BlogNagayaLinkaGuestsColumnsBookMovieSeminarBudoPhotoArchivesProfile

« 休日なのでいろいろなことをする | メイン | ほんとは休みの日のはずなのに »

キャリアを考える

「キャリアを考える」というタイトルのリレー式の講義の順番がまわってきた。
一回90分。80人ほどの学生さんたちを相手に「キャリア教育」のために一席弁じる。
「キャリア教育」というプログラムの問題点についてはこれまでに何度か書いてきた。
就活の学生たちがもっとも苦しんでいるのは「適性・適職」というイデオロギーである。
このイデオロギーはRクルートをはじめとする就職情報産業によって組織的に流布されている。
就職情報産業は営利事業であるから、そこが主力商品であるところの「就職情報」に対するニーズを大量に、かつ継続的に求める「クライアント」を確保することに腐心するのは当たり前のことである。
学生諸君はまさにその「クライアント」である。
就職情報産業にとって「理想的なクライアント」とは、きわめて早い時期から(できれば入学と同時に)就活マインドに火が点き、以後在学中眼を血走らせて就職情報を渉猟し、内定が出ても、「より適性にあった職場」を求めて就活を継続し、就職した後も、「これは適職ではない」と判断すれば、ただちに離職して、次なる転職先を探すようなタイプの人間、すなわち「就職情報ジャンキー」である。
だから、Rクルート以下の就職情報産業から学生に伝達される就活アドバイスは「ジャンキー系学生」を組織的に作り出すように起案されている。
むろん、ビジネス的にはそれでよいのである。
私はそれが悪いなどという無法なことは申し上げるつもりはない。
Rクルートさんだってリアルかつクールにビジネスをされているのである。どんどんおやりになればよろしい。
しかし、教育の現場にいる人間としては、おめおめと学生たちが「就職情報ジャンキー」になるのを見過ごすことはできない。
教師としてはかかる事態を全力を挙げて防がなければならない。
それゆえ、「キャリアを考える」では、「適性・適職イデオロギーに惑わされてはならない」ということをまず申し上げる。
自分の本性であるとか、自分の能力であるとかいうものは自己評価するものではなく、「まわりが決めてくれること」なのであるから、それに任せておけばよろしい。
繰り返し申し上げているように、キャリア・パスのドアのこちら側には「ノブ」が付いていない。
ドアは向こう側からしか開かないのである。
ドアの前にぼおっと立って開くのを待っていると、ドアの向こうから「マジックワードは?」と訊いて来る。
そう訊かれたら、「知りません。教えてください」と言えばよろしい。そうすればドアは開く。
「いつまでも、今のままの自分でいたい。今のままの自分でいることに誇りがある。今のままの自分が大好き」という人の前では「次のステップ」に進むドアは永遠に開かない。
「仕事をする」というのは「私のもっているどんな知識を求め、私の蔵しているどんな能力を必要としているのかがわからない他者」とコラボレーションすることである。
相手構わず、「私はこれこれのことを知っています。これこれのことができます」というリストを読み上げても意味はない。
「私はあなたのために何ができるのですか?」
そうまっすぐに問いかける人だけが他者とのコラボレーションに入ることができる。
「他者からの要請があるより先に、あらかじめその価値が知られている知識や技術」は存在しない。
それは「子どもを持ったことのない人間に備わっている親の愛」とか「弟子をもったことのない人の教育力」とか「素寒貧の資金運用能力」とかいうのと変わらない。あるのかもしれないけれど、あるかどうかは「やってみないとわからない」。
私が何ものであるのかは私が何をなしとげたのかに基づいて知られる。
なしとげる以前に「私」は何ものであるかまだわからない。
だから、「仕事をするより先に、まず自分の適性を知り、適職を探せ」というのはことの順逆が転倒していると申し上げているのである。
とはいえ、いまだ知られざるおのれの適性・適職を「予知する」方法がないわけではない(ここまでの話とぜんぜん背馳するが、私の話はだいたいそうなのである)。
それをこれからご教示しよう。
学生たちはたいへん熱心にノートを取っていた。
お知りになりたい人もブログ読者におられるかもしれないが、それはまたの機会にということで。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.tatsuru.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/487

コメント (32)

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

相変わらず困った妄念を流布してくださる困った先生だ。w

何度も申し上げていることですが、内田さん、速やかに教師を辞して事務方に回って下さい。
それが世のため、親御さんのため、とくに学生さんたちの未来のためでもあります。

>私が何ものであるのかは私が何をなしとげたのかに基づいて知られる。

のではありません。
それでは能力のあるものしか私が何ものであるか知ることができないことになる。
それじゃあ、ちと困るんですよ。
人間は能力のある人も、ない人も自分が何ものであるかを知ることができなければ、わたしのような無能者は死ぬまで浮かばれない。
もっとも内田さん、あなたのような優生思想の能力主義者からすれば、能力のないやつはどうでもいいのだろうけど。
さて、そこでこう言い換えましょう。

私が何ものであるかは私が何をなしとげようとしたかに基づいて知られる。

と。
成し遂げたこと自体は問題ではありません。成し遂げようと意志すること、すなわち夢を持つことが人生の歓びであり意義なのだと。
そういう意味ではすべての人が「成し遂げる」ことはできなくとも「成し遂げよう」と意志することはできる。
すなわち万人が隔てなく夢を持つことはできるのです。
そしてそれが成し遂げられようと、成し遂げられまいと、それによって人は自分が何ものであろうとしたかを知るのです。

>「他者からの要請があるより先に、あらかじめその価値が知られている知識や技術」は存在しない。

他者を国家とか企業に置き換えればそりゃあ都合のいいお話ではありますが、他者からの要請によってその鋳型のように人間は存在するのではないとおもいますよ。
確かにおっしゃるとおり、きみは旋盤工でいいから、とか、きみは大学教授だなとか、先方が決定することはある。
しかしそれがすべてならあまりにも哀しい。(東大出で大学教授には最高の思想だろうけどね)。
田中角栄のように、中卒でも大臣をめざせば、ときにはドアが開かれるという裂け目も必要だ。それが人生の面白いところだし、たとえ田中角栄が夢に敗れても、最後には愉しい人生だったとおもうはず。
まずは「やってみることです」。やってみなければはじまらない。
人はその能力に応じた道があるとRクルートと同じことをいっているのは内田さん、あなたじゃないの?

