ストレスフル・ライティング

2008-04-14 lundi

日曜日なので、一日お休みである。
たまった原稿を書かねばならぬ。
『論座』に「靖国」上映をめぐる問題について原稿をさらさらと書いて、送稿。
続いて、『教育と医学』というところの教育論を書く。
字数が6000字と多いので、なかなか終わらない。
疲れたので、休憩に「中国とどう付き合うか」という「週刊現代」のエッセイを書く。
さらさらと筆が進む。
私の場合、理由は簡単で、「これを読んだら頭から湯気を出して怒る人がたくさんいるだろうな」と思うと、筆の滑りがたいへんよろしくなるのである。
なぜなのであろう。
むろん、私とて人の子、一読した編集者が感動のあまりうめき声をあげ、植字工(なんてもういないのかしら)が活字を拾いながら躍り上がり、満都の読者が随喜の涙をこぼし、批評家も絶賛、というようなものを書きたいとは念じている。
しかし、みんなが喜んでくれることを書こうとすると、これが不思議なことに「頭から湯気を出して怒る人」が必ず出てくるものを書いてしまうのである。
考えてみれば理由は簡単。
読者たちが待望しているのは、彼らに「ストレスをかけているもの」の正体が暴かれ、その愚鈍と邪悪さのよって来るところが解明され、然るべき制裁を受けることだからである。
この作業はおおかたの読者には歓迎されるのであるが、当然のことながら「ストレッサー」ご自身にとってはぜんぜん歓迎されない。
ならば、私の筆先によって憤慨する「ストレッサー」さんたちの数を減じて、ごく少数の「ほんとうにたちの悪いストレッサー」だけを選択的に批判すればよいかというとそういうことではない。
だって、「ストレッサー」が現にストレッサーとして活発に機能しているのは、彼らが広い範囲に遍在しており、なかなかその姿がとらえにくく、彼らがもたらす被害評価が下し難いからである。
局所に固まっているだけなら、「馬糞小屋」(@村上春樹)と同断で、近くに行かなければなにごともない。
ストレッサーたちは「遍在する」がゆえにストレッサーなのである。
それゆえ、私の批評的な文が満都の読者に歓迎されるためには、いきおい「遍在するもの」にその矛先は向かねばならず、結果としてきわめて多くの人が私の文を読んで「これはオレのことか」と激怒するということになるのである。
因果な商売である(商売じゃなくて、趣味なんだけど)。
上映禁止問題については、これは「民主主義の根幹的価値を守れ」ということを書いていれば、あまり怒る人はいない。
それではつまらない。
かといって、「そういう反日的なものの上映は国益を損なうであろう」というようなことを書いたら、リベラルの人は激怒するが、保守の人や右翼のひとは大喜びしてしまう。
それではつまらない。
両方とも怒らせるような論の立て方はないものかと思案する。
そうだ、「政治的に正しいことを言うやつは信じるな」ということを書けば、左右問わず政治的に正しい人たち全員が怒るに違いない。
おお、そうしよう。
さらさら。
教育問題はどうしたものか。
まず教育行政を批判し、ついで消費文化を批判し、モンスター・ペアレンツを批判し、学力のない子どもたちを批判し、そのような事態を放置した教師たちを批判し、批判ばかりしているメディア知識人(私を含む)を批判する。
これでほぼ日本人全員を怒らせる論が完成した。
次は中国論。
「中国はろくでもない国だ」と書くと親中国の人は怒るが、反中国の人は喜ぶ。
「中国の言い分にも一理ある」というようなことを書くと、反中国の人は激怒するが、親中国の人は喜ぶ。
それでは曲がない。
どちらもみんな怒るような論の立て方はないものか。
ということで中華思想解説というものを書く。
別にいかなる政治的主張も含まれていないのだが、おそらく誰が読んでもたいへん不愉快になること請け合いである。
勘違いしてほしくないが、私が文を草する目的は「できるだけ多くの読者のストレスを除去すること」である。
しかし、その作業はどうしても「きわめて多くの読者が不快になること」を伴ってしまうのである。
なぜであろうか。
賢明なる読者はもうその理路がおわかりになったであろう。
そう。
私たち自身が私たちにとってのストレッサーだからである。
私たちを傷つけるのは他者ではないからである。
私たち自身の弱さと邪悪さと愚鈍さが私たちを生きにくくしているからである。
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