情報と情報化

2008-01-13 dimanche

「メディアと知」というタイトルの授業をしている。
メディア・コミュニケーション副専攻の学生15名対象の半期科目で、私の後の半年は江弘毅さん、そのあとの半年は関川夏央さんと続く。
一年半にわたってこんなに濃いメンバーにさらされたら、学生たちはどうなってしまうのであろうか。想像するのがコワイ(そればかりか、学生たちのうちの何人かは四月から内田ゼミである。彼女たちの繊細な知性はこのシュトルム・ウント・ドラングに耐えられるであろうか)。
先回のお題は「メディアと身体」。
同一タイトルで三人の学生に10分ずつのプレゼンテーションをしてもらう。
これが意外に面白かった。
それは同一テーマについて短いプレゼンをするだけであるにもかかわらず、「抵抗」が働く箇所が三人に共通していたからである。
「抵抗」というのはそこに「直視したくない/直視してはならない何かがある」ということである。
人はみな何かから目を背ける。でも、自分が何かから目を背けているという当の事実は主題化されない。
素人はその「何か」に意味があると考える。その「何か」を暴露すれば、「抵抗」の理由が判明し、「抑圧」による症状は緩解すると考える。
でも、話はそれほどシンプルなものではない。
というのは、もし私たちが「何か」から目を背けるとしたら、それは「そこから目を背けるべき何か」としてすでに認知されていたことになるからである。だが、それが「そこから目を背けるべきもの」として認知されたということは「そこに目を向けた」からできたことである。
これは矛盾している。
目を向けた上で、「これは目を向けない方がいいな」と判断できるような経験は実は「目を背けたくなる経験」ではない。
ほんとうに「目を背けたくなる経験」とは、一度見た上でそう判定されたものではなく、一度も見られていないにもかかわらず、「そこから目を背けなければならないということだけはわかる」ような経験のことである。
ややこしい話ですまない。
例えば、幼児期に精神外傷的事件を経験したが、それがあまりに痛苦な記憶であったので、それが忘却されたという説明がよくなされる。
しかし、フロイトの誘惑理論は「話はそれほどシンプルなものではない」ということを私たちに教えてくれた。
私たちは「私たちが経験していない事件」を抑圧することがあるからである。
ほんとうに深刻な抑圧は「実際には経験していない出来事」にかかわるのではないかと私は考えている。
「目を背ける」という行為だけがあって、「目を背ける対象」がないという事態があるのではないか。
チェシャ猫の「笑い」だけがあって、猫の本体が存在しないというような様態で「抑圧」というのは働いているのではないか。
まだ見ていないものについて「見てもいい/見ちゃだめ」の判断が下せるというのは、やはりある種の「能力」といういうべきであろう。
そのような特異な能力を人間が開発してきたのは、なぜか。
進化論的には理由は一つしかない。
「まだ見ていないものから目を背ける能力を持つこと」が生存戦略上有利だからである。
それは単に「不快な体験を忘却する」ということには尽くされない。
というのは、どう考えても、不快な体験については、そこから目を背けるよりも、その原因を究明し、再発を防ぐ手だてを講じる方が生き延びるためには有利だからである。軽々に目を背けた場合には、同じ不快な経験で繰り返し傷つく可能性がそうでない場合よりも高い。
にもかかわらず「目を背ける」ということがこれほど追求され、「経験していない不快な出来事」からさえも目を背けることができる以上、生存戦略上必要な能力は「不快な出来事から選択的に目を背ける」能力ではなく、実は「不快であるか快であるかがまだ判定できない対象について、快不快を判定できる能力」であるということが推論されるのである。
「不快な出来事と知って、そこから目を背ける」と「いきなり目を背ける」の間には千里の逕庭がある。
「いきなり」目を背けるというのは、「悟性的な判断になじまないもの」に対処するときの仕方である。
「それ」を入力すると判断装置そのものが壊れてしまうようなものについては、入力する前にはじき飛ばしてしまうのである。
これを禅家では「石火の機」とか「啐啄の機」呼ぶ。
入力と出力の間に「間髪を容れない」ということである。
学生たちがある種のトピックに対して一斉に驚くべき無関心を示すのを私は最初「知的怠慢」の徴候だろうと思っていたけれど、これは私の不明を恥じなければならない。
あんなにすばやく、ほとんど間髪を容れずにある種の論件から目を背けることができるというのは、これはすでに「芸」の域に達しているとみるべきであろう。
話が長くなってすまない。
学生たちが「メディアと身体」という論件を与えられて、何から目を逸らしたかという話をしていたのであった。
それは「身体」である。
「メディアと身体」というのはたしかに論じることのむずかしい論件ではあるけれど、3人の学生が誰一人メディアと身体のあいだの二項対立的な関係について言及しなかったことに私は一驚を喫したのである。
簡単に図式化してしまえば、メディアに載っているものは情報である。
情報は「生のもの」ではない。それはすでに「調理されたもの」である。
そして「生のもの」を「調理されたもの」に変換するプロセスのことを「情報化」と呼ぶ。
人間の身体なのである。
脳はすでに「食材」に加工された情報を巧みに調理することはできるけれど、生きて動いているものを殺して、皮を剥いで、毛をむしって、不可食部位を削り取って、細切れにするというようなワイルドなプロセスには関与できない。
学生たちに「メディアと身体」という論件を振ったときに、私が漠然と考えていたのは、「情報と情報化」のレベル差ということを学生はどう考えているだろうかということであった。
結論は、学生たちは「情報化」プロセスからは「間髪を容れずに」目をそらすべきことを刷り込まれていたということである。
なるほど、と私は深く得心したのである。
自分の中で情報化プロセスが起動することを彼女たちは禁圧しているのである。
そして、私がさきにくどくど書いてきたのは、「情報化プロセスが起動することを禁圧できる」というのは、すでに情報化のひとつのありようだ、ということである。
「情報化プロセスを起動してはならない」というのはすでに情報化が行われているということである(だって、当事者たちは「情報化」というのが何であるかを「まだ知らない」にもかかわらず、「間髪を容れず」にすでに動き始めているからである)。
繰り返し述べているように、無知というのは知性のひとつの様態である。
知性のある部分だけを選択的に活性化して、他の部分を停滞させておくという知性の活動のことを「無知」と言うのである。
無知は単なる怠慢や停止ではない。
だから、わずかな入力システムの変化で、「停滞」していた部分にいきなり動力が伝わるということが起きる。
教育というのは、「眠ってる子どもを起こす」ことではなく、「ぐるぐる走り回っている子どもの背中を軽く押して、ドアの外に押し出してやる」ことに近いのだろうと思う。
わかりにくい話ですまない。
いずれもう少しわかりやすいかたちでこの話を続けることにする。
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