茶々 [TypeKey Profile Page]:

最終回(完全版#3)『愚よ愚よ汝をイカに戦記』by 茶々 (あらかじめご注意申し上げておきますが、ここは本当に危険ですので、しばらくの間、私以外の方は書き込みをしないでください。その理由を知りたい方は、宮崎駿のコミック版『風の谷のナウシカ』第7巻をどうぞ!)

#1

え? もう終わりかよ。うん。あんだけ引っぱっといて、ナンダヨー。まっ、最終回ですべての謎が解けますからご安心を... ふふふ。ところで、最終回のお楽しみの「答え」は、『わかりません』でした。えええええええええ! 何それぇ?!  いわゆる「ひっかけ問題」ってやつですね。『すみません』でした。つまりー、

すでに啓蒙されている虚偽意識であるシニシズムには、説得という「知」による教化は不可能なんです。なぜなら虚偽(嘘)だとわかっていて、わざとやっているのがシニシズムだからです。「そんなことはわかっていてやっているんだよ」っていうのが「I.H」さんのポリシーなんですね。だから主観的には「I.H」さんには「知らないことはない」。なぜなら全部「わかっていて、計算の上でやっている」ことだからです。たとえ不意を討たれるようにして未知に出会ったとしても、「I.H」さんは事後的に必ず「そんなことは知っていたよ。わかっていてわざとやっていたんだ」と負け惜しみを言うのです。未知は許せないのですね。それが自分の設計、計画、計略にないからであり、「I.H」さんは、自分の行動を全てコントールして、知っててすべてわかっていてやりたいことだからです。つまりもう十分人生に裏切られていて、これ以上予想外のマイナス情報に傷つきたくないっていうのが「I.H」さんの偽らざる本音であり、人生において想定外のことに出会うと、そんなことは最初から知っていたよと「事後的に」虚偽の予防線を張ることで、自分は安全であると思い込みたいのです。なぜなら自分の支配が及んでいるところは安全であり、それゆえ「支配欲」の頑さの固まりになるのです。

原理原則というものから演繹的に、また既知の情報から帰納的にすべての真理という英知を引き出して、世界を隅々まで自分の知の支配の及んだ「想像的世界」を構築しようとする一種のマッドサイエンティストになってしまっている「I.H」さんは、オリジナルである主体(=No.1である存在)であり続けようと常に先手を取ろうとすることで、かえって後手後手を踏み続けることになるのですが、たとえそうだとしても、すべてを知っていると想定された訓導すべき〈師〉であることが理想我である主体にとっては、主観的には先手を取られることがあってはならないのです。ですから、たとえ先手を取られて「しまった」と思っても、必ずそんなことはわかっていたよ、とその先行するテクストを反駁し解体し、他者の先行性を無化しようとするのです。そしてその負け(=後背性)を認めようとしない頑さが、つまり頭のネジがゆるまないようにゆるまないようにと、原理的・原則的に締め付け過ぎることが、逆に「I.H」さんの知性から「遊び(=グルーチョ・マルクス的な自虐的諧謔を可能にする自我よりももう一段メタな視点)」というものを奪ってしまい、結果的に「I.H」さんから創造性(=オリジナリティ=先行性)を欠落させてしまうことになるのです。批判に拘泥する二次的知性(リアクション)と、創造してゆく一次的知性(ファースト・アクション)の違いです。

つまるところ「I.H」さんは、未知をひたすら既知に還元しようとする双数的母子鏡像関係にあって、先に教えてもらいながら、相手をしてもらいながら、あやしてもらいながら、おっぱいをもらいながら、テクストを生産してもらいながら、考えるヒントを提示して貰いながら、それを受けてそれを解体しそれを批判しそれを脱構築し、尚かつ No.1である男性性(=ファルス)の示威を行おうとしているということなのです。基本的に母子双数関係にある鏡像段階の〈男の子〉のファルスは「皮被りのファルス」です。つまり「I.H」さんのテクストの批判性(=攻撃性)は、「短小包茎」をおったてたガキ(餓鬼)同然であり、それ故たとえ想像界の〈母〉にそのテクストのヴォイスが届いたとしても、現実界の〈他者〉には届かず、それで満たされない、受け止めてもらえない欲望を抱えたままの欲求不満の塊になってしまうというわけなのです。「I.H」さんが想像界の住人であるが故に、現実界を支配する大人の男性の前では塩らしくならざるを得ず、未だ外の現実界(外気)に曝されていない弱い皮膚をもつ〈子供〉の「皮被りのファルス」の持ち主である「I.H」さんが攻撃的になれるのは、実に想像界の住人である「弱きもの」「女性的なもの」の前だけなのです。本質的に内弁慶なのですね。それが、ネット界の想像界的なヴァーチャルな空間では全能感を誇る帝王気取りでいられても、現実界では実名の暴露を恐れる「I.H」さんの打たれ弱さの原因ともなっているのです。『女子と小人は養い難し』という言葉や「女子供」という言葉があるように、〈子供〉とは本来〈女性〉的な存在です。鏡像段階的双数関係にある者は、基本的に「体面=対面」を非常に気にします。「体面」とはまさしく鏡像的双数関係にある相対的存在の二者の間の境界線、すなわち鏡像を写し出す鏡面そのものだからです。両者の領域・テリトリーの境界面である「体面」こそが、自己の想像的イメージの死守すべき国境線(=支配権の及ぶところの監視の視線の地平線)にあたるのです。

