恐怖のシンクロニシティ

2008-01-05 samedi

鈴木晶先生が年末にたいへん興味深いことを書かれていた。
ゲームとルールをめぐる考察である。
http://www.shosbar.com/
少し長いけれど、引用させていただくことにする。ある小説に出てくる「I Pass the Scissors」(はさみを渡す)というゲームの話である。

ハサミを使う。数人が輪になってすわり、ハサミを次々に隣の人にわたす、というだけのゲームである。ハサミを受け取った人は、ハサミを開いて、あるいは閉じて、次の人に渡す。そのときに「私はハサミを開いて渡す(これを「クロス」と呼ぶ。ハサミを開くと、十字架の形になるからだ)」あるいは「閉じて渡す」と宣言する。問題は、その「開いて」と「閉じて」は、ハサミが開いているか閉じているかとは関係がないということだ。初心者はルールを知らないから、ハサミを開いて隣りに渡し、「私はハサミを開いて渡す」と宣言し、まわりから「まちがい!」と指摘されるのである。つまり、初心者は、何が「開いて」であり何が「閉じて」であるかについてのルールを発見しなければならないのである。
 ネタバレになるが、ハサミが開いているか閉じているかは重要ではなく、ハサミを渡すときに脚を開いているか閉じているかによるのだ。小説の最後のほうで、このルールをすぐに見抜いてしまう青年が出てくるが、それまでは、新たにこのゲームに加わった人は残らず、最後までルールがわからない。
 本来、ゲームというのは参加者全員がルールを知っていることを前提にしているのであるから、この「ハサミを渡す」というゲームは、本来のゲームではない。ルールを知っている者たちが、ルールを知らない者をからかうための遊びである。好意的にいえば、ルールを知らない者がいかにそのルールを発見できるかを見守る遊びである。
 だからこのゲームは、その場にいるほとんど全員がルールを知っていて、それよりも少数の人がルールを知らない場合にのみ、おこなわれる。全員がルールを知っていたら、意味がないし、反対に、ひとりだけルールを知っている場合は、ゲームができないわけではないが、そのルールを知っているひとりがみんなからの敵意の的になる。
 すでにおわかりのように、これはある小さな共同体が侵入者をからかい、屈辱感を与え、排除するためのゲームである。
 「メンソレータム」というのも、これとまったく同じ意図にもとづくゲームだった。ひとりが「タム・タム・タム・タム・メンソレー・タム」と言いながら、右手の人差し指で、開いた左手の指先を、小指から順番にさわっていき、「メンソレー」の部分で、人差し指と親指の谷間をなぞり、最後に親指の先にさわって、「タム」で閉める。そして相手に「やってごらん」と言い、相手(初心者)に反復させる。相手は忠実に反復するのだが、「だめ」と言われてしまう。何度やっても、「だめ」と言われる。そこで「親」が、別のだれかにやってみさせる。その別の誰かはルールを知っているので、ちゃんとできる。初心者は、どうして自分のがだめで、別の誰かのが合っているのか、その理由がわからない。
 詳しくは覚えていないが、たしか、「タム」と言った後に、腕を組んで「やってごらん」と言えば、「正解」なのだった。
 つまり、どちらのゲームも、「ゲームの範囲」がどこまでかをめぐるトリックなのである。初心者は必死に規則を見つけ出そうとする。だが「正解」は、その規則が適用される範囲、つまりゲームの範囲の外にある。ルールを知っている者は、ゲームの範囲に関して、初心者にまず誤解を与える。前者であればハサミ、後者であれば指でなぞるという行為が「ゲームの範囲」であると思い込ませる。だから、そのゲームの範囲の外に、本来のゲームの範囲があることを発見すれ ば、初心者の勝ちなのである。
