「神々」の声

2008-01-16 mercredi

学校から帰ってきたので、さきほどの続き。
ジュリアン・ジェインズの「脳機能分化論」である。
630頁もある大冊なので、内容を要約することはむずかしいので、最初の方の「さわり」だけご紹介する。
ジェインズが資料に使うのはホメロスの『イーリアス』である。
この古典には「意識」とか「意志」とか「精神」とかいう語が存在しない。
ジェインズによると、それは「『イーリアス』に出てくる人々は自らの意思がなく、何よりも自由意思という概念そのものがない」(94)からである。
古代ギリシャというのは「意識」という概念がない世界なのではないかとジェインズは推論する。
「意識」がない人間はではどうやって思考したり判断したりするのであるか?
答えは聞いてびっくり。
彼らは「神々」が命じるとおりに生きるのである。
古代ギリシャにおいては「神々が意識に代わる位置を占めている」(96)のである。
「行動は、はっきり意識された計画や理由や動機に基づいてではなく、神々の行動と言葉によって開始される。」(96)
物語の登場人物たちはさまざまな激しい感情に突き動かされて、きわめて活動的にふるまっているけれど、彼らがそのようなことをするのは「神々に心を狂わされ」たせいであり、人間を「神々がつねにおもいどおりになされる」せいなのである。
ジェインズはアガメムノンには自我というものがないと主張する。
彼らにおける意識の地位は「神々」が占めており、その声を彼らは統合失調症患者やジャンヌ・ダルクが聴いたようにはっきりと聴くのである。
「遠い昔、人間の心は、命令を下す『神』と呼ばれる部分と、それに従う『人間』と呼ばれる部分に二分されていた」(109)とジェインズは考える。
ちょうど上院下院、衆院参院の二院制のように、二つのセクションが同一の議案について別の立場から審議するので、この心の働きをジェインズは bicameral mind(二院制の心)と術語化する(邦訳では「二分心」)。
例えば、私たちは無意識に自動車を運転しながら、隣の座席の人と複雑な哲学的議論をすることができるが、その逆はできない。
この「無意識に運転している脳」は実際には路上の歩行者や周囲の車の流れや信号や路面状況に対して膨大な情報を収集し、瞬時のうちに分析し、最適な行動でそれに対処しているにもかかわらず、私たちはそのプロセスをまったく意識しないで、運転とまるで無関係に哲学的私見を理路整然と述べることができる。
しかし、例えば挙動の怪しい車が前方を蛇行していたり、タイヤがバーストしたり、不意に警官が停止の合図をした場合など、私たちは口をつぐむ。
「あれ、何だろう」とか「おい、勘弁してくれよ」というようなことはぼそっと言えるけれど、「私」を主語にして「私が思うには・・・」というような命題文を述べることはもうできない。
「それが何を意味するのか。どうふるまうべきか」について判断するためには、これまでに経験したそれに類した出来事を想起し、それらの経験から導出した訓戒的知見を参照する必要がある。
そして、これは現代人においては「自我」の果たすべき機能なのである。
「私はこれまでこういう場合にはこうしてきた、だから今回も・・・」とか「私は前回にこうして失敗した、だから今回は・・・」というような推論は「私の同一性」に担保されている。
ジェインズの仮説は、この「自己同一的な私」というものが人類史に出現してきたのは、私たちが想像するよりはるかに近年になってからであろうというものである。
「自己同一的な私」が登場する以前には、「それまでの人生で積み重ねてきた訓戒的な知恵をもとに、何をすべきかを告げる」機能は「神々」が果たしていた。
だから、その時代の人々は、何か非日常的な事件に遭遇して、緊急な判断を要するとき、「神々」の声がどうすべきかを「非意識的に告げるのを」待ったのである。(111)
これは現代の統合失調症患者の聴く「幻聴」にきわめて近い。
患者たちはそれを「神、天使、悪魔」のようなものが発しているのだと感じている。
