そろそろ春だけど

2008-03-05 mercredi

昨日も今日も会議。
この一週間、数えたら会議が10回あった。
その10回目。
ほとんどの会議が同じ顔ぶれである。
大学教員には二種類がいる。
「会議に呼ばれる人」と「会議に呼ばれない人」である。
たいていの場合、「会議に呼ばれない人」はその会議での議題について、特段の意見がない方ではない。むしろ、当該論件について、きっぱりとした意見をお持ちの方が多い。
彼らが呼ばれないのは、その人が会議で発言を始めると、会議がたいへん長引くからである。
だから、「会議に呼ばれる頻度の高い人」は、「会議で長時間無言でいることに耐えられる人」か、「会議を早く終わらせる特技を有している人」かどちらかである。
私はご案内のとおり、会議で長時間無言でいることに耐えらるような度量の大きい人間ではない。
しかし、私が我慢できずに「ええい、めんどうだなあ。あのね、早い話が」と発言を始めると、場はたちまち収拾のつかない混乱に陥り、議長はやむなく閉会を宣言してしまい、結果的にみんないつもより早く帰れるので、「面倒な会議にはウチダを呼んでおくと、意外に早く終わる」ということが暗黙の学内合意となっているのである。

お正月の大瀧詠一、山下達郎の『新春放談』はナイアガラーにとって「教皇の年頭勅令」というか「大統領の年頭教書」のようなものであるが、たまさか旅先でラジオを聴くことができぬので、石川くんに録音をお願いしておいた。
そのカセットが1月末に届いた。
2月は当方が忙しすぎて聴く暇がなかったが、3月になってすこし時間に隙間ができたので、カセットテレコを車内に持ち込み、ドライブしながら聴ける体制をしつらえて再生してみる。
2008年なので、30年前の1978年の『ナイアガラ・カレンダー』の秘話が語られる。
『ナイアガラ・カレンダー』は3万枚プレスしたが、予約が300枚しか来なかったという(『レッツ・オンド・アゲイン』と並ぶ)ナイアガラ・レーベルでもっとも悲運の一つなアルバムである。
私も発売と同時に購入はしたが、予約はしなかったので、師匠のご心痛にいくばくかの責任はあるのである。
『ロックンロール・お年玉』、『クリスマス音頭』、『五月雨』、『泳げかなづちくん』など歴史的名曲が収録されているのだが、私はとりわけ『座 読書』を愛しており、これを繰り返し聴きながら、上野毛時代に育児家事労働などの励んでいたのである。
ま、それはさておき。
その録音秘話をげらげら笑いながら聴いていたら、談及んでしばらく前に山下達郎さんの Sunday Song Book で特集したP・F・スローンのことが話題になった。
そして、師匠が「P・F・スローンがハーマンズ・ハーミッツに提供した A must to avoid の邦題覚えてる?」と山下さんに振ったところ、「あの娘にご用心!」と即答。
そしたら、それに続いて師匠が「ウチダタツル先生が『村上春樹にご用心』という村上春樹論書いたでしょ。そのタイトルについて、あれは大瀧の『あの娘にご用心』からいただきましたって書いてたけれど、もとがP・F・スローンからのパクリなの」と衝撃のコメントをされたのである。
『新春放談』で自分の名前が大瀧詠一師匠の口から出るというのは、どれほど「びっくり」することであるか、全国津々浦々のナイアガラーにはご想像いただけるであろう。
運転中であったので、私はあやうくハンドル操作を誤るところであった。
ああ、おどろいた。
去年のお正月に45スタジオに遊びにおいでと大瀧さんから誘われていた。一度福生に伺って、直接ご拝顔のうえ、これまでの無音のお詫びを申し上げねばならぬのだが、なかなか実現しない。
とほ。

AERAの連載が始まる。
週刊誌連載は「パンツのゴムよりきつい」というのは斯界の常識であるので、私はこれまで固辞していたのであるが、養老先生からのお声がかりではお断りするわけにはゆかない。
今週号のAERAを読んだら、養老先生は「この連載は、次回から内田さんの柔らかい頭を借りたリレーエッセイに装いを替える。あわよくば私に虫捕りに専念しようというもくろみだ。」とお書きになっている。
自分の名前を思いがけぬところで見て、またびっくり。
「あわよくば」って、先生は私に連載をおしつけてAERAをオサラバするもくろみなのであろうか。

