
さすがのわたしでもこうはいきません。

久しぶりに、さっと読んでみました。
そして、どうして茶々=aikagamiさんはわたしごとき者にこうまで情熱的になにごとかを教え諭そうと暗い執念を燃やすのかとふと考えたとき、
あ!
と突然気がつきました。

これはわたしが内田の洟垂れじいさんを教え諭そうと執念を燃やしているその滑稽な態度そのままではないかと。
イカフライのコメントのイカレタ構造を身をもって示しているのだなと。
さすがaikagamiさん、おそるべきことを考えておられたのですね。
そうか、そうやってわたしに己の行為の愚劣さをまざまざと見せつけ、具体的にその行為の恥ずかしさを教え諭そうとされていたのですね。
いや、まいりました。
さすが洟垂れじいさんの自称内弟子のことはあります。
よ! 大統領!
座布団二枚、いや三枚だ!

“「わかりません」と「すみません」です。よく覚えておいてくださいね。これが素直に口からついて出るようになれば、あなたの知は飛躍的に亢進するでしょう。”

ふーん。「わかりません」と「すみません」ねえ。
小島義男の「関係ねえ」ってのは入らないんだぁ。内田の洟垂れじいさん、ちょっと遅れてないか?
「かんけーねえ」と「ぐー」がいま流行ってるんだよ。
洟垂れじいさんもaikagamiさんもだめだなあ。
「わかりません」と「すみません」て、あーた福沢諭吉でもあるまいし、今更、修身&道徳でも復活させるつもりかい?

そらあ、洟垂れじいさんは先生だから生徒から「わかりません」と「すみません」言われりゃ満足だろうけど、あまりにもねえ、見え見えの我田引水だわな。w

わからなくても、ほんとうは「わかっている」はずだからもう一度、よーく吟味してごらんなさい。
人間ってわからないとすぐにあきらめるけど、そんな安っぽいものじゃない。きっとわかっているはず。
それでもわからなければ、でも、もう一度自分で調べてごらん。
「すみません」なんてめったに使ってはいけません。そういうことばは事態の分析や洞察を棚上げする効果しかありません。それに相手を誤解させるのがおちです。
......。
こんな風な教師がいてもいいのじゃないかな。

それはともかくaikagamiさんの「哲学」なかなか興味深く読ませていただきましたよ。
相変わらず神経がショートしていますが、そのショートの火花のあいだから一つ、二つ真実らしいものも仄見えました。
もちろん、あなたのおぞましくも苛烈な真実であって、わたしにはなんの「かんけーねえ」ものでしたけど。

でわ、お気をつけて。頭のほうの養生も忘れずに、ときたま神経のほうも休ませてやってくださいね。

御名御璽ふふふ。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

さて、低脳「誤読知らず」くん、わたしに「タクシー運転手ごときが」と一喝されて、いっきにシュンと沈黙してしまいましたね。
ああいう低脳には、ああいう言い方が一番きくのです。w
ところがすぐさま、2ちゃんねるに
「イカフライがあんな職業差別するなんて、がっかりした」という書き込みがありました。
ふーん、ナイーブな方もいらっしゃるんだと、ちょっとびっくりしましたね。
ここで内田式洟垂れ流レトリックであの「差別発言」を説明しましょうか。
職業差別というのはね、相手がそのことを卑下している、つまり、相手が自身の職業を自ら差別している野郎にしか通用しないのですよ。
仮に大学教授にわたしがいったことと同じことをいってごらん。
「そんなことを言っているから大学教授しかできないんだよ」
といったところでだれから非難が来ます?
こいつ、何をいってるんだ、てことにしかなりませんよ。
ではなぜわたしが
「そんなことを言っているからタクシー運転手しかできないんだよ」
というと批判が沸き起こるのか。
そいつらが内心タクシー運転手を差別しているからですよ。w
でなきゃ大学教授の件と同じく、
「何言ってんだこいつ」てことで暖簾に腕押しだ。
低脳「誤読知らず」くんが自らの職業を卑下しているからこそあんなにシュンとしてしまったのであり、とうぜん、わたしはふだんから「タクドラ」などといって自らタクシー運転手をバカにしているご自身の職業差別をあてこんであんな言い方をしたのですよ。

以上、内田式洟垂れ流レトリックで職業差別を説明の巻
おわり。

bun [TypeKey Profile Page]:

おはようございます。


>思わず「おおおお」とのけぞってしまった。

養老先生は「そりゃそうでしょう」とおっしゃるのではないでしょうか。「中枢は末梢の奴隷」ですから。

コンピュータ関連の仕事で工業大学の発表などにうかがうことがありますが、身体が必要であるということがわからず、工学的にのみ人工知能の開発を考えている方がおられると、「んなもんできるわけねえべ」とつい冷やかしに行ってしまいます(笑)。

じゃあお前が何したって言うんだという殺し文句を食らって退散するのが関の山なのですけれど(笑)。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

イカフライは何も知らないくせに適当なことをいって批判しているだけだと思われてもなんなので、ばかばかしいけど一応、「自己意識」について考えを述べておきます。

>自分というものは、そんなに秘密なものではない。自分は他人の模倣を通してしか作れないのであるから、その出発点からして社会的なのである。自分とは原理的に社会的なのである。社会的でない自己は、ある意味で壊れた自己である。それは自己として機能しないし、自分にとっても理解不可能な自己となる。」(133-134頁)


↑あたりまえじゃないですか。さまざまな他者が存在しなければ「わたし」などという意識が生じるはずもない。哲学だの科学だの以前の常識としてふつうに考えればわかることだ。
ただし、内田洟垂れ教授も、月本洋も間違っているのは、そういうった社会性が自我(動物的な自己意識のない自我)の内部に流入してきて自己意識を形成するという陥りやすい罠にはまっていること。
そうじゃないんです。
個人の意識の内部には社会性は流入しない。
そうでなくて他者性の重なりが個人の内部(動物的な自己意識のない自我)と外部との境界上に形作る「かたち」、それが自意識なんです。

つまりあらゆる外部の他者性が、完全な無のような真っ白の内部(動物的な自意識のない自我)、その真空状態の内部と外部の境目(外延)を彫琢して、外延にそれぞれ固有のある「境界線」を形成するわけです。
その境目全体の「かたち」が、すなわち外部(社会性)によって形成された自意識なるものです。

だから人間が人間として正気を保つているには内部は真空的な無でなければならない。
でなければ外部と内部との境界線上にできた「かたち」=自己意識も、曖昧なものになってしまう。
それこそ自己が壊れた状況に陥る。

個人の内部において社会性が損なわれるから人間の自意識が壊れるのではない。
むしろ、ほんらい「無」であるはずの内部に社会性が侵入してきて、境界線上の外延の鮮明な「かたち」=意識が、不鮮明で曖昧になるから人間性も曖昧で不鮮明になり壊れるのですよ。
たとえば「洗脳」などがそれにあたる。

また人間が劣等感をもつのも、自意識がほんらい他者の価値観で形成されているからです。
つまり他者の価値観によってかたちつくられた自意識があらゆる劣等感、悩みの根源にある。
だから「引きこもり」によって人間はその外延上の「かたち」をシンプルなものにしようとするのですよ。

そもそも「社会的」でない自己など存在しないのはあったりまえの話なんで、いまどき何をそんな初歩的なことで感心しているのかとしか思えない。
また、そもそも社会性がなければ自己意識は生じない以上、自己とはそもそも社会性そのものなんです。
だから「壊れた自己」なんるものがあるとして、そもそも社会性の喪失に原因があるのではなく、むしろ、自意識の闡明のために必要である内部の真空的な無の状態が損なわれたことに原因があるのですよ。
それがそこなわれた原因とは、むしろ内部への社会性の流入なんです。
社会性なるものは無なる自我の境界線上でとどまって鮮明な自己像を形成することで意味があるんですよ。

setember [TypeKey Profile Page]:

いつも楽しみに読ませてもらっています。

>それは書き手自身が自分を「二つに割って」、その一つを遠景に置き、その一つを読者と同じライン上に置くことによって達成されているのではないか。

 小説でも映画でも漫画でも歌でも、時々受け取り手である自分が「置いていかれた」感じがすることがあります。
 登場人物達の感情が、私が受け取った感情より深かったり重かったり熱すぎたりして、そこまでまだ「説得されて」いないのに、ぐんぐん話がその熱情を基本に進む時、ぽつねんと孤独になり、その作品から興味を失う瞬間があります。(そんな短気ではイカンと踏ん張りはしますが、「この作品は、じゃあどうすればよかったのか」という視点になってしまいます)

 その作品が「こっちを向いてくれてない」と感じる瞬間は、その作品が「閉じている(受取手側に開かれていない)」と感じる瞬間でもあったんだなあと、なるほどと膝を打った(うちだせんせいのまね)次第です。