#2

我らが老師がいつもおっしゃっておられるように、「謎」を追うものは必ず〈弟子〉=〈子供〉の立ち位置(=ビハインド・敗勢)に嵌ることになります。しかしながら、『述べて作らず』という〈弟子〉の〈師〉への正しい態度・位置取り・敬意を示せない者は、本質的に後追いの敗勢にありながら、すべてを知っていると想定された〈師〉の立ち位置を先取しようとします。テクストを産出してもらいながら、情報を教えてもらいながら、それに寄りかかりかつ甘えながら、それでも決してその敗北(後背性)を認めようとはしないのです。それを認めると、理想我であるところの「すべてを知っていると想定された〈師〉」としての自我構造(=万能感・全能感)を断念しなければならないからです。それまでの甘い母子双数関係性の揺り籠の中で培われて来た、自分の弱い想像界的自我を構成している全努力の積み重ねのすべて失ってしまう恐れを抱くからです。本当は古い殻を捨てなければ、新しいステージでの成長もまたありえないのですが、三者的な象徴段階への「命がけの跳躍」が「I.H」さんにとってはとても怖いらしいのです。外の世界の現実にもう十分過ぎるくらい十二分に傷ついているからでしょうか。皮を被ったままの〈子供〉のファルスが外気に曝されるときの〈他者〉の視線の「冷ややかさ」に耐えられないからでしょうか。齢六十になんなんとする「I.H」さんが、想像界的な甘い世界でのみ十全な発現を許された万能の自我を夢み過ぎたからでしょうか。甘えん坊の「マザコン」(おかあさんっ子)であり、「シスコン」(おねえさんっ子)だからでしょうか。

それはともかく、「I.H」さんは規範的であろうとし過ぎたせいで、つまり頭のネジを締め付け過ぎたせいで、かえってネジが切れてゆるんで、それでテクストの捻りが1/4回転になってしまい意味の取れないテクストを大量生産することになりました。「I.H」さんにとっては十分捻りを利かせた味の有る文章のつもりなのですが、たぶん本人以外には誰もその諧謔性が理解出来ない。何処がどう面白いのか〈他者〉にとってはさっぱりわからないのです。もともと自我の中に〈他者〉がいないから、そこには主観性だけがあって客観性がないからです。一方「うっかり系」の人は文章を捻り過ぎて、一回転して元へ戻ってしまっているのですが(いまどきエイプリル・フールなんか生真面目にやるかよー。そーゆーところが「うっかり」なんだよな。ったく)、捻りというものはちょうど「真半分」が両義的であり、「判じ絵」と同じく、老婆にも若い女にも、アヒルにもウサギにも、どっちにも見えるものなのです。ひとによっては、そこに自分の見たいものを見ることが出来る。鏡像的想像界にいる者は結局すべてそういうものなのです。母子関係性の幸福な揺り籠もそうですし、アイドルとファンの関係性もまたそうです。恋愛初期の恋人同士もまたそうであり、両者ともが互いに自分が見たいものを相手の中に見る。つまり「判じ絵」を見るものは、もう「見るな」の禁制を破っているのです。ひたすら知的でありたいと思うものは、すべてその「罠」にはまります。パラドックスとは論理的な「判じ絵」です。

鏡像段階に在る者の秘密を知りたければ、両義的な問題を投げかけてカマをかけさえすれば必ず見たいものを、本人がそう思いたいものをそこに見い出すことが出来ます。こっちが「謎」をかけると、本人が知っていることを先にしゃべってしまうのです。それは本人のアイデンティティであるところの「主体性」が「すべてを知っていて、すべてをコントロールしている主体」であり、自分の行動はあらかじめわかってやっていたこと、すべて想定内のことのはずだからです。こっちが知りたいことを知っている振りをして、思わせぶりに「問い」を投げかけるだけで、「そんなことは知っていたよ」と、ぽろっと自ら告白してしまうのですね。「I.H」さんにしてみれば、規範的に全てを知っていてやったことでなければならないので、本人自身でさえ知らなかったことを、つまり自分の無意識の世界のことを、本人が一番隠しておきたかった個人の秘密まで、結果的にべらべらと人前に暴露しまうことになるのです。あらかじめ「自分は知っていた」ということを、顕示しなくてはならないからです。つまりゲロ吐いてしまうのですね(うっ、トラウマ体験が... )。両義的な曖昧な問いというものは、双数的鏡像段階にある者にとっての「鏡」となり、相手の姿を映してしまうものなのです。両義的な問いで我々が鏡に映し出そうとするものは相手の真の姿であり、その鏡に映っている虚像とは、「I.H」さんは知っているけれど我々が知らなかったことです。この場合は、我々が知りたかったのは相手の本名(これは「I.H」さんは知っていたことですが、我々が知らなかったこと、「I.H」さんが我々には隠しておきたかったこと)です。一方で我々は「I.H」さんを過去時制の捕囚にしているトラウマや魂の真実を知っていますが、これは「I.H」さんが意識的には「知らない」ことであり、また「知りたくない」ことです。

ではなぜそんなにも簡単に、「I.H」さんは我々の投げかける「問い」に引っかかってしまうのか。それは「I.H」さんの「理想我」が全てを知っていると想定された主体だからです。先の先をとろうとして、事後的に後手後手を踏み続ける。「I.H」さんが本質的に、わかっていること(先行して投げかけられている既存の枠組みである謎や物語というコンテクスト・文脈)の後追いしか出来ないからです。一般に普通の人は、自分自身の内面の真理や無意識の真実、あるいは魂の秘密を、つまり自分の行動の本当の動機を内省という形で「知る」ことが出来ます。反省とか自制とか自省という形でです。それが成熟した大人のあり方であることは、言うまでもないことですが、しかしながら、自我を隔壁で多重人格という〈仮称〉(=仮の二次的構築物・ヴァーチャルな存在)に分割している「I.H」さんにはそれが出来ない。深刻な(貴重な)経験が体験にならないでいるから、「人格」という形で統合された自分史に登録されないでいるのです。それで「I.H」さんの秘密は「I.H」さんの記憶や心の中ではなく、「I.H」さんの書くテクスト、「I.H」さんが創造し自分を仮託したキャラ(二次的パーソナリティ)というアヴァターが演じるところの、自作自演の登場人物の台詞の中に文字通りスクリプトという形で現れるのです。驚きに出会ったら素直に驚き、未知を既存のフレームワークの中の既知に回収せず、驚きを驚きのままにしておく「センス・オブ・ワンダー」があれば、こんなことにはならずに済んだのですが、あらゆるキャラを思い通りに動かすシナリオ・ライター兼演出家であろうとしている「I.H」さんにしてみれば、すべてを知っていると想定された主体、すなわち全知全能の神に自身を準えているのですから、神秘というものがこの世から消えてしまって、現実というものに退屈してこんなことにしか熱中出来ないのも当然と言えば当然です。お可哀想ですね。哀れむべき悲しい獣です。