午後、朝日新聞の取材が来る。
「女と男」という一年間続いた特集の「しめ」の談話を取りにいらしたのである。
去年の春ごろにその紙面に登場して、何ごとかしゃべったらしい。
むろんな何を話したのか何も覚えていない。
そうカミングアウトすると、取材の記者の方はたいへん悲しそうな顔をされていた。
申し訳ない。
「女と男」というシリーズの記事をいくつか事前に送っていただいていたので、読んだ感想を訊かれる。
「べたべたしてて気持ち悪かったです」と正直にお答えする。
どうして、もっと「さらり」とした、敬意をもって互いを遇し、ていねいに配慮し合う、気分のよいカップルを取材されないのであるか。
その理由はメディアの諸君もまた男女関係を「理解と共感」の上に基礎づけようとしているからである。
愚かなことである。
人間の共同体は個体間に理解と共感がなくても機能するように設計されている。
そのために言語があり、儀礼がある。
人間の生理過程が「飢餓ベース」であり、共同体原理が「弱者ベース」であるように、親族は「謎ベース」である。
親子であれ配偶者であれ、「何を考えているのかよくわからない」ままでも基本的なサービスの供与には支障がないように親族制度は設計されている。
成員同士が互いの胸中をすみずみまで理解できており、成員間につねに愛情がみなぎっているような関係の上ではじめて機能するものとして家族を観念するならば、この世にうまくいっている家族などというものは原理的に存在しない。
原理的に存在しえないものを「家族」と定義しておいて、その上で「家族は解体した」とか「家族は失われた」というのはまるでナンセンスなことである。
変わったのは家族ではなく、家族の定義である。
誰が変えたか知らないけれど、ほんらい家族というのはもっと表層的で単純なものである。
成員は儀礼を守ることを要求される。
以上。
である。
それを愛だの理解だの共感だの思いやりだのとよけいな条件を加算するから家族を維持することが困難になってしまったのである。
現在、家族を形成している方々は総じてたいへん不満顔である。
家族間に理解がない、愛がない、共感がない、価値観が一致しない、美意識が一致しない、信教が一致しない、政治イデオロギーが一致しない・・・だから「ダメ」なんだと結論する。
そのような条件であれば、この世に幸福な家族がひとつとして存在しなくて当たり前である。
家族の条件というのは家族の儀礼を守ること、それだけである。
それがクリアーできていれば、もうオッケーである。
朝起きたら「おはようございます」と言い、誰かが出かけるときは「いってきます」「いってらっしゃい」と言い、誰かが帰ってきたら「ただいま」「おかえりなさい」と言い、ご飯を食べるときは「いただきます」「ごちそうさま」と言い、寝るときは「おやすみなさい」と言いかわす。
家族の儀礼のそれが全部である。
それができれば愛も理解も要らない。
私はそういう意見である。
家族の間には愛情も理解も不要である。
必要なのは家族の儀礼に対する遵法的態度である。
家族と言ったって、ほんとのところは「よくわからない人」である。
とりあえずわかっているのは、「この人もまた私同様に家族の儀礼を守る人だ」ということだけである。
だから敬語を使う。
何を考えているのかわからないときにはたまには「何をお考えなのですか?」と訊いてみる。
訊いてみたらたいへん単純なことだった場合もある(「いや、綿棒どこ置いたかな・・・と思って」とか「昨日の晩御飯って、焼きそばだったっけ?」とか)し、訊いてみてもまるでわからない場合もある(訊かれた本人も自分が何を考えているのかわかっていないからである)。
「私のことを愛していますか?」と心配だったら訊いてもいい。
もちろん、こういう場合には「もちろん愛しているよ。どうして、そんなこと訊くの?」と答えることが「家族の儀礼」で決まっているので、そういう返事がくる。
私はそれだけで十分だと思う。
どうして「家族の儀礼を守らなくちゃいけないの?」という問いには「昔からそう決まっているから」と答えればよろしい。
家族というのはどうしてそのようなものがあるか、その起源についてはよくわかっていない社会制度である。
弱者が共同体をつくることで生き延びる確率を高めようとしたのであろうということしかわからない。
世界に二人といない知己を得たり、めくるめくエロスの極致を経験したりするためのものではない。
もちろんそういうことが副次的に「おまけ」でついてくれば、それに越したことはないが、それはいわば「レクサス買ったら、ドライバーズシートに『腰もみマッサージ機能』がついていたぜ」くらいに「おまけ」的なものである。
どうも世間の方は勘違いをされているのではないか。
愛と共感に基礎づけられ、家族同士が世界の誰よりも深く理解し合い、配偶者たちは夜毎エロスの極限を経験している・・・というようなものを「理想の家族」とするならば、現実のすべての家族はただちに遺棄されて、人々は「理想の家族」めざして「家族探しの旅」にさまよい出なければならぬであろう。
当今の家族論の類を読んでいると、どうも「この自転車にはバックミラーがついてない」とか「この中華料理屋にはなぜクラブハウスサンドイッチがないのだ」(裏軒にはあるが)というような「木によって魚を求む」議論をしているような気がしてならない。
家族は「ひとりでは生きられない」弱者が生き延びるための装置である。
家族成員が強者であることを要求するような家族論ははなから論の立て方が間違っているのである。
というような話を(その10倍くらいくどく)する。
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