突発性仏文学者症候群

2008-01-15 mardi

『困難な自由』の未訳箇所の翻訳が終わった。
国文社に送信。
『困難な自由』は既報のとおり76年版を7年かけて全訳を終えたのであるが、翻訳権を取り忘れており、発売できなくなってしまった。
あら残念でした・・・とあきらめていたのであるが、稀覯本である1963年版が発見され、ここには76年版には未収録の論文がいくつか収録されていたので、これを底本に訳しなおしたのである。
わずかな頁数の仕事だったのだが、去年はまったく時間が取れず、年明けに角川新書のデータを送り終わったあとにできた奇跡的な空白の間に訳し終えたのである。
やれやれ。
いずれ76年版がどこかの出版社から出るはずで、収録論文の大半は重複するので、今76年版を一生懸命訳している訳者の方にはいささか申し訳ないのだが、原理的には翻訳はいくつか種類があって、読者に選択権がある方がよいと私は思っている。

続いてカミュ論を書く。
これは鷲田先生が編集している『哲学の歴史』の現代思想編のコラム記事。
他ならぬ鷲田先生から頼まれたお仕事であるから、きりりと表情を改めて、まじめに書く。
ひさしぶりに「学者らしい」仕事をしている2008年の初春である。
それにしても20世紀を代表する哲学者リストの中にアルベール・カミュの名がないことが私にはいささか悲しく思われた。
カミュの『異邦人』は20世紀でもっとも読まれたフランス語の書籍である。
15年前ほどに調べたとき、『異邦人』のフランスでの発行部数は650万部。これはダントツの一位であった。
二位は同じカミュの『ペスト』。
ミステリーとかトレンディ恋愛小説とか映画の原作本とかベストセラーはいくらもあるわけだが、それらをぶっちぎっての堂々のオールタイムベストワンである。
翻訳を含めて考えれば、アルベール・カミュは間違いなく「世界でその著作がもっとも読まれている哲学者」である。
にもかかわらず、その生前からアルベール・カミュの哲学史的な業績についての評価はきわめて低かった。
ほとんど「無視」されていたというに近い。
とりわけジャン=ポール・サルトルの『反抗的人間』に対する仮借ない筆誅ののち、パリの知識人サークルでは「カミュ」の名はほとんど禁句となっていた。
それから半世紀経った。
私はサルトルの著作のうちで今日でもまだリーダブルなものはきわめて少ないと思う。そのあまりにクリアカットでオプティミスティックな歴史主義から人間についての深い理解を得ることは(少なくとも私には)ほとんど不可能である。
しかし、サルトルは哲学史の「上席」に定位置を占め、カミュには哲学者たちはほとんど関心を示さない。
この「玄人たち」による評価の低さと「一般読者」からの支持の対比は村上春樹のケースに何となく似ているような気がする。
カミュが哲学史家たちに不人気なのは、その中心にある考想が出自不明の「なんだかよくわからない」ものだからである(これも村上春樹といっしょだ)。
平たく言えば、それは一人の人間のリアルな「身体実感」である。
身体実感は、ワイルドでレアな「生もの」である。
西欧の哲学は「生もの」を嫌う。
でも、私はこの言葉になりにくい身体実感を哲学の言語に載せようとしたカミュの野心的な「情報化」の企図を高く評価するのである。
カミュの著作でもっとも評価されていないのは『反抗的人間』である。
これははっきり言ってタイトルの訳語が適切ではないせいもある。
Homme révolté は「反抗的人間」というようなわかりやすい存在ではない。
いちばん近い訳語を当てれば「むかついている男」である。
フランス語の動詞 se révolter には「反乱する、反抗する」という意味もあるけれど、「気分が悪い、むかむかする」という意味もある。そして、カミュがその著作で繰り返し言及したのはこの「なんだかわかんないけど気分が悪い」という心的状態の方なのである。
例えば、自分の掲げている政治理論が正しいと思っていて、相手に絶対的な非があると思っていても、「じゃあ、こいつ殺しちゃおう」という局面になると、「ちょっと待ってね」と腰が引けるということがある。
別に宗教的理由から「どのような極悪人にも慈悲をかけねばならない」と思っているからではない(それならすっきりしている)。
そうではなくて、たしかにすげー悪いやつで、いくら殺しても殺したりないくらい憎いのだけれど、でも殺せない・・・という「抵抗」が不意に訪れることがある。
カミュの言う「反抗的人間」は、この「抵抗」に直面して、どうしていいかわからないまま状況が切迫しているために決断せざるを得ない人間のことである。
「反抗する」のであれば話は簡単だ。
反抗する相手がいて、こちらに反抗する大義名分があるんだから。
でも、カミュの「むかついている男」はそうではないのである。
何にむかついているのか自分でもよくわからないのである。
それをすることが理屈では正しいとわかっているし、みんなもそうしろと口々に言うのだけれど、「どうもその気になれない」。あるいは、「そういうこと」をしてはいけないと自分でも思い、みんなもそう言うのだけれど、「そういうこと」がしたくてたまらない・・・という根源的な乖離感が「むかつき」を構成している。
いわば自分の脳が下した正否の判断と身体の判断のあいだに合意形成ができない状態である。
そしてこのようなときには「身体の声を聴いた方がいい」とカミュは考えているのである。
でも、どうして「身体の声を聴いた方がいい」のかの理屈を立てるためには脳の協力をお願いしないといけない。
つまり脳に向かって「脳なんかなくても大丈夫という説を考えてくれませんか」とお願いしているわけである。
書くことがわかりにくくなるのも当たり前である。
「はたして人は正否の判断基準がないときにもなお適切な判断を下すことができるか?」
そうカミュは問うているのである。
あるいは「正しい答えのない問いを正しく立てることは可能か?」
そう問うているのである。
これは西欧哲学の専門家たちにすれば、とりあげようのない問いであろうけれども、私の眼にはきわめて武道的な、あるいは禅的な問いのように思われるのである。
そのことについて書いてみたいと思っている。
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