 これはスラヴォイ・ジジェクが挙げている例に似ている。ジジェクは最新著『ラカンはこう読め!』のなかで、こんな例を挙げている。
「窃盗を疑われている労働者をめぐる古い小話を思いだそう。毎夕、工場から帰るとき、警備員たちは彼が押している手押し車を丹念に調べたが、何も見つからなかった。手押し車はいつでも空だった。ついに警備員たちは突き止めた。彼が盗んでいたのは手押し車だったのだ」
 ジジェクがこの例を挙げたのは、コミュニケーションの再帰的機能について説明するためである。「これはコミュニケーションですよ」というためのコミュニケーションのことである。ヤコブソンのいう「交感的言語使用」である。「いい天気だねえ」「そうですねえ」
 ゲームに話を戻すと、先に、このゲームは共同体から侵入者を排除するためのものだと述べた。先に触れたように、ヴァインの『煙突掃除の少年』では、このルールをすぐに見抜いてしまう青年が登場する。ルールを見抜いた「初心者」は、その共同体に喜んで迎えられるのだろうか。ルールがばれた時点で、そのルールのくだらなさ、というか「悪意」があらわになる。要するに、ルールが適用される範囲をめぐる一種のトリックだったのだということがばれる。知力をふりしぼってルールの規則を改名しようとしていた「侵入者」は、拍子抜けして、あるいは、ばかばかしさに激高して、その共同体を見捨てることになるであろう。い や、すんなりとその共同体に加わり、新たな「餌物」を探すのかもしれない。(…)
 じつは、「場の空気が読めない」という最近流行の表現をきいて、このゲームのことを思い出したのである。
 KYが「空気が読めない」の意味だと知ったのは1年ほど前。教えてくれたのは学生(大学生)だったが、彼らは「最近の高校生はこんな略字を使うんだって。もうついていけないね」と話していた。
 「場の空気を読む」という、本来は「おとな」の言葉が、高校生の間で流行しているという事実にまず驚いた。というか、気持ちがわるかった。
 次に、KYが「空気を読む」とか「空気を読め」という意味ではなく、「空気が読めない」という否定形の略だということに、いやな気がした。本来、この表現は「空気を読め」という「心得」であろう。それに対して、「空気が読めない」というのは、「排除」の表現である。排除に対象にたいするレッテルである。
 いうまでもないが、本来、場の空気を読むというのはひじょうに重要なことである。空気の読めない人は「困ったもん」である。
 だが、その「空気」の中身がひじょうに下らないものだとしたら? 先に挙げたゲームのように、下らない中身によって、たんに侵入者を排除しようとしているだけだとしたら?
 といったことを考えると、高校生がこんな表現を多用していると聞いて、いい気はしない。
 空気が読めないのは困るが、ちゃんと空気を読み取ったうえで、あえてその空気に亀裂を入れることも、時として必要になる。いや、あまりに素朴で純真なために空気が読めないということも多い。が、そういう空気の読めない素朴な視点が、その空気の邪悪さ、あるいはくだらなさを暴露することがある。アンデルセンの「はだかの王様」を思い出してみればいい。「空気が読めない」というレッテルは、いじめの道具としか思えないのである。

