福田政権の無為と女性的資本主義について

2008-02-12 mardi

久しぶりのお休みなので、9時まで朝寝をする。
玄米を炊いて、納豆と卵と若布の味噌汁と昆布で朝ご飯。
洗濯をしてから、推薦入学者のレポートを読んで添削してゆく。
面白い仕事ではあるのだが、数が多いのでたいへんである。
気がつくともう昼過ぎ。
本日は取材が二件あるので、あわてて部屋を片付ける。
2時からSightの取材。
お題は「福田政治の中間報告」。
どうして私のようなシロートにそのようなことを訊きにわざわざ東京からお越しになるのか、その意図がはかりしれぬが、とりあえず思いついたことをお話しする。
前にも書いたが、福田康夫は安部晋三の「暴走」にブレーキをかけるという政治史的要請に応えて登場したわけである。だから、その責務が「政治過程の停滞・政策の非決定・拱手傍観」であるのは理の当然であり、その点で福田首相はたいへんよくその負託に応えてお仕事をされているのではないかという感想を述べる。
メディアは「ねじれ国会」でさっぱり政策が物質化しないことに文句をつけているが、「ねじれ国会」というのはそういうものである。有権者の総意は安部内閣時代のあまりにばたばたと法案が成立し、このままでは改憲にまで突っ走りそうな情勢に不安を抱いて、参院選での自民党の歴史的大敗を選択したわけであるから、法案がさっぱり成立しないのは国民からの要請に応えて、「代議制が正しく機能している」ことと見るのがことの筋目であろう。
大阪府知事選については、有権者の政治システムに対する無根拠な楽観(「誰がなっても、何とかなる」)と無根拠な悲観(「誰がなっても、どうにもならない」)のアマルガムが表出したものであり、その選択の根拠がいずれも「無根拠」という点で、評価することのむずかしい選択であると述べる。
このあと数ヶ月以内に、メディアは集中豪雨的に橋下知事のスキャンダルと政治的無策に対する攻撃的報道を開始するであろうし、有権者の多くはそれを期待している。
「持ち上げて」から「落とす」のはテレビ視聴者のタレントに対する基本的な態度だからである。
おそらく、それからあとの残任期間、大阪府政は長い停滞を余儀なくされるだろうが、それを代償に差し出しても、府民は「目先のスペクタクル」を選択したのである。
これもまた「何か新しいこと」が始まるより、「見慣れた失望」が繰り返すことを願う有権者の無意識の不安が反映したものと見るべきであろう。
「変革が停止すること。現状がだらだらと続くこと」。おそらく有権者は無意識のうちにそれを望んでいる。
「いまこそ根底的変革を」という、その無内容と非実効性が熟知されている擦り切れたスローガンを飽きずに繰り返しているという点に民意の退嬰性は顕著に徴候化している。
というようなお話をする。

