BlogNagayaLinkaGuestsColumnsBookMovieSeminarBudoPhotoArchivesProfile

« 神さまここはハライソ | メイン | 麻布永坂茶事事始 »

「政治的に正しいこと」は正しいのか?

バリ島海水浴でばりばりに日焼けした上にスキー焼けしたので、季節感のない色黒男になってしまった。
むかしはこういうのを「くろんぼ大会」と称したのであるが若い人はご存じないであろう。
1960年代までは夏休み明けに一番黒く日焼けした子どもを学校で表彰していた。
たいへんよい企図のものであったと思うのだが、「くろんぼ」がご案内のとおりポリティカリーにコレクトではないということで使用禁止用語となり、ついでに「よく遊んだこと」を肌の黒さを基準に考量し、これを讃えるという風儀もまた失われたのである。
ポリティカル・コレクトネスによる用語制限によって私たちが得たものと失ったものはどちらが多いのか、ときどき疑問になる。
自分の語法に伏流するイデオロギー性を自己検閲する習慣を定着させたという功績はむろん高く評価されねばならぬ。
だが、PCの難点は「自分の語法に伏流するイデオロギー性を自己検閲する習慣に伏流するイデオロギー性」の検出にはほとんど知的リソースを備給しないという点にある。
わかりにくくてすまない。
要するに、PC的なことを大声で言うやつは総じて頭が悪いということである。
頭が悪いことと邪悪なことではどちらがより有害であるかについては意見の分かれるところであるが、アナトール・フランスはこの論件についてたいへん適切な言葉を残している。
「邪悪な人間はときどき邪悪でなくなることがあるが、愚鈍な人間はつねに愚鈍なままである。」
そういえば先日「丸坊主」と書いたら、「PC的に不適切用語です」という校閲からのチェックが入った。
ちょうど山本浩二くんといっしょにお茶を飲んでいるところだったので、いったいどこが不適切であるのかについてしばらく意見交換した。
「丸」はPC的に問題ではないであろうから、不適切なのは「坊主」の方なのであろう。
しかし寡聞にしていつから「坊主」が活字にしてはならぬ語に登録されたのか私は知らない(その経緯を知っている人がいたらご教示ください)。
たしかに「坊主」には貶下的なニュアンスがあるのは事実である。
「三日坊主」とか「腕白坊主」とか「生臭坊主」とか。
そもそも年少のものを呼称するに僧侶の称を流用するという習慣自体が「僧侶一般」に対する世俗の人間たちのambivalentな感情抜きには説明できない。
だが、僧侶を両義的にみつめるまなざしはすでに平安時代から存在したのである。
つまり、「坊主」というのは「その本義とは違う不適切な含意をともなう語」として古来使われてきた語なのである。
その語義を昨日今日ぽっと出てきた「良識」で使用禁止にしてよろしいのか。
それが「正しい」ということになれば、およそ敬意と嫌悪の両義を含むすべての語は使用を禁じられねばならないことになる。
私は一昨日所用のために警察署に行ったが、その窓口で警察官は私を「ご主人さん」と呼んだ。
「ここにハンコ捺して、証紙貼って持ってきて」
「ご」も「主人」も「さん」もどこにも貶下的な語義はないが、その語はあきらかに「市民を敵視する」トーンで使われていた。
「あのですね、こっちは『ご』に『主人』に『さん』と三段構えで敬語使ってるわけですよ。市民に対する公僕の『お仕えする』という姿勢をアピールするために。これなら文句のつけようないでしょう?え?まだ足りないの?『お市民さま』の方がいい?」
こういうのはよろしくないと私は思う。
おそらく警察庁内部の知恵者が「年齢にかかわらず男性は『ご主人さん』、既婚未婚の別なく女性は『奥さん』と統一的に呼称しておけば、まずPC的批判は受けずに済むでしょう」というようなことを提言して、そういうことが内規化されたのであろう。
しかし、私は「ご主人さん」と呼ばれて、飲み屋で「社長」とか「大将」とか呼ばれたような嫌な気分になった。
「社長」も「大将」も、「ご主人さん」も社会的地位についての指示記号である。
そして、私は使用人を持たない未婚の男子であるから、誰からも「ご主人さん」と呼ばれる立場にない。
誰からも「ご主人さん」と呼ばれる立場にない人間に対して平然とそのような呼称を用いるのは、あきらかに非礼である。
「ご主人さん」が貶下的含意をもつのは、そのような指示記号が明らかに事実を指示していない場合にあえてその呼称を用いることで「要するに、お前が社会的に何ものであるかなんてことに、オレはぜんぜん興味ないわけよ」というメッセージを発信しているからである。
あらゆる名詞は「その名詞を用いても、指示対象についての情報が少しも増えない」場合には貶下的含意を持つことができる。
悪意は語義のレベルにあるのではなく、文脈にある。
ポリティカリーにコレクトな「言葉の検閲者」たちを私が嫌うのは、彼らの言語の機能と本質についての理解があまりに浅いからである。
使える言葉をいくら規制しても、使う人間に悪意がある限り、言葉は語義を離れて攻撃的に機能することができる。
現に私は「ポリティカリーにコレクトな人々」という語をもっぱら「頭の悪い人」という意味で用いている。
おそらくこの用例もやがて日本語の語彙に登録されて、「ポリティカリーにコレクトな」という形容詞そのものが「不適切語」として校閲にチェックされる日が来るであろう。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.tatsuru.com/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/450

コメント (31)

あQ [TypeKey Profile Page]:

>わかりにくくてすまない。
全然大丈夫ですよ。自己言及(のパラドックス)でしょう。

先生の分かり難さはもう少し別のところ。
なんでも同じ言い方をしてしまうところ。
文脈に応じた情感を述べるときも、論理を述べるときも。
昨日のは、そのあまりに大仰な物言いが、シェークスピア
か!と思っちゃった。
To be, or not to be: that is the question.
は、「困っちゃったな。」ってことだし、昨日のは、「わからないもんだな。」と慨嘆しているだけでしょ。さも一般命題のように意味ありげに言うから(それが論理なら、単なる矛盾か、単なる無内容だ。ちなみに純爺も、「適当日記」の5/19の日記で同内容のことを言っていたけど、おもしろかったよ)。
情感も論理も同じ言い回しをするから。

それとも、人間存在の在り様について何か述べたのかな?
まだまだ勉強不足だったかな。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

小生、中卒にして愚かながら昨年の暮れまでこの「政治的に正しい...○○」という今時流行の語句を知らなくて、「政治的に正しいことなんて、かつてあったことがあるのか」とうっかり発言してしまい、大衆の面前で赤っ恥をかいてしまいました。
んが、こんな恥知らずな語句がいつのまに自称インテリ文化人諸氏の間に蔓延したのかと、あきれてモノも言えませんでした。

内田さんの今日の発言をもう1歩進めると「ポリティカリーにコレクトな」人たちはなぜ〈文脈〉を嫌うのか、という疑問を招来させます。
言葉狩りとは文脈の否定、つまりは文学の否定であり、関係の否定であり、当事者の否定である側面をもっています。

いつも差別する側から、される側(当事者)に恵んでやるのですね。語彙の解釈すらも。いや、ことばだからこそ、譲るのではなく先取りして一時的に貸与してやるのだろうなあ。

こうして〈異者〉から先取りして言葉を奪おうとする試みに加担する詐欺師(狡猾で利口な人の場合)もしくは低脳(単純で自分勝手な人の場合)のことを「ポリティカリーにコレクトな」人たちといっていいでしょう。

総じてアメリカ発日本着のカタカナ語彙には怪しい出自のものが多い。ストーカーだのセクハラだのドメステックバイオレンスだの、日本的な文化を根底から無邪気に踏み潰してテンとして恥じない。

漫画『自虐の歌』の底に流れるきわめて日本的な愛憎の陰影を歴史の浅い、殺人にしか興味のないアホウなヤンキーにわかるわけがないでしょう。
むしろニンゲンの文化は日本からヤンキーの方に流して、かれらの神経症的トラウマを癒すべく啓蒙してやるべきなのに。

カタカナ外来語を振り回している賢者気取りのブロがーがネット上にはゴマンといらっしゃいますが、みなさん
「ポリティカリーにコレクトな」人たちといっていいでしょう。

morinohito [TypeKey Profile Page]:

先生と 呼ばれるほどの 馬鹿でなし

と詠み人知らずの川柳を思い出せば、「先生」もまたPCに抵触する言葉になってしまいますね。僕もどこかで「子供」と書いたら「それは子どもを大人の付帯物として扱う差別用語です」なんて指摘をされて、度肝を抜かれた覚えがあります。(もちろん、指摘に百倍する語をもって反論しておきました。)ともあれ、使ってはいけない言葉の増える世の中は、どうにも息苦しくっていけません。

ウェブスターの「あしながおじさん」にあったエピソードだと思うのですが、主人公の女の子が食事をしていると、周囲の女の子たちがしかめ面をしては次々席を立っていく場面がありました。主人公がテーブルマナーを学ぶ機会を一切持たずに育ったからです。

印象的だったのは、その周囲の女の子たちが決して主人公のテーブルマナーの悪さを指摘せず、ただその場を離れることで抗議の意を表明していたことです。

なるほど、だからこそテーブルマナーは階級記号として機能し続けるのかと思いつつも、いや、しかめ面をすることでヒントは与えているのだから、等々つい考え込んでしまったものです。

これほど「品格」を冠した書籍が売れるご時世なんですから、PCを云々する方々もこのくらいのマナーは持ってくれるとありがたいんですが……。

もっとも、その方たちの形成するコミュニティが魅力的でなければ、ルールを学んでまで参加しようとする気持ちは起こらないんでしょうけどね。

heisan [TypeKey Profile Page]:

> 「邪悪な人間はときどき邪悪でなくなることがあるが、愚鈍な人間はつねに愚鈍なままである。」

人間が邪悪であるためには,或る程度「非愚鈍」でなければ務まらないので,或る意味これは当然と言えましょう。
邪悪とは聡明さの一側面である。


> その語はあきらかに「市民を敵視する」トーンで使われていた。
> 「あのですね、こっちは『ご』に『主人』に『さん』と三段構えで敬語使ってるわけですよ。市民に対する公僕の『お仕えする』という姿勢をアピールするために。これなら文句のつけようないでしょう?え?まだ足りないの?『お市民さま』の方がいい?」
> おそらく警察庁内部の知恵者が「年齢にかかわらず男性は『ご主人さん』、既婚未婚の別なく女性は『奥さん』と統一的に呼称しておけば、まずPC的批判は受けずに済むでしょう」というようなことを提言して、そういうことが内規化されたのであろう。
> しかし、私は「ご主人さん」と呼ばれて、飲み屋で「社長」とか「大将」とか呼ばれたような嫌な気分になった。

実に適切なご指摘をなさいますねぇ…。
こんにちの「マニュアル的敬語」も,なんとかならんもんかなぁ…(とぼやく前に,なぜ「マニュアル的敬語」が「従来型敬語」を押しのけて実用化されるような次第になったのか,を考える必要がありそうだ…。)


> 「ご主人さん」が貶下的含意をもつのは、そのような指示記号が明らかに事実を指示していない場合にあえてその呼称を用いることで「要するに、お前が社会的に何ものであるかなんてことに、オレはぜんぜん興味ないわけよ」というメッセージを発信しているからである。
> あらゆる名詞は「その名詞を用いても、指示対象についての情報が少しも増えない」場合には貶下的含意を持つことができる。

おおおおおっ!!!
な・る・ほ・ど!!