#3

2008年04月07日エントリーの『原則的であることについて』で、〈師〉想定された主体から直接かまってもらえると思ったときの、この「I.H」さんの小躍りするようなコメント(2008年04月07日19:39に投稿されたコメント)をよく見て下さい。まるで母親から「おっぱいの時間ですよー」と言われた幼児のような有り様が、手に取るように伝わって来て、貴重なフィールドワークの研究資料になっています。また〈娘〉としてのメス鳥が待てど暮らせど現れなかった時の、いやそもそもが片思いのお相手がこの世に存在しなかったのですから、いわば〈子供〉が自己を主張し、ファルスを顕示して、反論して解体すべきテクストを与えてくれる〈娘〉あるいは〈姉〉の「(セックスとしての)おっぱい」の時間が永遠に来ないのですから、〈子供〉は益々むずかり、暴れ、だだをこねて、泣き叫ぶという形でしか、つまり解体された言語、声にならない声、意味を周りに深読みしてもらうしか聞き届けられないぶーぶーという豚のパロールでしか、コンタクト交話を語れないでいるのも当然なのです。学習者、研究者の方はよーく見ておいて下さいね。「I.H」さんの十八番の「党内抵抗勢力」を作っての自作自演、意味のない、歴史として統合されない断片的な記憶や言葉の垂れ流しのエクリチュールの量産の数々を。

双数的鏡像関係にある者がもたらす、あるいは想像段階にある者にふりかかる悪とは、いわゆる経済学的用語で言うところの「合成の誤謬」ってやつなのです。ケインズの「美人コンテストの投票原理」と一緒で、それが「猫の手を万力で締め付けるような邪悪なもの」(@村上春樹)の正体です。〈父〉なき双数的関係にある〈母子〉の、お互いに相手を受容し相手に主体性(決定権・善悪の判断)を譲ろうとする、合わせ鏡の迷宮に捕われた甘い母子関係性の揺り籠の中にある二者にとっての地獄とは、実にそういったものなのです。内田先生が人に対してなるべくフレンドリーでありたいがため、執筆依頼を断れずに捌き切れない程の仕事を抱えて、結果的に自分の首を絞めることになるのも「合成の誤謬」です。お互いに相手に良かれと思って為すことが、ある臨界点を超えて合成されると善意が邪悪なものにかわってしまうのです。「I.H」さんの場合でいえば、ひとつひとつのキャラやアヴァターのコメントはまともであったとしても、それが合成されるとある邪悪な意志を構成しているということです。これが想像界の罠です。お互いに主体性(=責任を引き受ける者・責任主体)を譲り合っていては事態は先に進まないということです。経済学で言うところの、いわゆる「ホット・ポテト(蒸しあがったばかりの熱々のジャガイモ)」をババ抜きみたいにお互いの間でキャッチボールしているということです。内田先生の場合は「アンチ・フレンドリネス」という名のホット・ポテトを、「I.H」さんの場合は「悪」ないしは「罪」というホット・ポテトを。ですから、ここは〈父〉なるものの干渉による母子関係性の紐帯の切断、すなわち「去勢」がなされなければ、〈母子〉ともに両者共倒れに終わります。「エディプス的切断」が行われないと、〈子供〉が一個の人格的姿であるところの真の人間的主体となれずに発育不全・形成不全にとどまってしまい、いわゆる「胞状奇胎」に陥るのです。まさにどれも独り立ち出来ない多重人格のキャラたちの葡萄の房のような塊ですね。おそろしい化け物のような醜い獣です。もうそれは人間と呼べるような代物ではありません。ちなみに母にとって異物である胎児と癌細胞はともに同じ仕組みで、母体の免疫による異物排除の攻撃のメカニズムを逃れているのだそうです。いつまでも〈子供〉であり続けたいと相手の善意に甘え、〈母〉の生産するテクスト(乳房)に取りすがり続ける者は、癌細胞と一緒です。

「I.H」さん自身は、自分は無限の可能性を蔵していて、それを育ててくれる人がいたら、自分のいうことに耳を傾け、自分にかまってくれる人がいたなら、自分の可能性は十全な創造性として開花するはずだと、いつもそう思っています。一度自分が本気になったら、なんでもどんなことでも出来ると思いながら、結局どれも中途で投げだして何一つ満足に完成させることのないままで終わっているのですが、他人には常に前段の同意を求めているのです。「準備中」の看板や少しも実行されない素晴らしい計画案ばかりを量産し続けて、ついに一生のうちでなんの専門性も持ち得ず、なんら社会的な有為性を発揮しないままで人生を終わってしまうことになるのですが、「I.H」さんにしてみれば、創造的であろうとして、成熟した一個の独立した社会人や生活人でありたいと願望しながら、つねに自分を庇護し保護してくれる〈母〉なるものを、そこに自分が見たいと思う「本当の自分」を映し出してくれる「己惚れ鏡」としての〈他我〉を、実際には求め続けているのです。現実に裏切られ続けているにもかかわらず、いやそれだからこそ、せめて自己の想像的世界の中では、すべてを知っていると想定された理想我でありたいと思っているからです。六十歳になんなんとして未だ「エディプス的切断」を拒否している甘えん坊の〈子供〉の立ち位置を選択し続けているわけですから、つまり「成熟」を拒否しているのですから、成長が止まり、未熟のまま人生が暮れようとしているのも当然と言えば当然ですね。だからそのファルス(攻撃性)も皮(保護皮膜=緩衝材)を被ったままであり、真の批判性に達しないから、実社会への影響力もまたないのです。

