神さまここはハライソ

2008-03-14 vendredi

あまりに長い間、日記の更新がなかったので、江さんが心配して「大丈夫ですか」というメールをくれた。
ご心配をおかけしましたが、大丈夫です。
バリから帰ってから、極楽麻雀に行って、そのあと会議漬けの日々があって、そのあいだに締め切り原稿をばたばたと片付けて、10日から13日まで恒例の極楽スキーで野沢温泉にいたのである。
極楽スキーも91年から数えて17シーズン目である。
途中で膝の痛みで2回欠席したが、あとは皆勤。
92年までは「シーハイルの会」というスポーツマンライクで禁欲的な会だったのであるが、93年に私が幹事に指名されるに至って、「温泉、山海の珍味、スキー」に均等に配慮した快楽オリエンテッドなスキー旅行に衣替えし、会の名称も「極楽スキーの会」と改まったことは既報の通りである。
爾来、十数年野沢温泉さかや旅館で三泊四日の春スキーを楽しんでいる。
ワルモノ先生に7年ほど前に幹事職をお譲りしてから、ますます「極楽テイスト」は強化され、分刻みスケジュールで美食と美酒をしこたま腹に詰め続けるというスキーとは別の意味での体力(主に胃腸肝臓系の)勝負なスキーツァーとなっているのである。
今年の参加者は 10 名。
常連のウエノ先生、ヤマモト先生、ミスギ先生、ミウラ先生、今年が二度目のイワタ先生、今年初参加のサイトウ先生、そしてワルモノジュニア(はるこさんとふみこくん)。
イーダ先生とドクターは今年はお休み。
若い人たちの参加で多少平均年齢はさがったものの、オーバー60歳スキーヤーが次第に増えてきた。
かくいう私もあと3シーズン後は還暦スキーヤーである。
思えば16歳のときにオガサカの板を買って部屋で「ひとり妄想ウェーデルン」をしていたときに、ふとあと何シーズンスキーができるのだろうと考えたことがある。
そのときに「60歳までできるとして、あと45シーズンか・・・」と指折り数えて絶望的な気分になった。
人生ってそんなに短いのかと思ったのである。
そのときは60歳でスキーをしている自分の姿がうまく想像できなかった(だってそのへんが人生の「消失点」なんだから)。
今なら想像できる。
そして、自分が16歳とのときとあまり変わってないということもよくわかる。
もちろん外観や身体能力や知識量や社会的立場は高校生のときとは変わっている。
でも、変わったのはそれくらいである。
気質とか、好き嫌いとか、価値観とかはまるでおんなじである。
タイムマシンで16歳の自分に会いに行って、「60歳になっても、中身はかわんないぜ」と教えてやったら、どんな顔をするであろう。
え〜、オレってこのまんまなの・・・とおそらくは絶望のあまり髪の毛をかきむしるであろう。
高校生が高校生であることに耐えられるのは、自分がそのうち「別人」になるであろうと無根拠に信じているからである。
その信憑は小松崎茂の「未来画」を見て、自分が大人になるころに、自分の子どもたちは「ジェットカー」に乗って、銀色の宇宙服を着て宇宙ステーション内の学校に通うようになるのだろうと素朴に信じていたのと同質のものである。
未来はまことに未知である。
その未知性のうちには「未来はそれほど未知でもない」という驚嘆すべき情報も含まれている。
野沢温泉はあいかわらず人が少ない。
三日間ピーカンで、雪質は最高なのに、ゲレンデはがらがら。
樹氷のあいだをリフトで登ってゆくと、真っ青な空の下に白銀の山々が拡がっている。
エッジを立てるとキュッと粉雪がきしむ。
スキーヤーとしてはまことに快適であるが、この同じスキー場に「雲霞のごとく」スキーヤーがひしめいていた70-80年代を知るものとしては採算的にこの先大丈夫なのであろうかと心配になる。
さいわい、オーストラリアや中国からのスキーヤーが増えていて、彼らが需要の下支えをしてくれている。
野沢温泉ではもうスキー場の告知もメニューもすべて英語併記となっているし、「迷子の呼び出し」も英語でやっていた。私たちの泊まった部屋の隣二室も外国からのお客様であった。
「食堂国家」「温泉国家」「演芸場国家」として「東アジアのスイス」をめざすという私の21世紀の国家戦略は民間レベルではすでに着々と進行しているようである。
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