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

この数十年、本なんか買ったことなかったのに、ご本日とうとう買いました。
   内田樹『女は何を欲望するか?』
久しぶりにこの手の本を読んですぐに思ったことは相変わらず上げ底だなてこと。w
申し訳ないですが内田さんのこのご本は「まえがき」と「あとがき」を読めば十分だと思います。
そこにすべてのエッセンスが詰っている。
で、本屋からの帰り道、公園の陽だまりに腰掛けて、クック、クックと寄ってくる鳩を傍らにはべらせて一気に読了しました。

ブログにて現前している言葉とほとんど同じなのですがやはり読んで少しは理解の届くものがあり、
また、認識を新たにすることがあってよかったと思っております。

ひとつは、「あとがき」から、内田さんが内々に敵としているものは「あなたより抑圧されているからわたしは正しい」という、
(頭の良さが関与することのできない)言説であり、
本音は「あなたより頭がいいからわたしは正しい」といいたい人なのだということがわかったこと。

もうひとつは、「まえがき」から認識を新たにしたことですが、
その本を開いて数行読むとすぐに「うっ」となってパタンと表紙を閉じていた村上春樹本をどうしてわたしが生理的にそこまで
受け付けないか。そのヒントがあったこと。
内田さんはこのご本で『海辺のカフカ』の一シーンを引用しているんですね。
この小説のなかに瑣末な揚げ足取りに終始奔走しているとしか映らないイヤミなフェミニストが登場する。
で、その瑣末奔走フェミニストたちの苦情というか非難に対して「怜悧」な大島さんが相手がグウの音もつけないような
明晰な受け答えをして追い払う。
内田さんはこの人物を「極めて魅力的」と書く。

たしかに図書館にインネンをつけにきた「フェミニスト」たちはイヤミで鬱陶しい人たちだ。
がしかし、わたしは「大島」というこの図書館職員の性格のほうがもっと不気味で気持ち悪い。
なぜなら、イヤミなフェミニストたちはその行為が心底「世の中のためになる」と単純に信じ込んでいる愚昧な人たちで
その行動の奇矯さ、小煩さに目をつむればそれほど悪い人たちではない。
ところが「大島」なる人物は「世の中のためになる」と信じているわけではなく
「世の中のためになると(世間に)信じられていることをしている」人なのですねえ。これが。
そこにはいかなる単純な思い込みもない。
いかにも正論を吐くのだがそれは大文字でだれも反論できない正論でしかなく、
そういう意味ではフェミニストたちとある意味、似た部分をもっている。
ただ、大島という人物のほうは単純ではなく怜悧、冷酷なのである。
「想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じだ」「そこに救いはない」といきる。
ぞっとしますね。
無思量なわたしなんか踏み潰されそうだ。

こういう人よりもわたしは阿呆丸出しで小煩いけど単純で愚鈍な正義漢をまだ許せます。
しかしこの「大島」は怖い。よく凶悪事件の犯人で世間から「とてもいい人でしたよ」といわれるタイプの人物だ。
なぜならかれは「世の中のためになると信じてする人」ではなく
「世の中のためになると信じられていることをする人」だからです。

さて、本文のほうはフェミニズムとは関係の無いフェミニズム〈学〉です。
そういうものはフェチな人、あるいはマニアが読めばいい部分であって、本来どうでもいいものだと思います。
たとえば豆腐でも魚でもいいのですが、一口食べてわかるものはその大きさのままでいい。
豆腐の組成を調べたり、発泡の程度まで詳細に分析することはこれは豆腐を賞味することではなく
「豆腐学」です。
その大きさで一口で食べられるそのレベルから逸脱したものは「学」であって「知見」ではない。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

せっかくだから、連投申し訳ないですがが『女は何を欲望するか』の本文についても、少し感想を書かせていただきます。
基本的に第二章における「フェミニズム言語論の基本構制」という考想は、何の根拠もない妄想のようなものなんですが、たぶん、哲学思想などというものが生まれたアリストテレス、プラトンの時代の最初から、
知的特権階級が生み出してきた言語的枠組みを唯一の言語として錯視するところから生まれた、(まさしく知の出自を疑うことが一度も無かった特権意識が生み出した)盲目的考想だとしか思われません。

内田さんは「問題の所在」として二章冒頭に以下のごとくテーゼを書かれています。

“女性は常に男性でないものとして規定されている。すなわち彼女は欠如している資質により認知されている。「負の男性」だ。言語は女性を劣ったものとする基本的ジェンダー、アイデンティティを確立し、それを維持している。”

物語ないしは妄想としてはたしかに面白い。わくわくする。しかし現実の世の中はそのようには存在していないし、男と女の関係もそんなに単純ではない。それでは関係性の半分しか語っていないことになる。つまり片手落ちだ。
わたしならこう書き直しますね。

《女性は男性でないものとして規定されると同時に、常に「男性でないもの」をも規定する。すなわち彼女は欠如した男性・性を男性に見出す資質によって社会的に認知されている。女性とは一方で「負の男性」を選別する性である。言語は女性によって男性を劣ったものとする構制と同時に、それを潜り抜けてきた男性によって女性を劣ったものとする両義的な基本的ジェンダーアイデンティティを確立し、それを維持している。》

さてこれがお偉い学者先生がたにわかりますでしょうか?
しかし、これこそが机上の空論ではなく「現実」なんですよ。男と女は相互侵食、相互扶助的に一枚のコインの裏表のごとく、あるときは女を、あるときは男を徹底的に疎外排除して、仲良くタッグを組んで今日までやってきたのです。

それをまあ、上野なにがしとかいう低脳ばあさんといい、もはや現今のジェンダー論こそは、いわゆる知的特権階級の無能無知を喜劇的にさらけだしているばかりで、見苦しくて関わりたくもありませんねえ。w

y [TypeKey Profile Page]:

警察署のひとが、相手がなにものであるかに興味がないことはとうぜんのことだとおもうのですが。
ご主人さんとよばれようと、おくさんとよばれようと、そこにそれほど悪意はかんじません。
そこに悪意がかんじられるのは、完全に内田さん自身の問題だと思ってしまいます。
こんな失礼なことをなぜ書くのか、も完全にわたし自身の問題だとおもいます。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

yさんのおっしゃるとおりだとおもいますよ。

警察官が自動販売機のアナウンスのように相手が乞食でも金持ちでも女性でも幼児でも、差別せずに同じような対応で仕事をこなすことは、警察のような機関にとっては一番大事なことです。

もちろん、警察官だって人をみて態度を変える差別意識から逃れようが無いから、あえてそれをがんじがらめにする規制として「旦那さん」とか「おくさん」とか色の無い、無味乾燥で公平な言葉使いをすることは必然でしょう。

営業を主とする会社ならともかく、人をみて言葉遣いを変えるような公的犯罪捜査機関であったら、差別を受けやすい貧乏人や前科のある者などはたまったものじゃない。

警察官の対応に悪意を感じたのかどうかはともかく、内田さんがそこにひっかかったのは、そろそろ社会批評には向かない意識が生まれつつあるということかもしれませんね。

たしかにマルクス主義的な批評は効力を失ったけれど人間がある種の「階級意識」から抜けがたいということは永遠につきまとう真実かもしれませんね。

あっ、自立(自律)共生の条件って片手落ちする事だったのか。

今になって解りました。

遅いか・・・。

皆さまのおかげです。

LINUS [TypeKey Profile Page]:

何だか難しいお話になっていますが、ウチダセンセのおっしゃりたい事って至極単純なことですよね。例えばゲイって言葉は当事者の僕は、現に恥ずかしくて、「人生を謳歌しているからゲイ。ね、素敵でしょ?」とか言われると虫ずが走ります。ゲイ、もといおかまはキャンプ感覚と言って、自分を笑い飛ばす才能を持っています。だからゲイの間では、「あなたゲイ?」とか言わないで「あんたおかまでしょ?」となる。『ノルウェーの森』の中で「きちがい」って言葉は出てこないかも知れないけど、精神を病んでいるレイコさんが「ねえ、気が狂いそうって素敵な言葉じゃない?」っていう台詞があって、何か好きです。あたし(陰間)も言ってみたい台詞、「駄目ッス。自分、女になっちまうッス」(誰かあたしを、、、)。PCは人間の叡智である(特に毒のある)ユーモアを排除する、極めて愚鈍な概念と思うけど、わかんないわ〜。愚鈍って「グッと来てどーん」って感じで男らしい響きだし、あたしは好きです♪

magnon [TypeKey Profile Page]:

内田先生、皆さん、こんにちは。

アンPCネタをお一つ。気の知れた仲間内での話ですが、北米の大学をおちょくってCleaner Professor(掃除係教授)なんて言ったりします。つまり、アメリカの大学では教授以外でも大学で働く人は誰でも大げさにProfessorを名乗りたがるので、掃除係にもProfessorが付くんじゃないのかって言うちょっとアンPCな冗談です(注釈)。これを聞いた人は一瞬不謹慎だと感じるのですが、次の瞬間この不謹慎と感じる発想が掃除係と大学教授の間の職業的な貴賎に対する自身の先入観から来ていることに気づき、アンPCなのは自分である事を悟るのです。

英国コメディアン流に一見ややアンPCで実は指摘すると指摘した側が墓穴を掘るようなのが、PC検閲委員会への対抗策としては面白いのではないでしょうか?


(注釈)北米の大学では実際に、

助手→Assistant Professor
ポスドク→Postdoctoral Professor(稀ですが)

と呼ばれていたりします。この他アパートの管理人がManagerだったり、とにかく大層です。

bassjin [TypeKey Profile Page]:

magnonさん

掃除係の人と親しい間柄の私から見て、magnonさんのコメントは職業的に対する貴賎意識を持っている人なんだと思うに十分な内容だと思うのですが、そう思う私が職業に対する貴賎意識を持っていることが明確だ、ということに加えmagnonさんが貴賎意識を持っていることも明確だということですか?

bassjin [TypeKey Profile Page]:

先ほどのコメントですが修正します。

×職業的に対する貴賎意識
○職業に対する貴賎意識

失礼しました。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

あの~、大学教授と清掃夫とのあいだには、あきらかに職業上の貴賎の差があるのじゃないでしょうか。w

「職業に貴賎は無い」というのは常に言葉を専横してきた、貴い方たちの一方的な言い分です。
こころみに清掃夫が教壇に立たせてもらえる機会があれば、たぶんこういうでしょう。
「みなさん、あきらかに職業には貴賎がございます。第一、給料が違うでしょう。職業に貴賎がないというのなら、まずは給料を同じにしてもらわなくちゃね。いや、大学教授より上でないと納得できませんよ。どうしてかというと、大学教授はろくでもない輸入思想を翻訳しているだけで大きな顔ができている。わたしたちに名誉は与えられていない。その分、給料に上乗せしてもらわなくちゃ」

たぶん、こまっちゃくれた女生徒が憤然として手をあげます。
「おっちゃん、職能と人間的価値とは別でしょう。給与は職能に応じて決定されているの。ね。能力の無い人が高望みしてはいけないと思いますよ」
清掃夫のおっちゃんは女子大生某国論は正しかったと内心思いながらこう答えるのではないでしょうか。
「しかし職業に貴賎がないということは、本来なら働くという行為そのものに比較や順位はつけられないということのはずです。
働くことはすべて尊いということでしょう? だからわたしは、それなら職能によってではなく、等価とあなたがた認めるところの人間的価値によって
給与も決定してもらわなくちゃ嘘ですよといっているんです」
「人間的価値。そんなものに値はつけられません」
「そのとおり。つまり働くこと自体に人間的価値は関与しないということですよね。だから職業に貴賎はある」
「......?」