トラウマ的体験を克服するためには、それは過去に起きたことであり、あなたはもうそれを現実に克服して今現在生き延びているのだから、もうそれ(=トラウマ体験)はあなたの脅威にはなりえないのだと、そうはっきりと告げることだけです。つまり事実を事実として素直に認めれば済むことなのに、それ(=トラウマ体験)をあれこれと理屈をこねて解釈し和らげようとするから、かえって常にそれが脅威であった(つまり和らげる必要性のあった)過去に縛りつけられ、繰り返し過去に舞い戻ってしまうのです。悲劇的ですね。お可哀想です。知的であり過ぎるのも考えものであり、『過ぎたるは及ばざるが如し』を地で行く、知を病んで「やまいだれ」の方の「痴的」になってしまった「I.H」さんでした。言うも愚かです。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

茶々さんへ

「トラウマ」って言葉がひんぱんに出てくるのですが、これひょっとして「シマウマ」の間違いでは?
あるいは「激ウマ」体験とかの間違いかも。
「激ウマ」体験といえば、ぴりりと辛い冷たい黒ごま坦々麺でしょう。
http://www.enjoytokyo.jp/TK/157.html

ま、おれ的には「トラウマ」より「ライオンウマ」のほうがイメージ的に好きなんだけど。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

茶々=aikagamiくん。
いくら内田ファンは頭のネジがゆるんでいるからといってイカフライ=I/H氏としてこんなことを2ちゃんねるに書き込んではいけないよ。
これは人の道をはずしている。

> 京都の孤児院『積慶園』を出て東京では十六歳からホームレスを続け、挙句、盗みに入って逮捕。
> 京都に押送され、泉州にあった『和泉少年院』に半年。
> しかし、知人も親戚も親もないわたしは東京に出てまたすぐに就職したばかりのトルコ風呂にて
> 両替を頼まれたのを着服して逃げ、横領と、前回あった保釈の窃盗とで栃木の赤羽刑務所に三年服役。
> それ以後は犯罪には縁がなかったものの、東京では田舎出の世間知らずの女の子のヒモになり、その子を
> 毎日キャバレーに働かせて自分は遊んでいた。愛情など一切なかった。
> その子が子供をおろしたのを機にその娘をクズ紙のように捨てて13年前に大阪に逃げてきた。
> その後は釜ヶ崎のホームレス無料宿泊所にお世話になり、そこの責任者が死んだのをいいことに
> そのまま居ついている。
> 最近になって子供をおろしたその子に会おうと思ったが病気をこじらして郷里の対馬に帰ったきり消息も知れない。

これを岩城春雄氏が知ったら、たぶん茶々=aikagamiくん、きみに抗議するとおもうよ。

kankan [TypeKey Profile Page]:

内田先生へ

はじめまして。
今回のブログは非常に共感いたしました。

ところで、このイカリングと言う人の無教養なコメントは見ていて不快になります。
自分は頭が良いと思っているところがまた噴飯ものの○○で、現実社会でも負け犬であることを自ら晒しています。

ここは内田先生のブログなので、気に入らなければ来なければ良いのに何故か粘着系です。

できれば彼のコメントを全て削除願えれば幸いです。

失礼致しました。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

aikagamiくん、あなた、ほんとうに、冗談でなく精神病院で診てもらったほうがいい。
あなたは完全に病んでいる。

牢獄に囚われているのはあなたの精神であり心ですよ。
これは嫌味でいうのではない。
ほんとうに、衷心から申しあげる。一度精神科医に診てもらいなさい。

それもできるだけはやく。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

内田信者の卑劣な妄言によってコメントが流れたので再録しますね。

  -----------------------------------

相変わらず困った妄念を流布してくださる困った先生だ。w

何度も申し上げていることですが、内田さん、速やかに教師を辞して事務方に回って下さい。
それが世のため、親御さんのため、とくに学生さんたちの未来のためでもあります。


>私が何ものであるのかは私が何をなしとげたのかに基づいて知られる。

のではありません。
それでは能力のあるものしか私が何ものであるか知ることができないことになる。
それじゃあ、ちと困るんですよ。
人間は能力のある人も、ない人も自分が何ものであるかを知ることができなければ、わたしのような無能者は死ぬまで浮かばれない。
もっとも内田さん、あなたのような優生思想の能力主義者からすれば、能力のないやつはどうでもいいのだろうけど。
さて、そこでこう言い換えましょう。

私が何ものであるかは私が何をなしとげようとしたかに基づいて知られる。

と。
成し遂げたこと自体は問題ではありません。成し遂げようと意志すること、すなわち夢を持つことが人生の歓びであり意義なのだと。
そういう意味ではすべての人が「成し遂げる」ことはできなくとも「成し遂げよう」と意志することはできる。
すなわち万人が隔てなく夢を持つことはできるのです。
そしてそれが成し遂げられようと、成し遂げられまいと、それによって人は自分が何ものであろうとしたかを知るのです。

>「他者からの要請があるより先に、あらかじめその価値が知られている知識や技術」は存在しない。

他者を国家とか企業に置き換えればそりゃあ都合のいいお話ではありますが、他者からの要請によってその鋳型のように人間は存在するのではないとおもいますよ。
確かにおっしゃるとおり、きみは旋盤工でいいから、とか、きみは大学教授だなとか、先方が決定することはある。
しかしそれがすべてならあまりにも哀しい。(東大出で大学教授には最高の思想だろうけどね)。
田中角栄のように、中卒でも大臣をめざせば、ときにはドアが開かれるという裂け目も必要だ。それが人生の面白いところだし、たとえ田中角栄が夢に敗れても、最後には愉しい人生だったとおもうはず。
まずは「やってみることです」。やってみなければはじまらない。
人はその能力に応じた道があるとRクルートと同じことをいっているのは内田さん、あなたじゃないの?

