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かろうじて「割」が残ったが、このままあと5半荘負けると「割のない男」になってしまう。
麻雀の勝率はだいたい野球の打率と同じくらいの難度のものとお考えいただいてよい。
2005 年度は3割8分2厘、2006 年度は3割4分2厘、2007 年度はあれだけ前半苦戦しつつも最終的には3割1分7厘をキープした総長であるが、2008 年度は年頭より歴史的不調のうちに喘いでいる。
先般麻雀についての取材を受ける。
麻雀について取材を受けるというのは例外的なことであるが、これは事情があって、非公開のメディアである。
インタビュアーは若い方であったが、彼らのまわりでも最近ひそかな麻雀ブームが起きているそうである。
これはいったいいかなる社会現象でしょうかというご下問である。
お答えしよう。いささか長い話になるが我慢していただきたい。
映画に行っても、バレエに行っても、歌舞伎に行っても、能に行っても、美術館に行っても、若い男たちのグループというのを見ることがなくなって久しい。
男性はもっぱら家族連れか、女性の「おとも」である。
男性二人とか三人とかのパーティをそのような場所で見かけることはもう絶無といってよろしい。
それはつまり、そこに来る理由がおもに「家庭サービス」や「彼女の趣味につきあって」であり、男性諸君自身には、当該文化事業への内発的な関心がない、ということを意味している。
70年代はそうではなかったような気がする。
コンサートでも芝居でも、だいたい男同士連れだって行っていた。
そして、帰りに居酒屋でホッピーを飲んで煮込みをつつきながら、「アヴァンギャルドとは何か」というようなことを熱く語っていたのである。
男たちを同性集団への形成する力をもつものは実は一つしかない。
それは「政治」である。
70 年代まで、文化は政治的であった。
「政治的」という意味がわかりにくいと言われる方もおられるであろうから、私なりに定義をしておく。
「政治的」というのはメッセージが「みなさん」という二人称複数で始まり、動詞がしばしば「・・・でなければならぬ/せねばならぬ」という義務・当然・未来のニュアンスで結ばれるようなものの総体のことである。
というふうに私は定義している(勝手に)。
「みなさん」という呼びかけの段階で、呼びかけられている人々はある種の「カテゴリー」のうちに本人の同意抜きに括り込まれる。
「ねばならぬ」構文で話をまとめられることによって、そのような構文で提示された命令に対して、私たちはただちに「賛成/反対」の意思表示をなすことを義務づけられる。
「・・・ねばならぬ」という義務の構文の悪魔性はそこにある。
その命令そのものに義務強制力があるのではない。
そうではなくて、義務強制力は、そのような義務の構文で語られたことについては「無視する」ことができないという仕方で機能するのである。
「この命令についての諾否の立場をはっきりさせなければいけない」という「メタ・命令」については、それを無視することが許されない。
それが「政治的」ということである。
こちらの同意抜きで、自分ではその一員であると思ったこともない「集団」の一員とみなされて、その集団に義務づけられた仕事(ふつうは「これまでの自分のありようについての自己批判」と「政治的に正しい人間への自己造形」)の履行を急かされること。
それが「政治的」ということである。
話を戻すと、70 年代までは文化は政治的であった。
それは私たちが個人として文化を享受することが許されなかったということである。
そのつど、抑圧された未成年者として、権利を奪われたプロレタリアとして、資本主義の走狗として、第三世界を収奪して享楽する帝国主義国民として・・・つねに、なんらかの「くくり」の中で私たちは文化に接した。
中学二年のときに『A Hard Day’s Night』を見に行ったとき、私の連れは男ばかり 10 人ほどの団体であった。