じつはこの議論、どこかで巧妙にスライスしているのだが、内田先生がよく使う手なのです。w
自覚してなければちょっとひどいし、自覚していればもっとひどいのだが。www

ではどうして太古以来、権力者のタイコモチである「言葉を専横してきた人たち」(思想家など)は、このような言説を流布させたのでしょうか。
「天は人の上に人を作らず、人の下にも人を作らず」(福沢諭吉)
そんな馬鹿なことはないのです。たぶん、
かれの意図は「どんな仕事であっても文句をいわずに働け」てことでしょう。w
産業革命とともに勃興した(労働者を働かせるための調子のいい)ピューリタン的発想でしょうね。www
効率よく文句をいわずに働かせるに都合のよい言説なるものはいつの時代にも必ず登場するものです。
そういえば内田先生もそういうことをよく仰っておられますが。w

magnonさんの見解は、そのような言説が効力を発揮して心の裡に内面化している見本のような気がします。
差別意識を回避しているように見えてじつは差別そのものを隠蔽している言説に囚われてしまっている。
やはりねえ、大学教授と清掃夫を揶揄するような言葉使いには眉をしかめるほうが、どちらかといえばいいような気がしますよ。


magnon [TypeKey Profile Page]:

イカフライ様

>差別意識を回避しているように見えてじつは差別そのものを隠蔽している言説に囚われてしまっている。

これは、PCの宿命ではないでしょうか?アンPCな表現を敏感に感じ取る人は、差別用語に詳しいわけですから。

十年以上前になりますが、童話を極端にPCを意識して書き換えた本がありました。小人は「垂直方向に挑戦する人」でキコリは「燃料用木材伐採業務従事者」とか何とかだったと思います。硬直した革新は差別意識丸出しの超保守的な状態と区別が付かなくなるって事ではないでしょうか?

昔はIQが確か25以下を区分するタームとして「白痴」が使われ、これが転じて知能程度がきわめて低いことを指したわけですが、差別的だとして「知的障害者」となりました。しかし、「知的障害者」が差別的表現とみなされるのは時間の問題かも知れません。実際英語圏では「Intellectually handicapped」から「Intellectually challenging」か何かへと変わっていたと思います。

この様ないたちごっこが続くのは「差別意識を回避しているように見えてじつは差別そのものを隠蔽している言説に囚われてしまっている」からではないでしょうか?ここにPC検閲の限界がある気がします。

皆さんPCがあまりお好きでは無いようですが、やはり全体を見ればPCが高い社会の方が住みやすいと思います。差別とまでは行かなくても例えば「福田首相と夫人」よりも「福田首相と貴代子夫人」の方がより好ましくPC度が高いとするの等は賛成ですが、如何でしょうか?

magnon [TypeKey Profile Page]:

bassjinさん

気分を害されたのならお許しください。

>そう思う私が職業に対する貴賎意識を持っていることが明確だ、ということに加えmagnonさんが貴賎意識を持っていることも明確だということですか?

繰り返しになりますが、この不謹慎な内輪の話は次の二通りを仮定しいます:

1.職業貴賎意識を持たない人が聞いた場合
2.職業貴賎意識を持つ人が聞いた場合

1の場合は、アンPCを拾えないわけですからPC問題は発生しません。2の場合、アンPCを指摘する場合としない場合があるわけですが、指摘した場合は職業貴賎意識を露呈してしまいますから、自らがPCを保つためのにはアンPCを指摘しない選択しかないわけです。まさに「キャッチ22」状態です。

私自身は、この話を聞く人がほぼ全員2のパターンに入ると確信している点でイカフライさんがご指摘の通り、重罪です。二重に罪がある。

「やはりねえ、大学教授と清掃夫を揶揄するような言葉使いには眉をしかめるほうが、どちらかといえばいいような気がしますよ。」というのはかなりPC度が高いコメントだと納得しています。

たか [TypeKey Profile Page]:

 初めまして。
 ポリティカリーコレクト。過剰に反応するのは、いかがかとも思いますが、セクハラと同じで、不快に思う人がいるのならば、極力避けた方が良いのではないでしょうか。敢えて使う時にはその意味や影響を意識して使うべきでしょう。昔のアニメなどで、職業差別の語などに「ピー音」を入れて消してしまうのは、やりすぎのような気もします。
 ここでは敢えて書きますが「乞食」とか「片手落ち」(自分もこれは?ですが)の語は、ポリティカリーコレクトに引っ掛るので意識して使う必要があります。頭が悪いか良いかは、良識の問題で、鯨を何が何でも保護するというのと同じぐらい意味のないことではないでしょうか。どちらに執着しても、頭は悪そうに見られると思いますよ。多分。

nager [TypeKey Profile Page]:

イカフライさま

その大学教授と清掃夫の例えはよく分かりますし、的確だと思いますが、福沢の言葉を出したのは正直頂けません。
福沢のその言葉の続きは「されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり」で、結びの部分は「ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」です。
福沢の考えからすれば、まず間違いなく大学教授の方がえらい、ことになります。
もちろんこの福沢の言葉も疑問の多い(学ぼうと思っても学べない人はどうするの?など)ものですが、あなたが言うような意味はまず持ってないでしょう。

引用(ともいえないものですが)をする前には必ず原文をきっちり参照した方がよろしいかと思います。

nager [TypeKey Profile Page]:

イカフライさま

その大学教授と清掃夫の例えはよく分かりますし、的確だと思いますが、福沢の言葉を出したのは正直頂けません。
福沢のその言葉の続きは「されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり」で、結びの部分は「ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり」です。
福沢の考えからすれば、まず間違いなく大学教授の方がえらい、ことになります。
もちろんこの福沢の言葉も疑問の多い(学ぼうと思っても学べない人はどうするの?など)ものですが、あなたが言うような意味はまず持ってないでしょう。

引用(ともいえないものですが)をする前には必ず原文をきっちり参照した方がよろしいかと思います。

bassjin [TypeKey Profile Page]:

magnonさん

ご回答ありがとうございました。

>1の場合は、アンPCを拾えないわけですからPC問題は発生しません

ですが、貴賎意識を持っていないことと、貴賎意志は持っていないが貴賎意識があることを知識として知っていることの2通りあるのではないですか?