yamamomo [TypeKey Profile Page]:

この上の方の粘着的なリソースを
何か世界平和やチベット為の力に
転じる方法はないものでしょうかね^^

地球資源としても、勿体ないものです。
あ、もしかしてお仕事だったり?
内田転覆の為のCIA又は中共の工作員様であられたり?


kankanさんの明快な提案に共感致しました。

はい
では、わたくしも(^_-)☆

内田先生、こんばんは
今回のブログは非常に共感いたしました。

ところで、このイカリングと言う人の無教養なコメントは見ていて不快になります。
自分は頭が良いと思っているところがまた噴飯ものの○○で、現実社会でも負け犬であることを自ら晒しています。

ここは内田先生のブログなので、気に入らなければ来なければ良いのに何故か粘着系です。

できれば彼のコメントを全て削除願えれば幸いです。

失礼致しました。

harahan [TypeKey Profile Page]:

初めてコメントいたします。

>「私はあなたのために何ができるのですか?」

と、

>私が何ものであるのかは私が何をなしとげたのかに基づいて知られる。
>なしとげる以前に「私」は何ものであるかまだわからない。

社会人歴15年ですが私の経験からして、これはまさにそのとおりだと感じます。

入社する、転職する、昇進する、異動する、出向する、といった会社員生活にまつわるイベント毎に、毎度その人の過去が持ち出されます。
何をやってきた人間か。
その過去はこの仕事を依頼する相手として信頼に足るか?
あるいは、その人の依頼に真剣に対応する価値はあるか?
その判断基準はその人の過去の実績が最も重視されます。それが信用というものなのですね。
それはいまだに続いていて、おそらくリタイアするまで、いや死ぬまで続くでしょう。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

いくら立派なことを書いても、こういうデタラメを「弟子」に書かせる師匠ではどうかなとおもいます。

> 京都の孤児院『積慶園』を出て東京では十六歳からホームレスを続け、挙句、盗みに入って逮捕。
> 京都に押送され、泉州にあった『和泉少年院』に半年。
> しかし、知人も親戚も親もないわたしは東京に出てまたすぐに就職したばかりのトルコ風呂にて
> 両替を頼まれたのを着服して逃げ、横領と、前回あった保釈の窃盗とで栃木の赤羽刑務所に三年服役。
> それ以後は犯罪には縁がなかったものの、東京では田舎出の世間知らずの女の子のヒモになり、その子を
> 毎日キャバレーに働かせて自分は遊んでいた。愛情など一切なかった。
> その子が子供をおろしたのを機にその娘をクズ紙のように捨てて13年前に大阪に逃げてきた。
> その後は釜ヶ崎のホームレス無料宿泊所にお世話になり、そこの責任者が死んだのをいいことに
> そのまま居ついている。
> 最近になって子供をおろしたその子に会おうと思ったが病気をこじらして郷里の対馬に帰ったきり消息も知れない。

これは、たぶん犯罪になるでしょう。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

>内田転覆の為のCIA又は中共の工作員様であられたり?

↑内田さん、あなたのファンはどうしてこのような妄想狂ばかりが多いのでしょうか?

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

↓みんな騙されるなよ。

>「私はあなたのために何ができるのですか?」
そうまっすぐに問いかける人だけが他者とのコラボレーションに入ることができる。

↑ネタもとはケネディの演説だけどね。w
「政府が国民に何をしてくれるかではない。国民が政府に何が出来るかを考えよ」(J.F ケネディ 大統領就任演説
1961年1月20日)
これこそは究極の権力体制に都合のいい奴隷人間を作り出す言説です。

勘弁して下さい。私設政府広報係りの内田せんせー!
とにかくわたしのために、この愚劣なブログのコメント欄における誹謗中傷をやめさせることですな。

魚丸 [TypeKey Profile Page]:

内田先生の続きが気になります。
文章としてはもう出されないのでしょうか、残念です。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

いくら立派なことを書いても、こういうデタラメを「弟子」に書かせる師匠ではどうかなとおもいます。
ここまでやられると、むしろ呆れてなにも反論もしたくない思いです。
しかし内田せんせー、いいお弟子さんばかりが集まりますねえ。
誹謗中傷、脅迫、いかにもらしい作り話のでっち上げ。これが内田ファンの傾向性ならばどうもセンセーにも問題があるのではないでしょうか?
みなさまに、いかにものすごいことをセンセーの弟子が書くかみてもらいましょう。

> 京都の孤児院『積慶園』を出て東京では十六歳からホームレスを続け、挙句、盗みに入って逮捕。
> 京都に押送され、泉州にあった『和泉少年院』に半年。
> しかし、知人も親戚も親もないわたしは東京に出てまたすぐに就職したばかりのトルコ風呂にて
> 両替を頼まれたのを着服して逃げ、横領と、前回あった保釈の窃盗とで栃木の赤羽刑務所に三年服役。
> それ以後は犯罪には縁がなかったものの、東京では田舎出の世間知らずの女の子のヒモになり、その子を
> 毎日キャバレーに働かせて自分は遊んでいた。愛情など一切なかった。
> その子が子供をおろしたのを機にその娘をクズ紙のように捨てて13年前に大阪に逃げてきた。
> その後は釜ヶ崎のホームレス無料宿泊所にお世話になり、そこの責任者が死んだのをいいことに
> そのまま居ついている。
> 最近になって子供をおろしたその子に会おうと思ったが病気をこじらして郷里の対馬に帰ったきり消息も知れない。

誤読しらず [TypeKey Profile Page]:

>わたしのために、・・・・・・させることですな。

自称・革命家さんは、「わたしのために××してほしい」しか考えられないんですか? どうしてかな?(ニッコリ)