私たちはバス停の近くのパン屋で菓子パンと牛乳を買い、それを段ボール箱に詰めてバスに乗り込み、川向こうのグラインド・ハウスで一列に並んで同じ映画を二度繰り返し観た。
どうしてそういう鑑賞形態を選んだのか、よく理由は思い出せないが、どちらにせよ、「ビートルズの映画を一人で観る」という選択肢は私たちにはなかった。
それは擬似的なコンサートとして経験されねばならぬものであり、そのためにはジョン・レノンがこじゃれた台詞を口にするたびにぎゃあぎゃあ騒ぐ同類が一定数かたわらにいることが必須だったのである。
そういう鑑賞の仕方は「政治的」である。
唐十郎や佐藤信や寺山修司の演劇の「毒」は二十歳くらいの若者が個人で受け止めることのできる質のものではなかったから、観客たちはそのような場にはしばしば大人数のパーティを組んで繰り出した。
70 年代のそのような文化的イベントのあと、私たちは火照りを鎮めるために、新宿西口やゴールデン街や渋谷のセンター街の薄汚れた居酒屋でホッピーを飲んで煮込みを食べた。
麻雀はまさしくそのような政治的熱気の渦中で選択されたのである。
今にして思うと、麻雀は一種の「緩衝地帯」というか「非武装地帯」であった。
というのも、少年たちはほぼ全員が「党派系列化」されていたので、素面で政治的な問題について議論した場合、ただちに罵倒中傷諍いどづき合いというものに展開する可能性があったからである。
飲酒は「ま、酒の席で野暮はよそうよ」という暗黙の約束があったせいでそこで党派的な議論になることはまれであったが、それでもうっかり政治的話題に触れると、カウンターの向こう側にいる見知らぬ兄ちゃんから「おめーら、ふざけたことぬかすんじゃねーぞ」というような意外な介入があったりすることは避けがたいのであった。
その点、麻雀は絶対に政治的にならない。
超党派で遊べる唯一の遊技、それが麻雀であった。
すべての党派の諸君が麻雀卓を囲むときは、「ローンウルフの雀鬼」となった。
門地も学歴も党派の看板も、そんなものは自摸打牌には何の関係もない。
牌を握るとき、私たちはただ一人で自分の過酷な運命に立ち向かうしかない。
そして、繰り返し申し上げているように、麻雀は確率的には4回に1回しか勝てない。つまり、4回に3回は敗者となることが構造的に定められているのである。
むろん実際にはそうではない。勝つものは勝ち続け、負けるものは負け続けるので、勝率2割5分の打ち手というのは麻雀にはほとんどいない。
ヴォリューム・ゾーンは勝率1割台である。
敗北率90%。
これは人生の実体験がはじきだす数値にかなり近い。
つまり麻雀とは「その遊技時間のほとんどを敗者として過ごす」ゲームなのである。
政治少年たちは麻雀を打ちながら、「負け方」を学んでいたのである。
私はそう思う。
どんなふうに威信を保ったまま負けるか、どんなふうに愉快に負けるか、敗北からどれほど豊かな教訓を引き出すか・・・私たちは麻雀を通じて、それを学んでいたのだと思う。
だから80年代以降、日本人が敗北から教訓を引き出すことより、成功から愉悦を引き出すことを優先的な課題にシフトしたとき、日本人は麻雀を止めてしまったのである。
そしていま日本人が再び牌を握り始めたというのは、私たちが「敗北の時代」と「政治の時代」に回帰しつつあることの徴候ではないかと私は愚考するのである。
階層社会というのは、「勝つ人」と「負ける人」に階層化された社会ではない。
「ごく少数の勝つ人」と「圧倒的多数の負ける人」に二極化した社会である。
「麻雀的状況」と申し上げてよいかと思う。
「敗北がデフォルト」になった社会には、それにふさわしい生き方が工夫されねばならない。
それは「政治的にふるまう」仕方をもう一度吟味してみることと、「とりあえず日々の敗者的状況を愉快に生きる」ための知恵の涵養と、二方向への展開を要請する。
そのために今若者たちは牌を手にし始めたのではないか。
May force be with you
雀神さまの支えと導きが諸君らのうえに豊かにありますように。
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(2008-04-06 11:26)