もう一点、貴賎といえばいろいろな意味合いがありますが、職業貴賎という場合はその職業が貴いものか賎しいものかということに限定されるような気がしますので、その話題の中で大学教授と清掃係の例を出されること自体が適切ではないと思いますがいかがでしょうか?

しかし特に米国では清掃係、清掃夫に対する差別意識は高いようですね。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

あにょ~σ(・.ー;)?
言い逃れするつもりはもうとう、うん、たぶん、もうとうないはずだとももうんですが(´x`;)

福沢諭吉大先生は掃除夫より大学教授のほうが偉いとは一言も言ってないんですけどねえー、
『学問のススメ』をどうひっくり返し読んでも。w
それどころか職業に貴賎は無い、と大文字で何度も大書しておられます。折に触れて...。
たとえば以下のごとく。


“されば前にも言える通り、人は生れながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を
勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。”

“学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を
作るなど、世上に実のなき文学を言ぅにあらず。”

“右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賎上下の区別なく皆こ悉くたしなむべき心得なれば、”...etc

つまし、極端にいえば、大学教授といえども福沢のいう「実学」を為していないものは下人で、掃除夫といえども福沢のいう「学門」をなしているものは貴人にあたるわけです。

福沢の人定のキモは「職業」の貴賎ではなく、あくまで「学問」の多寡ではないでしょうか。
nagerさんの大学教授は学があって偉いという思い込みがつい出ちゃったんでしょう。

福沢大先生が当時としてはめずらしく欧米に数度渡航していることから、当時支配的になりつつあったピューリタン思想の影響を受けているんじゃないかなと中卒やはりそうももっちゃいまつねえ。¨_)y-~~~

でも、おかげさまで中学で教わった言葉の端くれでしか知らなかった福沢大先生のテキヤの大道芸まがいのお言葉をネット上で読む機会にめぐまれまつた。
ありがとうございます。(・_______・)??

raincoatcrowd [TypeKey Profile Page]:

私はむしろ、イカフライさんがなぜそこまで必死なのかが不思議なんですが。

大体、ここの読者はみな内田先生のエントリーを話半分ぐらいにしか読んでいないと思いますが。

ていうか、貴賎意識だとか、ピューリタン思想だとか、なんでそこまでルサンチマンしたがるのか、イカフライさん。

貴賎があろうがなかろうが、資本主義の搾取があろうがなかろうが、そんなことに関係なく我々庶民はただ黙々と日々を生きているのです。

勿論、誰もがなにか納得のいかないものを抱えながらの毎日ではあるのですが、でも特定の誰かにそのはけ口を求めるというのは余りよろしくないかと存じます。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

あにょ~、ではなぜあなたはそんなに必死なのですか?
大体、ここの読者はみなイカフライのコメントを話し半分くらいにしか読んでないと思いますが。
ていうか、貴賎意識だとか、ピューリタン思想だとか、だれが関心をもとうといいじゃないですか、 raincoatcrowd さん。

貴賎があろうがなかろうが、資本主義の搾取があろうがなかろうが(あ、これはわたし言ってないなw)、そんなことに関係なく我々庶民はただ黙々と日々を生きているのです。

勿論、誰もがなに(←まま)納得のいかないものを抱えながらの毎日ではあるのですが、でも特定のコメンターほときの書き込みにはけ口を求めるというのは余り(←ママ)よろしくないのかと存じます。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

あにょ~、ではなぜあなたはそんなに必死なのですか?
大体、ここの読者はみなイカフライのコメントを話し半分くらいにしか読んでないと思いますが。
ていうか、貴賎意識だとか、ピューリタン思想だとか、だれが関心をもとうといいじゃないですか、 raincoatcrowd さん。

貴賎があろうがなかろうが、資本主義の搾取があろうがなかろうが(あ、これはわたし言ってないなw)、そんなことに関係なく我々庶民はただ黙々と日々を生きているのです。

勿論、誰もがなに(←まま)納得のいかないものを抱えながらの毎日ではあるのですが、でも特定のコメンターごときの書き込みにはけ口を求めるというのは余り(←ママ)よろしくないのかと存じます。

hiroshi [TypeKey Profile Page]:

今回のようなコメントを打ってるときっていうのはどういう気持ちで打ち込んでいるんですか?

人生は一度しかないのに、そんなことしててもったいないですよ。

このブログに最初に書き込んでいたときはもうちょっとまともだった気がするけど、だんだんただのやっかみの人になっちゃってる気がします。

そのつもりでやってるんだから、そりゃそうだというのであれば、しょうがないのかもしれませんが
確かに言えるのは、内田さんよりもあなたの方が人を不快にしているんだということです。

だってあなたの言ってることは矛盾してますもんねえ。

まあこんなこといってもきっと適当な言葉遊びでかわして気づかないふりをされるんでしょうが。

もっともほんとに気づいてないとすればそれはそれでかなり危ないですけど、どうか自分をもっと大切にしてください。

では。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

最初から何度も申し上げておりますが、わたしのコメントの内容への真面目な批判、反論はいつでもお受けしますが、内容とは関係のないわたし個人への人格攻撃はどうかメールにてお願いします。w