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

内田さん、いくら立派なことを書いても、以下のようなデタラメを「弟子」に書かせる師匠ではどうかなとおもいます。
前回のわたしが東本願寺の僧侶であるという思い込みからの東本願寺電話攻勢を内田さんは
このブログで容認されたわけですが、今回はさすがに、
ここまでやられると、むしろ呆れてなにも反論もしたくない思いです。
しかし内田せんせー、いいお弟子さんばかりが集まりますねえ。
誹謗中傷、脅迫、いかにもらしい作り話のでっち上げ。これが内田ファンの傾向性ならばどうもセンセーの精神にも問題があるのではないでしょうか?
みなさまに、いかにものすごいことをセンセーの弟子が書くかよーくみてもらいましょう。
キチガイのタワゴトにしては真に迫っています。

> 京都の孤児院『積慶園』を出て東京では十六歳からホームレスを続け、挙句、盗みに入って逮捕。
> 京都に押送され、泉州にあった『和泉少年院』に半年。
> しかし、知人も親戚も親もないわたしは東京に出てまたすぐに就職したばかりのトルコ風呂にて
> 両替を頼まれたのを着服して逃げ、横領と、前回あった保釈の窃盗とで栃木の赤羽刑務所に三年服役。
> それ以後は犯罪には縁がなかったものの、東京では田舎出の世間知らずの女の子のヒモになり、その子を
> 毎日キャバレーに働かせて自分は遊んでいた。愛情など一切なかった。
> その子が子供をおろしたのを機にその娘をクズ紙のように捨てて13年前に大阪に逃げてきた。
> その後は釜ヶ崎のホームレス無料宿泊所にお世話になり、そこの責任者が死んだのをいいことに
> そのまま居ついている。
> 最近になって子供をおろしたその子に会おうと思ったが病気をこじらして郷里の対馬に帰ったきり消息も知れない。

誤読しらず [TypeKey Profile Page]:

  ↑↑↑
「火がないところに煙は立たない」って格言が浮かびました。どうしてでしょうね?(ニッコリ)

kankan [TypeKey Profile Page]:

イカリングさん

僕は内田さんの弟子などではありませんよ。
通りがかりに近い人間で、内田さんの素晴らしい内容に感銘を受けたから書き込みをしたまでです。

そこにあまりにも無礼で無教養で薄っぺらい不愉快な主張が書き込まれていたので、削除していただけないか内田さんにお願いしたまでです。

あなたはみんなから嫌われていますよ。
このコミュニティから退場してもらいたいとみんなが切に願っているはずです。
多分現実社会でも同じ様な扱いを受けていらっしゃるのはご自身が一番自覚されていることでしょう。

もう少し謙虚になられては如何でしょうか。
それだけで、イカリングさんのリアルな社会での暮らし心地も良くなると思いますよ。
どう客観的に見てもあなたのレベルは内田さんに大きく及んでおりません。それはあなたの社会的立場が物語っていると思います。あなたと内田さんの社会的立場の違いが、そのまま能力の差だと思えば宜しいのではないでしょうか。

皮肉なことに、内田さんがあなたのために素晴らしい示唆をしていらっしゃいます。

「私はあなたのために何ができるのですか?」
という謙虚な気持ちがあなたにはないのです。

自分が社会から受けている扱いに不満を持っていらっしゃるのでしたら、まずはもう一度謙虚になられるところからやり直すことをお勧めいたします。

あまり人間としてみっともなく、悲しい行為をしないで下さいね。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

ところでここさ、「内田樹の精神異常者陳列室」とでも名称を変更したほうがいいのでは?
aikgami=茶々をはじめ、誤読知らず、など完全にイってますよ。あちらの世界に。w
もちろん頭の回転のよ過ぎる先生の影響でしょうが。w

誤読しらず [TypeKey Profile Page]:

 ↑↑↑
>完全にイってますよ。あちらの世界に。w

それだけで批判になるって考えられるんですね?
何故なのかな?(ニッコリ)

yamamomo [TypeKey Profile Page]:

>完全にイってますよ。あちらの世界に。w

ああ、それでしたら
こちら(←あちら)の世界へお出でにならなければよろしい。

どうぞ。
そちらで有意義な日々をお送り下さいませ。

お気遣いなく (-_-)

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

ああ、 yamamomo さん。
おたくのような精神に異常のある方にはここは居心地のよい陳列室かもしれませんな。
お茶もケーキも出ませんが、どうか、ごゆっくり。

室長のイカフライでした。わははは。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

ちぇっ。
たまに「釣り」をやると、頭のおかしなのに限って自分のことだと思い込んで、そうそうに引っかかってきやがる。(ばーか)

yamamomo [TypeKey Profile Page]:

↑↑↑

自爆^^〜☆

たか [TypeKey Profile Page]:

できれば、このようなコメントは最後にしたい。
>それでは能力のあるものしか私が何ものであるか知ることがで
>きないことになる。
>それじゃあ、ちと困るんですよ。
 自分に都合の良い人を良い人と言い、都合の悪い人を悪い人と言う。イカさんにとって内田先生は都合の悪い人なのでしょう。なぜかは、よく考えてみれば分かるかも。すると都合のいい所はどこかと言えば、それが浄土真宗だったのかも知れません。しかし、学ぶうちに浄土真宗の教えも意外に厳しいということに気づいて、そこからも逃げているのではないでしょうか。言動(言はここでわかる通り、動はブログ情報による)からは真宗を学んでいる態度には見られません。

>私が何ものであるのかは私が何をなしとげたのかに基づいて知
>られる。
>なしとげる以前に「私」は何ものであるかまだわからない。
 というのは人生すべてどんなことでも、と受け取りました。なされたことを差別しているのはイカさんの方ではないでしょうか。妙好人のような評価もあります。私が何ものなのか真剣に見つめなおして見たらいかがでしょう。イカさんは何もの?
 イカさんに山伏弁円のような回心が起こることを期待します。そのとき私は感動の涙を流すことでしょう。まだまだチャンスはあると思います。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

