原則的であることについて

2008-04-07 lundi

原則として「ことに臨んでは無原則に対応する」ことにしている。
原則的にふるまうのはよいことであると言われるけれど、これは半真理であり、取り扱いに注意がいる。
というのは、原則的であることが必須である局面があり、原則的ではない方がよい局面があるからである。
その見極めがむずかしい。
例えば、親は子どもに対して原則的に対応しなければならない。
無原則な親は子どもにとってたいへん迷惑な存在だからである。
あるふるまいを昨日は叱り、今日はほめ、明日は無視するというふうな態度を続けると、子どもは社会性の獲得に支障を来す(統合失調の素因になるとベイトソンは論じている)。
子どもに対しては原則的に対応した方が、子どもは成長しやすい。
そういう親は「乗り越えやすい」からである。
親の立てる原則の無根拠や理不尽をひとつだけ指摘すれば、もう親を乗り越えた気になれる。
それでよいのである。
親はそのためにいるのだから。
けれども、教師はつねに原則的である必要はない。
できるだけ遠くまで子どもをひっぱってゆき、次の教師に「パス」するのが教師の仕事である。
そのためには過度に原則的でない方がよい。
「先生、昨日と言うことが違うじゃないですか」と子どもが口をとがらせても、「昨日は昨日だ」で済ませるのが教師の骨法である。
さらにその上位の「老師」というような格になると、もう原則もへったくれもない。
弟子が老師の推論形式について適用しようとするすべてのルールを軽々と踏みにじるのが仕事である。
というふうに原則の適用は「原則的」には運用されないのである。
どのような遂行的な効果を期待するかによって、原則は伸縮自在である。
相手が幼児的な段階にあるときは原則的にふるまい、相手がある程度成長してきたら、無原則をまじえ、相手が十分に成長してきたら、無原則に応じる。
そういうものである。
ここまでの理路はおおかたの人には経験的に納得いただけることと思う。
納得しない方もいるかもしれないが、その方にとっては以下の話はさらに納得しがたいであろうから、ここで読むのを止めておうちに帰ってくださって結構である。
ここからがいささかややこしい話になる。
人間は自分に対しても原則を立てる。
「原則を立てる私」と「原則を適用されて言動を律される私」に二極化するという芸当が私たちにはできる。
そして、自分自身のために立てた原則はどのような外在的な規範よりも拘束力が強い。
「プリンシプルのある人間」という評言が、表面的にはほめ言葉でありながら、ある種の皮肉を含んでいるのはそのせいである。
きびしい原則を立てて自分を律している人間は、それと気づかぬうちに自分を「幼児」とみなしていることを私たちは無意識に察知している。
その人は、自分自身のうちで擬制的に「親と子」を二極化して、理想我としての「親」によって、現実の幼児的な自我を「訓導」させようとしている。
これは効率的には悪い方法ではない。
しかし、難点は現実の親子と違って、この場合は「親」も「子」も同一人物だということである。
理想我であるところの「私=親」は「私=子ども」に乗り越えられることをはげしく拒否する。
そこが現実と違う。
現実の親は子どもにできるだけ早く「乗り越えられる」ことを実は期待しているからである。
だからこそ、シンプルで「一見合理的」な原則を立てて、子どもに接するのである。
その方が早い段階で子どもが「親を乗り越えた」と思ってくれるからである。
親をさくさくと乗り越えてもらわないと「パス」が次に繋がらない。
親は教師にはなれないし、なろうとしてはいけない。
親が立てる「シンプルで一見合理的」な原則は子どもにも反証を列挙できるほどに実は底が浅いのである。
子どもが乗り越えやすいように、わざとそういうしつらえにしてあるのである。
親がどんどんハードルを高くしては、子どもは成長できなくなる。
親の仕事はハードルを適当な高さに設定して、「とりあえず、ハードルをクリアーした」という体感を子どもに経験させることである。
ところが、この「子どもに乗り越えられる親の仕事」を「プリンシプルのある人」は容易に引き受けることができない。
だって、彼らにおいては、「子どもである私」を訓導する「親である私」こそがアイデンティティの本籍地だからである。
「プリンシプルのある人」はあらゆる手立てを用いて、「子どもである私」を「親である私」が立てた原則に従わせようとする。
たしかに、原則の要求レベルが高い場合はそれが教育的に機能することもある。
けれども、それが十分教育的に機能した場合に、シンプルで「一見合理的」なその原則の「底の浅さ」にやがて自分自身で気がつくようになる。
「私は自分自身に高い要求をつきつけて、それをクリアーしていることで成長している気になっているが、この『要求をつきつけるもの』や『成長の度合いを査定しているもの』の判断の妥当性はいったい誰が、どのようにして担保しているのか?」という問いに必然的に遭遇するからである。
自分で立てたルールの拘束力が成長を妨げる方向に機能するのは、このような場合である。
「ブレークスルー」というのは「自分はまだ十分に知識や能力がない」という無能の自覚で終わるのではない。
その「無能の自覚」をさらに高みから眺めて「おお、結構なことじゃないか」と満足顔をしている「わがうちなる査定者」の下す査定の妥当性に対する懐疑にまで及ぶのである。
自分の無知や無能を認めることは、「よくある向上心」にすぎない。
「ブレークスルー」は「向上心」とは次元が違う。
自分自身が良否の判定基準としている原則そのものの妥当性が信じられなくなるというのが「ブレークスルー」である。
ところが、「原則的な人」はこのような経験を受け容れることができない。
自分が立てた原則に基づいて自分自身を鞭打ち、罵倒し、冷酷に断罪することにはずいぶん熱心だが、その強権的な原則そのもの妥当性については検証しようとしない。
原則の妥当性を検証する次元があるのではないかということに思い及ばないのである。
それが「原則的な人」の陥るピットフォールである。
そのようにして「原則的な人」はしばしば全力を尽くして自分自身を「幼児」段階に釘付けにしてしまう。
小成は大成を妨げるというのは甲野先生のよく言われることであるが、それはほんとうで、局所的に機能する方法の汎通性を私たちは過大評価する傾向にある。
「原則的に生きる人」はある段階までは順調に自己教化・自己啓発的であるが、ある段階を過ぎると必ず自閉的になる。
そして、どうしてそうなるのか、その理路が本人にはわからない。
これだけ努力して、これだけ知識や技能を身につけ、これだけ禁欲的に自己制御しているのに、どうして成長が止まってしまったのか。それがわからない。だから、ますます努力し、ますます多くの知識や技能を身につけ、ますます自己制御の度合いを強めてゆく。
そして、知識があり、技能があり、言うことがつねに理路整然とした「幼児」が出来上がる。
若い頃にはなかなか練れた人だったのだが、中年過ぎになると、手の付けられないほど狭量な人になったという事例を私たちは山のように知っている。
彼らは怠慢ゆえにそうなったのではなく、青年期の努力の仕方をひたすら延長することによってそうなったのである。
これを周囲の人の忠告や提言によって改めることはほとんど絶望的に困難である。
本人が自覚するということも期しがたい。
そういう人を見たら、私は静かに肩をすくめて立ち去ることにしている。
けれども、たまに相手をすることもある(なにしろ無原則だから)。
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