それからhiroshiさん、
>内田さんよりもあなたの方が人を不快にしているんだということです。
内田さんが人を不快にしてるんですかぁ~?
そりゃあないでしょう。
そんなに不快に思っているのならブログを読まなきゃいいでしょうに。www
わたしは内田さんを不快には思ったことはありませんよ。批判に値する論言をなされている方を、なぜ不快に思わなきゃいけないのか。中卒のわたしには、ぱっぱりわかりません。

また、わたしは、だれかのコメントが不快だから、目の前から消えろという気もありません。
気に食わな奴は即、頭がおかしいとも思わない。

そもそもネット上にコメント欄が用意されているブログを閲覧者する人の態度には、そのときどきによって二通りあると思うのです。
ひとつは書き込みをしないで黙って閲覧する人。
もうひとつは積極的にコメント欄に書き込みをする人。
自分が書き込みをしないから他人にも「ろくでもない」書き込みをしてほしくない人もいるだろうし、
わたしのように「ろくでもな」くてもいいからどんどんコメントを書き込んでもらいたいと望む者もいる。

コメントをしない人は「うざい」コメントを迷惑だとおもっている。
また、わたしのようにうざくてもいいからどうしてコメントをしないのか、面白くないとおもう者もいる。
両者がそう思う権利は同等だと思うんですよ。
もしhiroshiさん、あなたがわたしにコメントをするな、というのなら、わたしがあなたの権利を認める代わりに、あなたはわたしの権利も認めなければならない。
つまり、わたしがあなたの要求を呑むときには、あなたにはわたしに代わってどんどんコメントをしてもらわなきゃ、あなただけの我儘が通ることになる。

いや、そもそもだれかのコメントが「不快」であったとしても、それは「凄い価値のある洞察」と比較して、コメントそのものの意義は同じだと考えます。
もし、「いいコメント」だけを投稿しろというのなら、それはコメント欄の意味をなさない。
少なくともわたしは最小限の礼儀は守っているつもりですしねえ、人格攻撃をするほうがよほどおかしいと思いますよ。

>人生は一度しかないのに、そんなことしててもったいないですよ。

↑これはブログを立てている内田さんに失礼でしょ。
まずは自分がどれほど非礼な、非論理的なことをいっているかわきまえることです。
2ちゃんねると同じに考えてはいけませんよ。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

あ、それからいっておきますが。w

raincoatcrowd さん、「ルサンチマン」なんて語彙を安易に人さまに向かって使ってはいけないのじゃないでしょうか?
わたしが中卒だという。そのわたしが批判的な物言いをするとすぐに「ルサンチマン」というコトバが山彦のように返ってくる。w
しかし、たいていその場合「ルサンチマン」てものをまったくご理解していないで赤っ恥をかいている方が多い。

つまりたいていの場合、使った本人が「ルサンチマン」のものの見本であることが多いのです。
もちろん、自分が恥をかいていることすらを知らないからシアワセな人であるには違いないのですが。w

ルサンチマンressentimentとは何か。
弱者が強者にもつねたみ、ひがみ、そねみのことです。
この場合、ニーチェが「弱者」をどのようにとらえていたかが問題でしょう。
「弱者」とは多様な現実をそのまま肯定できない者、差異をそのまま認めることのできない者の由です。

よってルサンチマンは自分の思い通りにならない相手を、自分の考えている本来<あるべき状態>にもっていくために、それを正そうとして発動される。
今回の場合でいえば、自分の気に入らないコメントを続けている相手に苛立っている弱者がraincoatcrowd さん、あなたです。w

相手が<あるべき理想像>から外れていくことを直視できない。現実を直視できずにそれを否定しようとして人格攻撃をするわけだからraincoatcrowd さんやhiroshi さんは、ニーチェにいわせれば現実をそのまま受け止めることのできない<弱い>人間ということになります。w

では「強者」、ニーチェのいう超人とは何か?w
「超人」とは何か?──それは一切を肯定する者のことです。現実そのまま受け入れ、これを肯定する者、それが強者です。w

そんなバカなやつは存在しえませんがね。w
んが、あまり俗流哲学的語彙を安易に使うと恥をかくかだけでわないのかな。
まして「ルサンチマン」なんて、あーた、必ず自分に跳ね返ってくる言葉なんですよ。
以後、お気をつけて、ねっ。(^_-)-☆,

n-e [TypeKey Profile Page]:

イカフライさん

 あの、私も最近のイカフライさんは暴れすぎだと思いますよ。あなたの内田先生への批判には部分的に賛同する点もありますけれど、こう毎回毎回コメント欄でお見かけすると「またか」という気分になります。

 最低限の礼儀を守っているというのは、それこそ受け取り方は多様でしょうけど。私には最近やや度を越しているようにみえます。特に内田さんの階級性を揶揄するようなコメントを繰り返す行為はあまり生産的に思えません。

 本格的に内田批判をやりたいのでしたら、ご自分のブログで執筆してリンクなり貼れば良いでしょうし、現状では閲覧数の多い内田ブログで自己顕示欲を発揮したいようにも見えてしまいます。

 内田さんが公開している場で、自説を頻繁に発信する行為は内田さんにかまって欲しいという、一種の依存のように見えますし、実際他のブログでもそういうコメント者、多いですからね。かりにイカフライさんがそうではないと思われたとしても、そういう印象を持たれること自体は回避できないと思いますよ。
 

ekusiad [TypeKey Profile Page]:

イカフライ殿

そなたの中身が水揚げされて
幾年が経ったのでせう。
そなたの中身が包丁で四角く切られて
幾月が経ったのでせう。
そなたの中身が油で揚げられて
幾日が経ったのでせう。