たかさん、
感動の涙は流さなくてもいいから、
頼むから2ちゃんねるやここに、根拠のない誹謗中傷を書き込みのだけはやめてもらいたいのですがね。
どこから拾ってきたものか知らないが、
わたしを怒らせているのはあなたのように、裏でこそこそ低劣な「物語」を拾い出してきて、
さもわたし=IH氏の物語のように2ちゃんねるに書き込んで、人格を貶めることが洟垂れ「師匠」のご機嫌伺いだと勘違いしている
姑息なおたくのような人たちです。

ま、言ってもムダでしょう。
洟垂れ師匠があれですから、当然、それに惹かれる人たちもまともじゃない。
ま、せいぜい誹謗中傷、脅迫なんでもかんでもやってみることです。
洟垂れ先生ともども、ますますその正体が知れ渡る効果があるというものです。

たか [TypeKey Profile Page]:

私はイカさんが思っている人とは全く違います。一時期のコメント欄で誰が誰だかわからないような推測がなされたことがありましたが、一人二役とかは全く関係ありませんし、そのような疑心が出ること事態、自らの行いがそうさせているのではないでしょうか。正直に素直に生きるとこんなに楽かと思うほど楽になりますよ。その為には自らが素直になることです。人はその人の前では素直になれる人と、その人の前ではどうしても反発してしまう人とがあります。素直になれない人(内田樹)のところは離れて、素直になれるところで勉強するのが最も自然だと思います。みんなパワーを使って嫌な思いをする必要はないと思います。
 臨終のときに「何をしたか?」と問われたとしたら、ブログに書き込みをしていましたと応えるのでしょうか。(当然ブログが主とは思いませんが、かなりパワーを使われているようなので)内田先生を通じてイカさん自身が成長しなければ勿体無いことでしょう。

zerokei [TypeKey Profile Page]:

みなさん、質の低いコメントの応酬はやめませんか?

どちらの方々も解り合えるとは思えません。ですから、理論で攻めても、罵っても仕方がないと思います。

私を含め多くの方はコメント欄は読まないと思いますが、表側の「最近のコメント」欄にチラチラ低俗な言葉が踊るのはあまり気分の良い事ではないです。
ですから、コメント合戦をされている方は、どちらの側にしろ、その他多くの方々に「迷惑」をかけているのではないでしょうか?

どちらの側に立っても相手は「春の虫」ですから、ほっと置けばそのうち消えると思います。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

>私はイカさんが思っている人とは全く違います。

どういう人間なんだよ。
違うというのならメールくらい公開するなり、略歴くらい書いておくべきだろう。
完全な匿名で「違う」もなにもあるものか。あほう。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

それにほんとうにおれのことを心配しているのならメールで伝えるべき事柄であって、
このコメント欄を使うこと自体、おまえが、低脳な誹謗中傷野郎の一味であることを自らばらしているんだよ。あほう。
まともな人はちゃんとメールをくれてます。

weezer [TypeKey Profile Page]:

沖縄にバカンスに行って帰ってきたら、相変わらず馬鹿イカが熱くなっているようですな。ま、それはともかく。

>私が何ものであるのかは私が何をなしとげたのかに基づいて知られる。

というのは、ある程度働いてから、腹の底から実感できるものかもしれません。そうであれば、いわゆる就職活動をしている諸君にとっては「ウッド・ビー スペシャリスト」として己を規定するほかない。大学教育を通じてその「ありうべき自分」を見つけるのはなかなか容易ではないと思います。

そう考えてみると、就職業界で「買い手」「売り手」と称される学生と企業の関係は、実は逆なのではないかと思います。
なんだか複雑な事になっている様で、同情を禁じ得ません。

ブルー [TypeKey Profile Page]:

内田さんの「私が何ものであるのかは私が何をなしとげたのかに基づいて知られる」という文をイカフライさんは「優生思想の能力主義者」の発言であると批判し大切なのは「意志」であると主張していますが、僕にはどうしても内田さんの文章をそのように読むことができません。なぜならこのエントリーの文脈において内田さんは「能力」vs「意志」という対比を行っていないからです。

内田さんがこのエントリーで行っているのは「人間の中には何かをする前から実体的で固定的な適性というものが存在している」というイデオロギーを攻撃することです。対比のポイントは「事前に存在する固定的な適性」vs「事後的に生成する未知の適性」にありますから、ある特定の事態に臨んだときに人が「どのような意志を獲得していくか」という問題も、内田さんの「何をなしとげたのか」の中に当然含まれていると僕は判断します。例えば、僕が職場で窮地に陥ったときに、同僚A君は何もせず、B君は僕を助けるために奔走して結局は失敗したという場合、A君は「何もしない」ことを成し遂げ、B君は「努力して失敗した」ということを成し遂げています。どちらも結局は僕を助けてはいないけど、両者の違いは(僕にとっても彼らにとっても)大きい。実際、こういう場合に意外な人が動いてくれて、また実に意外な人が「何もしない」ことを成し遂げてくれて、以後、職場のコミュニケーションが微妙に、しかし決定的に変化していったというようなダイナミズムは僕自身も経験しています。

最後にイカフライさんは、内田さんへの反論として

> まずは「やってみることです」。やってみなければはじまらない。

とまとめていますが、内田さんはまさにそう言っていると僕は思います。(ただし、それだけでは若者に対する助言として有効ではない。なぜなら彼らの多くは既に例の「適職イデオロギー」にやられているから、仕事をやってみて少しでも違和感を感じるとそれが「適職の発見に自分が失敗している証拠」だと信じ、「どこかに存在するはずの100%の適職」を求めて積極的に仕事を辞めてしまうから。)

少なくともこのエントリーに関する限り、内田さんがイカフライさんの「足を踏んでいる」とは僕には思えません。失礼ながら、僕にはむしろ、イカフライさんが強引に内田さんの足をつかんで自分の足の上にのせ、「いてっ! 踏んだな!」と叫んでいるように見えるのです。

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

About

2008年04月30日 16:30 に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「休日なのでいろいろなことをする」です。

次の投稿は「ほんとは休みの日のはずなのに」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。