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ヴォイスを割る

クリエイティヴ・ライティングの二回目。
宿題をして来たものだけ受講を許すといったら、一気に半分以上いなくなって(やれやれ)、40人ほどになる。
これなら、まあなんとか課題を出して読めない数ではない。
二回目は「ヴォイスを割る」ということについての課題でたぶんほとんどの人が「勘違い」をしているであろうというお話から入る。
「割る」というのは水平的、空間的に割るのではなく、「次元を割る」ということである。
「ご飯を食べる」という一行を、「箸を手に取り、茶碗をたぐりよせ、口を開いて、口中に投じた米を咀嚼し・・・」というふうに書くのは「割る」でもなんでもなくて、ただの「引き延ばし」である。
町田康さんの一文を読んで、そういうふうに解釈した人はその段階で課題の理解を誤っている。
町田康の文章のもつコミュニケーションの深度は、「いまこの文章を書きつつある私のメカニズムそのものへの批評的自己言及」によって担保されている。
ある言葉を発する。
だが、ただちにその言葉をごく自然に発している私はどうしてこのような語り方を「自然」であるとみなしているのかという疑念が兆す(それが兆さない人はクリエイティヴィティとは生涯無縁である)。
その疑念はとりあえず「自分への問い」あるいは「自己批評」というかたちをとる。
自問自答である。
ところがこれだけでは「ヴォイスの割れ」とは言われない。
それだけならただの「腹話術」である。
たしかに、自分を擬制的に「定型的なものいい」と「壊乱的なものいい」に二重化してみると、話はとんとんと進むけれど、最終的にこの言葉の基調音は「攻撃的で皮肉で嘲弄的な壊乱者」の批評性を上位においた秩序に帰着してしまう。
自己批評、自己否定の契機を自分は自分のエクリチュールにビルトインしていると思っている書き手のほとんどは実はただの「腹話術師」にすぎない。
誤解してほしくないけれど、私は町田康さんが腹話術を使っているといっているのではない。
彼の文章を「腹話術」として理解して、わかった気になることの危うさを語っているのである。
もちろん、「腹話術」的対話でもないよりはましである。
でも、そのようなものを私どもは「ヴォイスの割れ」とは申さない。
とりあえず実例をお見せしようということで、今日は佐々木倫子さんの『Heaven?ご苦楽レストラン』の一頁を分析する。
少女マンガのリテラシーは「私の語り」のレベル差をどこまで感知できるかによって決まる。
かつて大塚英志は紡木たくの『ホットロード』を素材にして、その中の語りのレベルがいくつあるかを検証したことがある(ジェラール・ジュネットが『フィギュール』で定式化したのと同じテクスト分析方法をまったく独自に考案してマンガに適用したのである。この点での大塚の仕事はもっと評価されてよいと私は思う)。
だから、今回も『ホットロード』を素材に使おうと思って探したのだが、どうもるんちゃんが持ち去ったらしく、わが家の「マンガコーナー」にはなかった。それで佐々木倫子さんにお出まし願ったのである。
私たちが読んだ2頁には
(1)「現実に発語されたことば」(これは「ふきだし」の中に写植で打ってある)
(2)「内面のモノローグ」(これは「ふきだし」を伴わないが写植で打ってある)
(3)「(1)(2)の双方の言葉についてのコメント」(これは佐々木さんの特徴のある手書き文字で書かれている)
の三つのレベルが検出された。
(3)のレベルに出現するのは、「ある種の価値判断(ただしそれは話者に意識化されていない)をともなった言明」である。
文法用語で言えば「接続法で語られた言明」である。
それだけがきれいに切り取られたように「手書き文字」で書かれている。
そこに検知されたのは「伊賀くん(といってもわからない人にはわからないだろうが、マンガの主人公のフレンチレストランのサービスマンである)の死ぬほど自分勝手なオーナー(『動物のお医者さん』における菱沼さんのアヴァター)に対する彼自身も気づいていないエロティックな関心」である。
この6巻のマンガの中で伊賀くんがオーナーに性的関心を持っているというシグナルは図像的にも物語的にも一度も表明されない。
しかし、彼は彼女を愛しているのである。
それは彼が彼女の個性的なふるまいを表象するときに「接続法」を採用するというささやかな「モード変換」のうちに暗示されるのである。
『Heaven?』はエロティックな要素がゼロであるところの恋愛物語なのであるが、それでも、それが濃密なラブストーリーであることが「語りのレベル」の切り替えを感知できる読者だけに感知できるように構造化されているのである。
などということを言っても、読んでない人にはまるでわからないであろうから、この話はここまで。
「私」のレベルをどこまで割れるかというテクスト・パフォーマンスの実例として、次は小田嶋隆先生の『人はなぜ学歴にこだわるのか』の1頁を読む。
これは当該文庫の解説に私が書いたことの繰り返しなのであるが、未読の読者のために、それを再録しておこう。