嗚呼、イカフライ殿

小生が思いますに
ルサンチマンを抱いてしまうことじたいを肯定するのが
「強さ」であります。

ところで、ルサンチマンの矛先は
実は自分自身を向いておるのです。

人と一緒に生きていたら
一緒に生きている人たちが
自分の中に巣食うのです。

嗚呼、人は
それを呪いもし
愛しもします。

それを分かっていてもなお
無駄に饒舌になるのなら
おめでたきスカポンタンの果報者であります。

世界をあるがままに肯定するというのは
怨恨をも受け入れる
そういうことであります。

ニーチェの「弱者の道徳批判」は
まずもって、キリスト教批判であります。
あれはニーチェ自身による
ニーチェの批判なのであります。

内田樹のユダヤ人論は
内田樹による内田樹批判なのであります。

中卒のイカフライ殿は
イカフライにタレを掛けすぎるのであります。

そんなに意固地に逆差別的なロジックを
弄ばないでくださいませ。

小生、なんだか、悲しいのであります。
小生が悲しかろうが、嬉しかろうが、

嗚呼、イカフライ殿

そなたには関係ないでせうが。

ですが、イカフライ殿

小生はそなたに
真面目に話しかけるのが

馬鹿みたい

だとは
全然思いません。

イカフライ [TypeKey Profile Page]:

みなさま、お待たせいたしました。
イカフライです。( ̄^ ̄)!

しばらく閲覧をしなかったあいだに、
なんかりろりろわたしの投稿姿勢、発言内容に苦言が提出されておりました。これもわたしの不徳のなせるわざ。心から反省と後悔と改悛と座禅と...ちゅいでに内観でもしようかなであります。

ただ、あのー、えとー、このブログのコメント欄のシステムとしては、あれなんじゃないのでしょうか。特定の投稿者を無視することは容易なんじゃないのでしょうか?

内田さんの記事が前面に出ておる。
そしてコメンターの発言は任意の投稿者の名前をポッチしなければ現れないし、そのコメントだけを冒頭から読める仕掛けになっておる。よってわたしのルサンチマン?投稿をスルーすることは簡単なはずです。d(⌒O⌒)b

>内田さんが公開している場で、自説を頻繁に発信する行為は内田さんにかまって欲しいという、一種の依存のように見えますし

う~ん、ごめんねえ、ぼくちゃんだけが甘えて。
あなたもいいのよ、いいのよ、甘えても。内田先生は心の広い方なんですから、甘えん坊が一人や二人増えてもゆるぎない方ですよ。たぶん。((^p^))

いずれにせよぼくちゃんは「公開処刑」中の身だし、「トンズラこくなよ」と釘をされれているわけだし。
ここで期待を裏切るわけにはいかないでしょー。

あ、それから甘えん坊のぼくちゃんのために詩をよせてくれた方へ。なかなか面白い詩をありがとうでした。
(^_-)-☆,

ekusiad [TypeKey Profile Page]:

〈中卒のスーパー自虐俺俺ラジカルロジカルイカ臭いキャラ〉イカフライさんのコメントは、なかなかに面白いものが多いですし、時折キラリと光るものがあります。

内田さんの言いそうなことは予想がつくが、〈中卒のスーパー自虐俺俺ラジカルロジカルイカ臭いキャラ〉イカフライさんの言うことは、ちょっと、まだ予想がつかない、というか予想をつけさせぬものがあります。単なる戯言ばかりかといえば、そうでもないですし。

〈中卒のスーパー自虐俺俺ラジカルロジカルイカ臭いキャラ〉イカフライさん完全に匿名性を利用(善用でも悪用でもなく)する術を心得ておられるし、論理を逆手に取っておられる。論理を強烈に蔑視しているように見えて、実は、フェティッシュにしているようにも思われますが、まあ、真相は藪の中であります。

なんというか、『カラマーゾフ』の道化のフォードルみたいであります。フォードルには憐れみをもてますが、〈中卒のスーパー自虐俺俺ラジカルロジカルイカ臭いキャラ〉イカフライさんにはもてぬというちがいはあるとしてもです。

〈中卒のスーパー自虐俺俺ラジカルロジカルイカ臭いキャラ〉イカフライさんはペルソナージュになりそうなところで、そこから逃れますからね。
ある意味、タチが悪い(笑)
が、ウェブ上では当然であります。

いやあ、なんというか、内田さんも忙殺されて大変だな、名が売れるというのも、いいことづくめではないなあという、単純な感想をまず持つekusiadであります。

内田さんは、コメントに目を通す時間もないでせう。
目を通しているとしたら、何を思うのでせう。

新書でも、ブログでも、同様の「自己批判」から発動する論理を「芸」として、用いざるをえなくなっているのを見ると、ちょっときついものがあると見えぬこともあらぬ。

構造主義への造詣深き紹介者あるいは和物レヴィナスとして振舞わざるをえない息苦しさすら、もはや、感じている暇がないかもしれませぬ。

いまや、内田さんは構造主義言説が繁茂するという構造に飲まれかけた一本の樹ともある人々には映っているかもしれませぬが、しかし、内田樹という樹の場合、タンデンに力が入っているので、そう簡単には倒れないでせう。

あらゆる議論の矢面に立つというのは、大変なことなのだと、そのことをひしひしと感じさせてくれるだけでも、内田さんは、エライ!

日本の論点2008の巻頭論文が彼になるなんて、誰が予想してたことでせう。

あんまり政治に飲まれすぎないでほしいなどと、勝手に心配するekusiadでありました。

余計なお世話でせうが。

80年代初頭生れのボクとしては、日本のおじさんたちに、大変でせうが、法や社会や国家や公について、一緒に考える機会を、もっと、どんどん作っていってほしいものであります。

まあ、もうやられていることかとは思いますが、それでもまだまだ足りないのであります。

講義や、著述や、講演以外に、何かよい手はないもんですかねえ。

ないのでせう。

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

About

2008年03月16日 11:03 に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「神さまここはハライソ」です。

次の投稿は「麻布永坂茶事事始」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。