前回、脳と身体の乖離ということを書いたけれど、この二元論をあまり実体的に捉えてはならない。
脳といえどもリアルな臓器であり、身体は身体で自前で考える回路を持っているからである。
酸欠になれば脳の思考は混濁するし、点滴を打つと数学の問題がすらすら解けたりする。
同じように、身体も好調を維持していると適切な選択を無意識のうちに行うが、バランスが崩れたり、緊張やこわばりがあると間違った推論をすることがある。
脳を中心に生きるか、身体に軸足を置いて生きるかというのは二元論的な問いのように見えるけれど、このような問いを発し、それに適切な回答を処したりするのは実は脳がひとりでやっているのである。
つまり脳という臓器は「脳を中心に生きるか、脳の関与をすこし抑制するか」という脱自的な判断ができるのである。
「身体」というのは脳がつくりだした「脳の自己中心性を抑制するサブシステム」のことである。
「あまり考えるのは止めよう」ということを「考える」ことができるのである。そして、実際に「考えない」工夫をすることができるのである。
たいしたものである。
この脳の自己中心的=利己的な働きと脱自的=批評的志向は左脳とと右脳によって機能的に分担されているのではないかというのが「本日の暴論」である。
あまりに当たり前であまり気づかれないことだが、脳は「左右対称形」である。
眼や耳や歯や手足といっしょである。
臓器が二個でワンセットあることの生存戦略上の意味は一つしかない。
それは「かたっぽがダメになっても(なんとか)生きていける」ということである。
リスクヘッジである。
「かたっぽがダメになっても(なんとか)生きていける」ためにはこのペアのそれぞれが「だいたい同じ」働きをしていることが必要である。
しかし、まったく同じ働きをしている臓器が二個あってもあまり意味がない。「ちょっと専門領域をずらして」みるとぐっとトータル・パフォーマンスがよくなる。
脳の場合もたぶんそういうことになっているのではないかと私は思うのである。
この右脳と左脳の機能分化論の極北がジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』(紀伊國屋書店、2005)である。
この本は前にもご紹介したことがあると思うが、ジュリアン・ジェインズは「意識よりも速く活動する思考」が人間の思考や判断を導いているという経験則から出発する。
こんなエピソードが紹介されていた。
ある心理学の授業で「無意識の学習と訓練」について学んだ学生たちがその当の心理学の教授の無意識の訓練をするといういたずらを思いついた。
教授が教壇の右側に立って発言すると、深くうなずいて、ジョークに爆笑し、左側によってしゃべるときはうなずきを減らして、笑いを控えめにしたのである。
結果的にその心理学の教授はずっと教壇の右側で授業をするようになった。
教授は「学習」をしたわけであるが、自分自身がその場の「ルール」を学習をしていることをまったく意識していなかったのである。
ジェインズはこう書いている。
「意識の介在しないより複雑な推理も、たえず行われてる。心の活動は速すぎて、意識にはついていけないのだ。私たちは通例、過去の経験に基づいて自動的に一般論を導き出す。その一般論の基礎となった経験をいくつか想起できることもあるが、それはあくまで後から振り返った場合に限られる。正しい結論にたどり着きながら、その根拠を示せないことがどんなにか多いだろう。それというのも、推理に意識は働いていないからだ。」(56-57頁)
アインシュタインの偉大なアイディアのいくつかは髭剃りの最中に到来した(だから、彼はたいへん髭剃りに際してカミソリの扱いに慎重であった。「あ、そうか!」と言った瞬間に顔を切ったことがあまりに多かったせいである)。
ゲシュタルト心理学のウォルフガング・ケーラーによれば、「偉大な発見は三つのBでなされる」。
三つのBとは「Bus,Bath,Bed」である。(おそらくケーラー自身もこの洞見をバスかバスルームか寝台のどこかで得たのであろう)。
本邦には「鞍上、枕上、厠上」という言葉がある。
インスピレーションがひらめくのは、「馬に乗っているとき、布団の中にいるとき、雲古をしているとき」である。
ケーラーの言うBathもおそらくは欧米のバスルームの形態から推してバスタブと便器の双方を含意しているのであろうから、どこでも賢者は同じことを言っているのである。
これらに共通するのは、「リズミカルな運動(ヴィークルの震動、呼吸、蠕動運動など)のせいで、頭がうすぼんやりしていること」である。
これは「ベッドの中で、裸体で、リズミカルに動いているせいで、頭がうすぼんやりしている」状態からエロス的要素を完全に除去した状態ということができるであろう。
その種の行為が本来「再生産」のために行われるべきものであるという事実を勘案するに、「3B」も「三上」も「新しい生命をこの世界にもたらしきたす」という人間の根源的志向を賦活する条件とみなしてよろしいであろう。
閑話休題。
ジェインズの話をしているところであった。
ジェインズは私たちの取る重要な行動や判断には意識は関与していないと考える。
別に意識なんかなくても生きてゆく上ではたいして不自由はない。だとすれば「意識を持たない文明」がかつて存在したということも十分に考えられる。
そして、ジェインズは古代ギリシャというのは「そういう文明」ではないかという大胆な推理をするのである・・・
おっと大学に行かねば。続きはまた明日ね。
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(2008-01-16 11:03)