続いて4時からはBRUTUSの取材で、鈴木副編集長と橋本麻里さんが登場。
今度のお題は「経済の本質は女に訊け」(仮題)。
政治の次は経済ですかい。
どうして私のようなシロートに・・・(以下同文)
「富の偏在」のもたらす資本主義の停滞と、「誇示的消費」と「享受的消費」の差異についてお話する。
ご案内のとおり、日本社会では階層の二極化が急速に進行している。
金のある人間のところにどんどん金が集まり、金がない人間のところからはどんどん金が失われてゆく。これは日本だけの現象ではなく、世界的趨勢である。
富は偏在しつつある。
世界人口の1%の資産家が世界の富の40%を所有しており、日本はその中でも最も豊かな国で、一人当たり平均資産は世界一、資産家上位1%のうち27%は日本に居住している。
「日本は豊か」と言われてもまるで実感がないという方々が多数おられるであろう。
その通りである。
それは世界の富が集中しているはずの日本国内において、富はさらに一部の階層に集中しているからである。
私たちの生活実感は「日本人口の1%の資産家が日本の富の40%を所有しており、資産家上位1%の27%が港区に居住している」というのに近い。
これをグローバルスタンダードの成就としてにぎやかに寿いでよろしいのか。
私は「よろしくない」と思う。
たしかに一見すると貨幣の運動はたいへんに活発であるかのように仮象する。
だが、貨幣は集中すると流動性を失う。
個人レベルで考えればわかる。
例えば私が年収200万で暮らしているときに1000万円の臨時収入があったとする。これはまさに夢のような大金であり、私は「あれも買いたい、あれも食べたい」と具体的な欲望に身を焦がし、居ても立ってもいられずに財布を握り締めて街に飛び出すであろう。
しかし、年収2億円の人にとっての10億円の臨時収入はそれほど活発な消費活動を起動しない。
というのは、その人は金で買えるようなモノはもうすべて持っているからである。
10億円で買えるものといえばもう証券と不動産しか残っていない(これらは貨幣の特殊形態にすぎない)。
つまり、個人資産があるレベルを超えると「金で金を買う」以外にすることがなくなるのである。
大富豪は奢侈品に惜しげもなく大金を投じることがある。けれども、それが経済にもたらす効果は限定的なものにとどまる。
アラブの王族が10億円で自家用ジェット機を買ってハワイに飛び、五つ星ホテルを借り切ってひとり宴会をすることがもたらす経済波及効果は、一万人の日本人ツーリストが10万円の格安チケットでハワイツァーをした場合のそれに遠く及ばない(ホノルル国際空港の空港使用料収入に限って言えば一万分の一である)。そういうものである。
経済活動は個人資産が広い範囲に薄くばらけている方が活発になる。それゆえ、貧富の二極化を私は(人権的配慮よりはむしろ)穏健なる資本主義者としての観点から好ましからざるものと見ているのである。
二極化は「誇示的・記号的消費」と「享受的・実体的消費」の二元的対立という図式でとらえることもできる。
実体経済を支えているのは後者である。
誇示的消費 (consommation ostentatrice) は「象徴価値」のある物品やサービスに投じられる。
その目的はもっぱら階層格差を記号的に指示することであり、購入される商品の使用価値はほとんど顧慮されない(というか「使用価値ゼロ」の商品の方が象徴価値は高い)。
王侯貴族がたくさんの使用人や食客を寄生させているのは、彼らにさせる仕事があるからではなく、何も仕事がない人間を徒食させておくことが象徴価値を形成するからである。
一方、享受的消費 (consummation jouisseuse) もまたその究極のかたちは(これまた不思議なことに)使用価値ゼロなのである。
それは消費されたあとにかたちを残さない。
身体組成そのものが「享受したこと」によって変成するので、「モノ」としては残らないのである。
例えば、音楽を聴く、舞踊を見る、美術品を見る、美食を食する、温泉に浸かる、スキーをする・・・といった消費行動は享受的である。
それは消費主体自身の細胞レベルでの快楽に捧げられた消費であり、その経験を通過したことによって消費主体は別人となるが、消費財それ自体は収蔵することもできないし、カタログ化することもできないし、記号的に誇示することもできない。
「いや〜、よいね〜」と嘆息するだけのことである。
享受的消費は誇示されない。
むしろ「誰にも見られていないこと」によって快楽が昂進する場合が多い。
だから、「享受している」姿を他者に誇示することで、階層格差の記号として功利的に利用しようとする人間のことを、私たちは「野暮」とか「スノッブ」とか呼称する。
ふつうの消費行動は「誇示型」と「享受型」の両方の性質を備えている。
フェラーリでアウトバーンを疾駆するのは、半ば誇示的で、半ば享受的である。スカラ座のバルコニーでオペラを鑑賞するのは、半ば誇示的で、半ば享受的である。
しかし、享受的消費は「身体という限界」を有している。
どれほどの美食でも一日に五食も食えば、身体を壊す。フェラーリを運転できるのも最大一日24時間までである。ぶっつづけで運転してもよいが、遠からず過労死するであろう。どれほど衣装道楽でも、着られるのは一度に一着だけである。一度に二着着ると『百年目』の番頭さんみたいになる。
実体経済というのは、「身体という限界」の範囲内でなされる消費活動をベースにした経済活動のことである。
実体経済が空洞化しているというのは、消費活動における「身体という限界」の規制力が弱まっているということである。
女性の消費活動は濃密に「身体的」であり、ディスプレイ上に表示される電磁パルスの数値を見て極快感を得ることのできる女性はあまりいない。
女性に「引きこもり」が少ないことはつとに指摘されているが、それはコンピュータのディスプレイ上のデジタルな数値変化を「現実的快感」に読み替えることが女性には困難とされていたからである。
彼女たちはどれほど記号的であっても、せいぜい宝石とか毛皮とか香水とかドレスとか「手で触れることのできるもの」を要求し、「債券」に印字された数字を見てぐふふとよだれを垂らすというような芸当は本来はなされない。
しかるに現代の消費の過半は誇示的=記号的なものになってしまっている(そこで消費される金額が桁外れだからである)
一方で、享受型消費は今ほぼ完全に女性ジェンダー化している。
バレーでも歌舞伎でも演劇でも映画でも温泉でも花見でも、どこに行っても、いるのは女の方々ばかりである。
男たちはもうこのような享受型消費財に対する欲望をほとんど失ってしまったかのようである。
消費活動の性的二極化もまた進行している。
困ったことである。
経済政策の基本として私がご提言したいのは、とにかく「富の偏在」を是正して、できるだけ多くの人々に「使いでのある小銭」というかたちで貨幣が流通するようにすること、そして誇示型消費を抑制して、できるだけ享受型消費(現在女性たちがなされているような)に軸足を移すことである。
誇示から享受へ。幻想から等身大へ。
それが「日本の行く道」であるように私には思われるのである。
というようなお話をする。

インタビュー二つで疲れ果て、IT秘書を相手にワインを飲み、御影駅前のペルシエでIT秘書の愚痴を肴に晩ご飯を食べる。
あまり疲れが取れない。
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