 この人は天才かも知れないと思ったのは、小田嶋隆(敬称略。すみません、小田嶋先生)の二冊目の単行本『安全太郎の夜』(河出書房新社1991年)の中の文章を読んだときのことである。それは「ビール」というタイトルの短いコラムで、こんなふうに終わっていた。

 ビールの問題は「きりがない」ことだ。ビールは確かにウイスキーや日本酒に比べればアルコール度数の低い酒だが、逆にいえば、この酒は浴びるほど飲むことによってはじめて酒たり得る酒だ。頭が痛くならないと飲んだ気がしないのだ。ビールに適量はない。飲み足りないか、飲み過ぎるかのどちらかなのだ。
 しかもビールは、自宅の冷蔵庫にはもちろん、自販機にも喫茶店にも映画館にも、ドライブインやそばやにも、ある。ビールは私が行くあらゆる場所に、あまねく存在し、私に向かって、
「冷えてますよ」
と呼びかけることをやめない。
「勝手に冷えてやがれ」
と、思うときもあるが、せっかく私のためにそうやって冷えてくれているものを、拒み続けることができるだろうか。
 まとまりのない話ですまない。そう。お察しの通り私はビールを飲みながらこれを書いている。本当にすまない。(「ビール」、『安全太郎の夜』、河出書房新社、1991年、56-7頁)

 げらげら笑って読んでいたのだが、笑い続けているうちに、なんだか寒気がしてきた。
 書かれているのは、どうでもいいような話である。ビールを飲み続けている男がその言い訳をしている。ただそれだけの文章である。
 たしかに「ビールに適量はない。飲み足りないか、飲み過ぎるかのどちらかなのだ」という言葉は酒について書かれた警句の中で私が最も納得したものの一つである。しかし、それくらいのことで私は人を「天才」とは呼ばない。
 重要なのは最後の二行である。 
 物書きが飲酒とそれに伴う愚行を悔悟する文章や自己嫌悪に苦しむ文章を書くことは少しも珍しいことではない。しかし、飲酒癖について書いた短い文章の最後を「本当にすまない」で切り上げたテクストのあることを私は寡聞にして知らない。
 というか、そもそもどのような論件について書かれたものにせよ、「本当にすまない」のひとことを以て筆を擱いた人のあることを私は知らない。
 小田嶋隆という人は、これまで誰もしたことのないことを「ビールを飲みながら」できてしまう人なのだ。
 私はそれを知って、寒気がしたのである。
 「本当にすまない」で終わる文章に呼応するように、本書には「わからない」で終わる次のような一文がある。
 
 赤ん坊の頃から知っている従姉妹が結婚するという。
 私はおふくろに尋ねる。
 「で、相手はどんな人なの?」
 おふくろは心得ている。
 「慶應の経済を出て、なんだか商事といった会社でなんだかをやってる人らしいわよ」
 なるほど。慶應の経済か。
 私はわかった気になっている。
 おい、何がわかったんだ?
 わからない。
 幸せって、何だろう?
 わからない。

 私はこれを読んだときも眩暈に似たものを覚えた。
 頭がくらくらして当然だと思う。
 だって、この文では、わずか十行ほどの間に、驚くなかれ、それぞれ機能を異にする「五つの私」が相次いで登場するのである。
 「で、相手はどんな人なの?」と母に尋ねている「私」。これが「第一の私」である。
 「なるほど。慶應の経済か」と内心で独語する「第二の私」。
 「私はわかった気になっている。」と「独語する私」について外側から、あるいは上空の視座から冷静にコメントしている「第三の私」。
 「おい、何がわかったんだ?」とそれに問いかける「第四の私」。
 そう訊かれて、「わからない」と答えている「第五の私」。
 わずかな行数のうちに、まるでドリルが垂直に地中に沈んでゆくように、小田嶋隆は、「私」と語る機能の起源に向けて垂直に掘削するのである。
  
 おい、何がわかったんだ?
 わからない。
 幸せって、なんだろう?
 わからない。

 こういう言葉を書けるほど徹底的に内省的な人間は多くはいない。というか、現代日本にはたぶん小田嶋隆しかいない。賢愚とりまぜさまざまな方々の書物を腐るほど読んできた私がそう言うのだから、この判断は信用して頂きたい。(小田嶋隆、『人はなぜ学歴にこだわるのか』、光文社、2005年)

これが「ヴォイスが割れる」ということである。
「私」を割る技術の洗練について、さらに実例をおめにかけようということで、今度は高橋源一郎さんの『タカハシさんの生活と意見』の1頁を読む。
これはあまりに凄い多元構造なので、残り時間ではとても解説できないので、また来週ね。


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2008年04月17日 21:49 に投稿されたエントリーのページです。

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