大学はビジネスなのか?

2008-04-15 mardi

昨日、送稿した教育についてのエッセイの最後を私はこんなふうに結んだ。

教育再生のための方法として私から提言できることは一つだけである。それは教育現場から消費文化のイデオロギーを一掃すること。さしあたり、ビジネスのワーディングで教育を語る人間(メディアで教育を語っている人間のおよそ半数はそうである)にすみやかにご退場願うことである。もちろん、誰もそう簡単にはご退場くださらないであろうから、私はこうして機会あるごとに懇願しているのである。

家に帰って夕刊を開いたら立命館大学での「転部応募」の話が一面に掲載されていた。
こんな話である。

今春新設の生命科学部で、280人の入学定員に対して、414人を受け容れてしまったために、定員超過率が1.48倍となった。これでは文科省からの私学助成が交付されない。
だが、立命館は助成金の交付を望み、「あと22人入学者数を減らせば、交付が受けられる」という計算で、22人分の他学部への転部希望者を募ったのである。
今朝の新聞によると立命館大学は過去にも4回、同様の転籍措置によって補助金を得ようとしていたらしい。
どうしてこういうことが起きたのか。
理由は簡単である。
「文科省からの助成金がもらえる限界ぎりぎりまで入学させる」ということが立命館では入試戦略の「常識」だったからである。
立命館の入試担当者は生命科学部の入学者が280×1.4=392人になることを「目標」に残留率を計算した。そして、思いがけなく予想よりわずかに残留率が高く、22人オーバーしてしまったのである。
280人定員で22人の「読み違え」というのは、7.8%の誤差であるから、通常の仕事では許容範囲であるが、「ひとりでも越えたら助成金交付が受けられない」というほどにタイトな数値設定をしていたら、この誤差は命取りになる。(今朝書いたとき計算まちがいして25人と書いてしまいました、ごめんね)
今回一回だけの出来事であれば、新設学部の人気と残留率を読み違えたものと見て、おおかたの大学人は立命館の入試担当者に同情的であったであろう。
けれども、過去に同様のケースが4回あったということになると、それほどにこやかではいられない。
それはつまりこの大学では「ひとりでも越えたら助成金交付が受けられないぎりぎりの数字まで入学者を読み切ること」を入試担当者に「業務」として要求していたということだからである。
もし読みがはずれたら、転籍をして帳尻を合わせればいい。学生納付金は最大限徴収し、かつ助成金も受け取るのが「よいこと」だというのはビジネス的には「常識」である。
しかし、これは大学人にとっては「常識」ではない。
私たちは教育を行うために学生たちを入学させるのであり、その「私たちのやりたい教育」が持続可能であるために、収支が赤字にならないように工夫しているのである。
収支を黒字にするために教育をしているのではない。
私は関西の私学のことについてわずかばかりのことを知るばかりであるが、それでも大規模校のほとんどが程度の差はあれ、もう「学校」ではなく、「企業」になりつつあることがはっきり感知される。
大学の規模が巨大化すれば、管理部門が肥大化する。
権限と情報がそこに集中するようになる。
そのような仕事は教育研究とは兼務できない。
だから、教育者でもなく研究者でもないクールでリアルなビジネスマンたちが大学行政を担当するようになる。
彼らには「私たちのやりたい教育」などというものはない。
彼らにとっての優先的な課題は「コストの削減」とか「精密なマーケットリサーチ」とか「集客力のある教育プログラム」とか「アイキャッチングなパブリシティ」とかとか、そういう類のことだけである。
もちろん「学生納付金を最大化し、かつ助成金も交付されるぎりぎりの数値まで入学者を読み切る技術」は「在庫管理」技術の単純な応用であるからそのような大学では高い評価を受けるであろう。
だから、こういう出来事が頻発する。
私はビジネスマインデッドな人間が大学教育に不要だと申し上げているのではない(そんな無法なことは申さない)。
「大学経営」にはむろんビジネスマインドが必要である。
大学がつぶれたら教育はできないからである。
けれども、教育活動を続けるために経営の工夫をすることと、より大きな収益を上げるために教育活動に工夫を凝らすことはまるで別のことである。
そのことに気づかない人々に教育を語って欲しくない。
私はそう申し上げてるのである。
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