声は一人のこともあれば、複数のこともある。何人もが患者についてあれこれと話し合い、激論のあまり患者自身にも話の内容が聞き取れないこともある。
幻聴は固有の「疾病利得」を伴っている。
それは「正否の判断ができないことについてとりあえず判断が下る」ということである。
私たちをもっとも苦しめる心的ストレスは「どう判断してよいかわからないにもかかわらず判断を迫られ」、かつ「その判断が正しかったのかどうかがわかるまでにかなりのタイムラグがある(場合によっては最後までわからない)」というかたちで出現する。
身体的なものであれ、精神的なものであれ、単なる苦痛はそれほど大きなストレッサーではない(私たちは痛みにすぐ慣れる)。
けれども、その苦痛がどういう理由で私たちに与えられ、苦痛の量は私たちのどういう行動と相関しているのかがわからない場合、心的ストレスは耐えられる閾値を超える。
そういう心的ストレスに耐える方法は一つしかない。
私たちに決然たる行動を命じるのだが、その理由を明らかにせず、その行動が私たちにどのような利得や不利益をもたらすのか教えようとしない「もの」に私たちの主体の座を明け渡すことである。
「不条理なストレッサー」にはそれと同じくらい「不条理なエージェント」で対抗するしかない。
ある種の宗教や政治イデオロギーがつねにかわらず多くの人を魅了するのは、その不条理性が人々の陥っている状況の不条理性と「釣り合っている」からである。
細木数子のような人が高いポピュラリティを誇るのは、彼女の告げることの支離滅裂さや非論理性が、彼女を信じる人々の落ち込んでいる状況の支離滅裂さや非論理性と同質だからである。
「二分心」を持った古代人において、この「不条理なエージェント」の呼び出しを解錠するストレス閾値は現代の統合失調症患者のそれよりずいぶん低かったのではないかとジェインズは推理している。
古代人は正否の決断ができない意思決定機会に出会うたびに強いストレスを感じ、そのストレスが「神々」を呼び出した。
「神々の声」は意思決定できない人々にとっての救済だったのである。
このメカニズムはそのあとも本質的にはあまり変わっていないのではないかと私は思う。
井上雄彦の『バガボンド』で一乗下り松での吉岡一門との死闘のさなかにあって、武蔵の頭の中で柳生石舟齋と宝蔵院胤栄が対話を始める。
七十人の敵を前にどのようにふるまうのがもっとも適切であるのかという答えの出ない問いに苦しんでいた武蔵はここでこの二柱の「武神」(と彼が信じるもの)に自我の席を明け渡して、彼らが告げる「なんだか意味のわからないことば」に聴き従うことで、自己決定の呪縛から解き放たれる。
さきほどの運転の比喩で言えば、「自分はどういうふうに車を運転するのがもっとも適切であるのか、手はどう動かすべきか、足はどう踏むべきか、眼はどこにつけるべきか・・・」ということを主題的に意識しているドライバーと、横から話しかけてくるよく意味のわからない(けれどたいへん重要な情報を含んでいるらしい)謎の言葉を聴き取るのに夢中で、無意識に運転しているドライバーとではどちらの身体操作がスムーズか、ということである。
ジュリアン・ジェインズはたいへん刺激的な思想家であるが、私が個人的にいちばん面白いなと思ったのは、「自我」の起源的形態が「神々」だというアイディアである。
私はこの考想はきわめて生産的なものだと思う。
だから、「自分探し」が「聖杯探し」とまったく同一の神話的構造をもっているのも当然なのである(地の果てまで行ってもやっぱり聖杯はみつからないという結論まで含めて)。
私につねにもっとも適切な命令を下す「私だけの神の声」を現代人は「ほんとうの自分」というふうに術語化しているわけである。
自己利益の追求とか自己実現とか自己決定とかいうのは、要するに「『ほんとうの私』という名の神」に盲目的に聴従せよと説く新手の宗教なのである。
なるほど。
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