 私は物を描く仕事をしていて、こちら側の情熱と集中が高まりすぎて、表現が上滑りする失敗を何度も経験しました。
 そういうとき、もっと「降りて」いかないとダメだと一人つぶやいていたものですが、それは「伝えるために」なんとか「身体を二つに割ろう」としていたのかもしれません。

 身体を二つに割り受取手の側に半分置いて描く・・・今回得られたこの言葉を大事にしたいと思います。

交わる群集のなかで「おれ、ちょっと違うかも」とキテしまう主体は、一晩で非社会的存在の虫になったザムザとどこか重なるものがあり、ここに考え書く意味とか動機とかの一端を見たくなるのですが。「大きな流れ」(張り上げられる大声、大文字の他者志望者? 民族性?)に飲み込まれ、消え失せそうになり、それでも貫通させてしまう「小さな流れ」(@加藤典洋氏)でしょうか。
「小さな」感性の発生は、認識・成長=社会・集団・他者の模写(誤読?)、という主体の生成・構成原理と次元が異なるお話かも知れません。「中枢は末梢の奴隷」(@bunさん)という自然科学的な理解や、他の哲学的な理解とも。
次元が違うかも知れない意味で、「現実界」(ラカン)にさらされた主体は絶えずリアルな揺らぎの中にある、みたいな先日お書きになったお話のほうに「文学的」な共感を引き出されるのです。読めてないだけかも、いつものように!

ふれむで [TypeKey Profile Page]:

私は、内田先生が一見して偶然選ばれたように見えるテーマのなかにも、コメントをなさっておられる方々との呼応と昇華を見ることができます。汚染されずに思考を昇華するには、エネルギーがいりますが、がんばりましょう。

takasan [TypeKey Profile Page]:

イカさん! 読んでませんが、ご苦労はん。

昼夜転倒 [TypeKey Profile Page]:

ミラーニューロンという言葉、面白いです。
初耳です。
『言葉が読み手に触れるのは、書き手と読み手のあいだの「同期」が成立するときなのだが、同期がうまくゆくのは、書き手が「自分を完全に理解している」からではない。
そうではなくて、「自分が何を考えているのかよくわからない」という事況にまっすぐ向かうことによってである。』

大変参考になります。書き手・読み手だけでなく、話し手・聞き手にも応用できそうです。
自己の根源的な欲望に自ら関心を払わない話し方をする人たちに魅力を感じないのもこのためだろうと思います。何故魅力を感じないのかうすらうすら気付いてはいたのですが、この『自分をふたつに割って遠近法的に同期する努力』という説明には説得力があります。


ブルー [TypeKey Profile Page]:

小学生に歌を歌わせるときに、まず歌詞を読ませ(この時点では生徒たちはみな「意味分かんなーい」と言ってる)、そのあとその詞を手話で歌う練習をさせると、教師がいっさい解説をしなくても子どもたちの歌詞の理解が飛躍的に深まるという話を聞いたことがあります。脳が、みずからの身体の動きを通して「他者の心」をミラーリングし、そうすることによって「自分の心」を彫琢していくプロセスの(あるいは、脳が身体性を通して他者と自己との間に「間主観的な心」という現象を創発させていくプロセスの)、これは見事な実践例だと言えそうですね。

> 身体図式のブレークスルーは知的なブレークスルーと同期する

今回の記事を読みながら、音楽や美術や体育の先生と国語の先生が連携したらすごく面白い「言葉と心と身体」の授業ができそうだなと思いました。河合隼雄さんが「道徳の授業をするなら身体を使わなくちゃ」というようなことをどこかに書いていたことも思い出します。そしてもちろん、村上春樹が走り続けていることも。

◎内田先生:「自分が何を考えているのかよくわからない」という事況にまっすぐ向かう。
◎昼夜転倒さん:自己の根源的な欲望に自ら関心を払わない話し方をする人たちに魅力を感じない。

こんなに超エクサラントな読みに触れられて、夢みたい。「胸を撃たない」おしゃべりをする知識クンの謎も解けた? 昼夜転倒さん、ベリベリ・サンクスです!

◎ブルーさん:音楽や美術や体育の先生と国語の先生が連携したらすごく面白い。

やっぱり自分の考えと次元が違う原理的なお話だって、はっきりわかりました。これもベリベリ・サンクです!