ひさしぶりの休日。
ゆっくり朝寝をしてから、まず午前の暖かい日差しを浴びて朝ご飯。
白米、わかめと油揚げの味噌汁、納豆、生卵、昆布、鰺の干物(湯本のおみやげ)。
ぱくぱく。
続いて大掃除をする。
この一ヶ月、部屋の掃除をしていないので、机の上、床の上にところきらわず本や雑誌が散乱している。要るものを本棚に戻し、要らないものを資源ゴミに分別。
机の上のゲラの束を数えたら4つあった。
パソコンの中にはこれから見るゲラのデータが3つ入っている。
ということはおそらく年内にあと7冊本を出さなければいけないということである。
軽いめまいを覚えつつ、お洗濯とアイロンかけをする。
家の中がだいぶすっきりした。
机に向かって、『哲学の歴史』のためにカミュ論を仕上げる。
『哲学の歴史』の20世紀フランス思想の巻に短いカミュについてのエッセイを書いた。
出だしはこんなのである。
「アルジェリアの影」というタイトルは編集者から依頼されたものである。本巻の構成と私の過去の研究業績から推して、私に課されたのはアルベール・カミュについてのコメントだろうと思う(鷲田先生に確かめたわけではないので、もしかすると違うのかも知れない。違っていたらごめんなさい)。
いずれにしても、カミュは哲学史的には「日の当たらない場所」におり、このタイトルは正しくカミュの立ち位置を指示している。現に、この「哲学の歴史」シリーズの中にはカミュのために献じられた項目が存在しない。私はアルベール・カミュを二十世紀においてもっとも射程の遠い思想を語った哲学者のひとりと評価しているけれど、その評価に同意してくださる方はごく少数なのである。
だが、それにもかかわらず、カミュのテクストは現在でも本巻に収録されているどの哲学者のものよりも多くの人に読まれている。私の記憶に間違いがなければ、『異邦人』はすでに半世紀にわたって「フランス語で書かれた小説」のベストセラー・ランキング一位を占め続けている。この記録を更新する作品がフランス語で書かれる可能性はこれから先もおそらくないだろう。
死後半世紀を経てもなお新たな読者を獲得して読み継がれているという事実と、その哲学史的な評価の低さの「ミスマッチ」に私は興味がある。なぜアルベール・カミュは哲学史の「影」に置かれるのか?これが、私がこの短い文章の中で考察してみようと思う問いである。
どうです。ちょっと続きが読みたくなったでしょ。
依頼枚数は 8 枚だったのだが、書き終わったら20枚になっていた。
そのまま掲載してくださるかどうか危ぶまれるが、読み返してみてもなかなか面白いです。
続いて、バリで書きかけた『寺門興隆』のエッセイを書き上げる。
これは宗教についてのエッセイなので、バリ島における「霊的律動」について書く。
続いて、エピスの原稿『ノーカントリー』を書く。
この映画の説話構成がヒッチコックに通じていることに書いている途中で気づく。
それは「何か厄介なものを手に入れたせいで、エンドレスのトラブルに巻き込まれる人の話」ということである。
ヒッチコックの映画はだいたいそうである(「何か厄介なもの」をヒッチコックは「マクガフィン」と呼んだ)。
『39夜』も『知りすぎた男』も『サイコ』も、「そういう話」である。
よく考えたら、『ノーカントリー』は『サイコ』に説話構成がよく似ている。
たまたま大金を手に入れて、それを持って逃亡した人が、それを追ってくる人々との終わりなきトラブルに巻き込まれ、最後に「誰彼構わず殺してしまうサイコパス」に出会って殺される。だが、殺す人間は金を取り戻すためにそうするのではない。彼はいわば人間のかたちをした「災厄」なのである。
なるほど。『ノーカントリー』はコーエン兄弟版の『サイコ』であったのか・・・ということに気づく。
そのことをエピスに書こうかと思ったが、若い読者は『サイコ』なんか観てないであろうから、比較をしてもあまり面白くない。
あれこれ考えているうちに、映画を観ていて、どうも「ひっかかった」ところを思い出した。
それはモス(ジョシュ・ブローリン)がメキシコ国境を越えるところで、「2000万ドル詰まった鞄」をリオ・グランデ川のアメリカ側の河川敷に棄てる場面である。
おい、そんな目に付くところに鞄棄てたら、すぐ誰かに見つかって持ち逃げされちゃうんじゃないの・・・と私はひとごとながら心配になったのである。
実際にその翌日にはスマートな追っ手(ウディ・ハレルソン)がすぐに鞄を見つけてしまう。
でも、どういうわけか彼はそれを拾って持ち帰ろうとしない。
不条理である。
どうして、モスはこの鞄を河原に置き去りにしたのか? どうしてウディ・ハレルソンはその鞄を拾って持ち帰らなかったのか?
理由がわからない。
国境警備隊の仕事ぶりのいい加減さは二度にわたって活写されている(アメリカからメキシコに入国するときに警備員は居眠りをしている)。
だから、「モスは鞄の中身をチェックされるのを避けるためにそうした」という説明は通らない。
ウディ・ハレルソンが鞄を拾わなかった理由はもっとわからない。アメリカ側から河原に降りればいいんだから(現にモスはそのあとそうやって簡単に鞄を回収している)。
でも、彼は鞄を拾わず、手ぶらでメキシコに戻り、殺される。
この不条理を説明できる仮説はひとつしかない。
それはあの鞄は「アメリカ=メキシコ国境を通り越すことができないもの」だということである。
さて、そこで問題です。
アメリカ国内ではすべての人がそれを欲望し、それを所有し、それを支配しようとするけれども、メキシコには持って行けないものとは何でしょう?
論理的にはそれは一つしかない。
答えは讀賣新聞3月のエピス「うほほいシネクラブ」で!
原稿を3本書き上げたところで、お風呂に入る。
風呂から出て、『松風』の謡の稽古と『菊慈童』の舞の稽古をする。
盤捗楽の稽古の途中で、三宅先生がやってくる。
三宅先生ご夫妻と御影のガーデンシティのお寿司屋さんへゆく約束だったのである。
ぱくぱく。
三宅先生、今日もごちそうさまでした〜。
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(2008-03-03 09:39)