ここまでが鈴木先生からの引用である。
実に面白い話である。
奇しくも、この少し前に平川くんも違う文脈だけれど「空気が読めない」という物言いの排他性について言及していた。これも引用しておく。
http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/

KY なる言葉が流行しているらしい。「空気が読めない」の頭文字だそうである。夜郎自大な政治家を揶揄する場合にも使われるし、仲間うちの飲み会などでも使われる。仲間内で使われるときは、異分子排斥の合言葉のような棘のある意地の悪いニュアンスを伴っている。(確かに世界は自分のためにあると思っている場の読めないやつはいる)。しかし、これが流行語になるということに対して、私は違和感を持つ。文明批評をするつもりはないが、私はこの流行語には、少なからず当今の批評精神の劣化を感じる。そこには「空気」という言葉で表現される「仲間意識」そのものが持つ脆弱性への批評がすっぽりと欠落しているから である。別の言葉で言えば付和雷同と、他罰的な言葉遣いが、若い人たちの間に瀰漫してきている。自分が KY の同類でないことを証明するために、彼/彼女らはますます仲間内の背後から石を投げる。
 いや、こんなしゃっちょこばった話をしたいわけではなかった。先日、神田茜の講談をまとめて聞いた。そのときに、ああ、これは「空気」を読みたくて焦れば焦るほど「空気」を乱してしまう女の話なんだと思ったのである。さらに言えば、彼女の十八番である「切ないおんなの嘆き節」とは、「空気が読める」「読めない」といった風潮そのものを相対化し、笑いの中に溶解させてしまう不思議な薬効を持っている。そう、神田茜とは、全国の KY たちに向かって、市井の片隅からエールを送り続けてきたのである。
 まいったな。こんな固い話をしたいわけじゃない。しかし、彼女が意識的にか、無意識的にか加担している「だめおんな」「からまわりなやつ」「引っ込み思案」「口べた」たちをひとつの時代がどのように遇してきたのかということについて語ろうとすると、どうしても批評的な語り口になってしまう。つまり、彼女が照準している世界は、正面切って論ずれば、結構ヘヴィな社会的な課題でもあるということである。
 神田茜は、もっとずっとうまくやっている。憤怒もなければ、韜晦もない。ただ、自分こそが、その KY のひとりであり、KY だって存在する意味があり、けっこう愛おしい生き物であることを物語の形式で語る。もちろん、その物語は、大声よりはつぶやき、怒りよりは笑い、論理よりは心持ちといった微細な繊維で編まれている。彼女の処女小説『フェロモン』には、そんなせつないおんなが、ふとした街角や、仕事場、家庭の団欒、学校の教室に姿を現す。彼女たちは、世知辛い渡世を、目立たぬように、ひっそりと渡っているが、それでも時々我知らず表舞台に引きずり出されてしまう。小説家、神田茜は、彼女たちの違和は、本当は誰もが持っていたけれど、誰もが忘れ去ってしまった根源的な恥じらいや、優しさや、慎み深さであることを、彼女たちに代わって告げている。KY という言葉には、味方なしというニュアンスが含まれているが、神田茜は、せつないおんなたちの味方として、いつも泪の半歩手前の場所で踏みとどまって耐えている。そこに、何がある? たぶん、「すこしばかりほろ苦いが、結構しぶとい笑いのツボがある」と彼女は言っている。

というのが平川くんの KY 論である。
そして、これとはちょっと切り口が違うけれど、今日読んだ町山さんのブログにはこんなことが書いてあった。ルース・レンデルに Judgment in Stone という小説について言及したものである。
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/

この本は、ミステリであるにもかかわらず、いきなり書き出しでこんな風に犯人と動機を割っていることで有名だ。

ユーニス・パーチマンがカヴァディール一家を殺したのは、読み書きができなかったためである。

 主人公ユーニスは中年過ぎた家政婦さんで、金持ちのカヴァデイール家に雇われるが、文盲であることを隠していた。
 そして彼女は、必死の努力と知恵で、文字が読めるように振舞うのだ。
「そこまで苦労するなら読み書き習えばいいじゃん!」と思ってしまうが、コンプレックスと裏腹に妙なプライドがあるユーニスは無学である事実をひたすら隠し、カンニング的方法で切り抜けることばかり巧みになっている。
 ところが、そんな綱渡りにも破局が訪れる。
 ユーニスは主人が書いたメモが理解できずに蘭の花を枯らしてしまったり、いくつかの失敗を重ね、それをごまかしていくうちにホコロビは雪だるま式に大きくなり、とうとう家族の一人に文盲であることを知られてしまう。それがカヴァディール家皆殺しへと発展していく……。

町山さんの話はここまで。
これも「怖い KY 論」として読むことができる(とりあえず私はそうやって読んだ)。
ところで私がこの三人のブログから引用したのは、他でもない、この三人のブログ(と小田嶋さんのブログ)が私の「日参ブログ」だからなのであるが、それより何よりびっくりしたのは、鈴木先生が紹介していた「小説」がルース・レンデルの Chimneysweeper’s Boy だったからなのである。
この方々はいったい「どんな空気」を読んでいらっしゃるのであろう・・・
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