Tokyo Boogie Woogie

2008-02-11 lundi

9日は死のロード第二弾。
雪の中で合気道の稽古。暑くなってきて道場の窓を開ける。
みなさんたいへん熱心である。ぐんぐんうまくなる。
教えている当人が言うのもなんだけれど、どうしてかよく理由がわからない。
自分は何を教えているのかよくわかっていないのに、教わっている人たちがきちんと上達するというのも不思議なものである。
この一年ほどは「主体」概念の拡大ということを身体技法の主題にしている。
経験的にわかったことは、「私たち」という複素的な身体をの中枢は「接点・正中線・正中面」にあり、その中枢は操作しようとすると操作できず、操作することを断念すると操作できるということである。
あらゆる運動体には宿命的な動線がある。
その動線に速く同調したものが、運動体の「みかけの」操作主となる(ただし、古典的な意味での「主体」ではもうない)。
「私」が「敵」を制するという発想をしていると、主体の動線と複素体の動線の間に「乖離」が生じる。
その乖離が動きを歪め、遅滞させる。
複素的な運動体の中枢は「接点・正中線・正中面」にあると書いたが、「点・線・面」という用語の通り、それは不断に様態を変える。喩えて言えば、自動車のシフトレバーが「触る/触らない」で反応する、「上下左右に動かす」ことで反応する、「触れてから離すまでの経過時間」に反応する・・・というふうに絶えず反応モードが変わる自動車を運転するようなものである。
入力/出力の方程式が絶えず変化する装置を運転する場合に運転主体を「常数」に取ることはきわめて非能率的である。
運転主体の条件をはじめから「入力/出力モードの変化に同調して変化するもの」というふうに設定しておけば話が早い。
要するにそういうことである。
などという説明ではぜんぜん意味がわからないであろうが、合気道の稽古をしているとそのことが初心者にも「わかる」のである。

雪の中を走って帰宅。鞄をつかんで電車に飛び乗り、東京へ。
関ヶ原がいつものように大雪で新幹線が40分遅れる。
8時少し過ぎに学士会館に到着。
AERAのお仕事で養老孟司先生と対談。
養老先生との「往復書簡」を短期連載でAERA誌上で行う。
AERAへの連載を打診されるが、今は讀賣新聞の「うほほいシネクラブ」が月一、毎日新聞の「水脈」とダイヤモンドの「ただしいお金のなくし方」と『考える人』の「日本の身体」が三月に一回。
これでも日経と共同通信の連載が終わって、だいぶ楽になったところである。月刊連載でさえ四苦八苦していたのに、週刊誌連載なんて論外である。
養老先生と中華料理を食べながらわいわいおしゃべりをする。養老先生のお話をうかがっていると、脳内の血の巡りがよくなるのか、熱い風呂に浸かっているようにぽかぽかしてくる。
腹一杯食べて、ビールと紹興酒でほろ酔いになってみなさんとお別れする。

10日は早起きして、目黒のスタジオへ。
『ENGINE』の表紙撮影である。
スズキさんからのご指名であるので、お断りするわけにはゆかない。
足立さんも見学に来ている(フットワークいいなあ)。
車はBUGATTI。1000馬力、最高速度407km/h。
公道で走ることができる世界一速い車だそうである。
「お値段は?」とおそるおそる伺ってみると、「2億円」というお答えであった。
あ、そうですか。
そのブガッティさまとツーショット。
とはいえ先方はそのような由緒正しいお方であるから、こちらもグルーミングというものをせねばならない。
生まれて初めてスタイリストという方がついて、ヘアメイク、メークアップをする。
「ウチダのヘアをなんとかするプロジェクト」は宝塚の光安さんが長期計画を立てて実行中なのであるが、忙しくてカットに行く暇がないから、もうあちこちで渦巻きカールが始まっている。
「少し切ってよろしいですか?」と訊かれたので、バリ島から帰るまで宝塚に行く暇がなさそうなので、「あ、じゃんじゃんカットしてください」とお願いする。
「他人がカットするとすぐわかっちゃうんですよね」と困っていたけれど、光安さんごめんねと宝塚方面に心の中で手を合わせる。
イタリアンスーツを着せられて、ぴかぴかの靴を履かされて(この靴はめちゃめちゃ履きよかった)、自前の衣装はトランクスだけという「着せ替え人形」状態でそのまま撮影。
もうこうなると「俎の上の鯉」状態であるから、「笑って」と言われればにっこり笑い、「シリアスに」と言われれば目元を吊り上げる。
「はい全部脱いじゃお」と言われたら私だって全部脱いじゃうかもしれない。
なるほどね、と思った。
女の子がついヌード写真を撮られちゃうのは、あれはカメラマンのアオリに乗せられてしまうからだけではなくて、「あまりに多くの人」が自分のために仕事をしている「やましさ」が関係している。
「私のような人間のために、大の大人が日曜の朝から集まってくれて、ほんとうに申し訳ない」という「すまなさ」がレバレッジとなって、「もうみなさんが早く仕事を終えてお帰りになれるなら、なんでも協力します」マインドになってしまうのである。
撮影はさくさくと終わり、そのあともとのボロ服に戻ってスズキさんと「表紙の男インタビュー」。
これはたいへんに愉しいおしゃべりであった。
そのあとスズキさんの運転する MG で丸の内まで送っていただく。
「スズキさんの運転する MG の助手席に乗って日曜の昼の東京都内を疾走」するというのがどういう種類の経験であるかは矢作俊彦『スズキさんの休息と遍歴』の読者であれば、おそらく想像できるであろう。
びゅーん。きゅきゅきゅ〜ん。
スズキさんは齢耳順に近くなってもマインドは「ブント魂」であるから交通標識とかそういうものにはあまり配慮されないのである。
丸の内ホテルでスズキさんとお茶をして、それぞれの家庭の話などをしんみりとする。

続いて2時からは『医療崩壊』の小松秀樹虎ノ門病院泌尿器科部長と「ロハスメディカル」のための対談。
小松先生の本は出てすぐに読んで、世の中には過激さと科学性を兼備した知性というのが存在するのだなと深く感心したことがある。
前夜に養老先生とお会いしていたので二日続きで東大医学部卒の医学者と対談することなる。
昨日は養老先生と・・・と言いかけたが、年代的に考えると、「虎の尾」方面に展開する蓋然性が高いので、黙っている。
小松先生のお話もたいへん面白かった。
『医療崩壊』は医療事故をメディアと検察警察がヒステリックに告発し、厚生行政が責任を放棄して、実現不可能なガイドラインを現場におしつけてほおかむりしている間に、「立ち去り型サボタージュ」によって医療が空洞化している現実を鋭く活写した名著である。
地域医療の拠点病院で診療科がどんどん閉鎖されているのはご存じのとおりであるが、二年前に小松先生が予言した通りに事態は進行している。
同時に、勤務医の開業医への転職が進行しているが彼らは別に地域医療の中核になるつもりでそうしているわけではない。
開業医の中には診断も医療も忌避し、検査数値に異常があると、専門医に回すだけのことしかしていない人間がいる。
医療システムは崩壊寸前の危機にあるが、それにもかかわず、日本の医療技術の水準は世界最高レベルにある。
それはこの劣悪な状況でも「立ち去る」ことを拒否し、メディアのバッシングと患者の怒号に耐えて、治療の現場にふみとどまっている医師たちが疲弊しながらも医療システムの最終的な崩壊を防いでいるせいである。
「立ち去り」がこれ以上進行したら、もう医療はもたない。
今現場にふみとどまって身をすり減らしているいる医師たちをどう支援するか。
それが行政もメディアも医療の受益者である私たちにとっても喫緊の課題であるはずだが、そういう考え方をする人はきわめて少ない。

3時間ほどの対談のあと、小松先生とお別れして、旧友太田泰人くんと夕食。
太田くんは昨冬に腎臓癌がみつかって手術したばかりである。
ようやく手術のあとの傷の痛み消えたというので快気祝いで乾杯。
われわれももう「余命」を指折り数えなければならない年頃である。
太田くんと酌み交わしながら、彼と最初に会って、こんなふうにおしゃべりするようになったのはもう40年近く前のことなんだなと思い出す。
目の前の太田くんは僕の目には声も笑い方もそのときの18歳の少年とほとんど変わらない。
年を取るというのは不思議な経験である。
新幹線の改札口で手を振り合って別れる。
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