お正月の恒例行事の仕上げは家族三人で箱根で湯治。
露天風呂に浸かりながら、「棚からぼた餅の食べ方」について鳩首協議する。
家族の中で「ぼた餅の食べ方」についてある程度修練を積んでいるのは兄上だけなので、残る二人はそのレシピを拝聴するかたちになる。
一気に食うと腹をこわすし、ちびちび食うとかびが生えるし、自慢げに食うと妬まれるし、こそこそ食うと下品に堕す。
なかなか「ぼた餅道」も奥が深い。
吉田健一や白洲正子が書いているのかも知れないが、寡聞にして「ぼた餅道」奥義書のあることを知らない。
たいへんよい機会であるので、さらに修練を重ねて、いずれ「ぼた餅道精髄」「棚からぼた餅、瓢箪から大吟醸」などというタイトルの本を書いてみたいと思う。
そんな斯道新参未熟の私であるが、あたかもこのぼた餅あることを予見していたかのような予言的な文章を年末に書いていた。
題して「転んでもただでは起きない症候群」。
これは「私の研究」というタイトルで寄稿依頼されたものである。
以下に引用しておく。
率直に申し上げて、今の私には「研究時間」というものは事実上存在しない。
研究したいテーマはいくつもあり、調べてみたい資料もいくらもあるけれど、時間がないので一つとして実現しない。
教務部長に選ばれたときに、しばらくは研究に集中する時間はとれないだろうと覚悟はしていたが、「研究できない状態」が3年続くと(まだ任期はあと1年残っている)、さすがに研究者を名乗ることに対して疚しさを覚えるようになってきた。
メディアに寄稿すると、専門分野のところに「フランス現代思想」とか「哲学」とか印字されていることがあるが、これは今の私には、ほとんど職名詐称に近い。
しかし、そんな私にもなけなしの時間とエネルギーを投じて「研究」していることが一つだけある。
それは「高等教育の現場の疲弊の現状とその構造」である。
これについては私自身がインフォーマントであり、日々の会議やネゴやペーパーワークがそのまま研究の第一次資料である。
先日、阪大の鷲田清一学長とお会いしてお話しする機会があったが、そのときも話題の半分くらいは「管理職はほんと疲れますよね問題」であり、幸いにもその原因の解明と対処法について、鷲田先生と有意義な意見交換ができたのである。
というわけで、私はそれまでの専門分野の研究時間を失った代償として、「大学管理職教員の疲弊」という思いがけない分野の専門家となり、メディアからの出稿依頼や講演演目に対しても、「教育再生会議はいかに教育現場について無知であるか」とか「評価活動が大学教育にもたらす弊害について」とか「ピア・ストレス」(同僚の存在それ自体がストレス要因となる症候群)といった論件について生々しくもリアルなご報告を行ことができる研究者になったのである。
はい、ここまで。
先般、研究者である卒業生から就職相談を受けた。
研究を続けたいのであるが、今度応募しようとしているポストは研究プロパーの職ではない。どうしましょう、というものである。
それに対して私は次のように答えた。
研究者というのは、実体的なものではなくてマインドのことである。研究室があり、研究予算がつき、研究時間がなければ研究ができないという人間はもともと研究者に向いていないのである。
研究者マインドのある人間は眼に触れるありとあらゆるものについて、ただちにその成り立ち、それが出現してきた歴史的文脈、なぜそれは「そのようなしかたで」われわれの前に現前しており、「そのようではないしかたで」は現前しないのかなどについて深く後戻りのきかない考察のうちに踏み入ってしまって忘我の境をさまよってしまうのである。
そういう人間が語の本来の意味における「研究者」であると私は思う。
研究室があって、研究予算がついて、研究時間が確保されないと探究心がアクティヴェイトしないというような人間はもともと研究に向いていないので、ほかの仕事を探すほうがよろしいであろう。
と書いたら、だいぶ元気になったようである。
以前にもご紹介したが、ノーバート・ウィナーは二六時中研究のことばかり考えていて、それ以外のことにはほとんど脳の領域をセーブしなかった。
ウィナー一家が引越しをしたことがあった。
もちろん、ウィナーはつねに上の空であったので、一家が引越しをした事実そのものをすぐに忘れ、大学の仕事が終わるとまっすぐに無人の旧居に戻り、ドアをとんとんとノックして「ただいま!」と告げた。
もちろん何の返事もない。
しかたがないので通りかかった女の子に「ねえ、ウィナーさんのうちの人はいないのかな?」と訊ねた。すると女の子はこう答えた。
「このうちの人たちは昨日引越ししたのよ。でも、大丈夫。私、このうちの引越し先知っているからそこまでつれてってあげるわ。パパ。」
こういう種類の集中力が研究者には絶対に必要である。
だから、研究者向きかどうかはこの「ノーバート・ウィナー度」を基準に算定するのが適切であると私は考えている。
私は自慢じゃないけど、NW度(めんどくさいから略すね)は3級というところである(人文系の大学教授としてはわりといい線である)。
夏休みが終わるとだいたいゼミ生の名前を半分がとこ忘れているというのが3級の目安である。
卒業して1年経つと、誰がゼミ生だったか、あらかた忘れていて、道で挨拶されても「どちらさまでしたか?」とぼんやり訊ねるようになると晴れて初段。
本学の同僚では、I教授がさすが一流の研究者だけあって際立ってNW度が高い。
彼は西宮北口から乗った電車で学生に話しかけられ、そのまま門戸厄神の駅から大学まで話し続けた。坂を上り、JD館の研究室に向かったが学生はいっかな離れる気配がない。ついに研究室のドアの前まで来たが、くだんの学生はそのままついて入ろうとする。先生、彼女を制して、「あ、ごめんね。これからゼミなんだ」と言った。学生、答えて曰く。「私ゼミ生なんですけど・・・」
現役のゼミ生の顔を忘れるというほどにスペクタキュラーな事例を私は他に知らない。この偉業ゆえに私はI先生にNW道(なんでも道にしちゃうのね、オレ日本人だから)二段を允可することにしたのである(いつのまにか家元になっている)。
何をふざけたことを言う。私のNW度はそのようなレベルではないよ、という「上の空」自慢の方がおられれば(あまたおられるであろう)是非「全国NW度検定」にアプライしていただきたいと思う。
NW度検定では、ウワノソラー5級から8段までの段級があり、3段で「NW道師範代」、5段になったら「NW道師範」の免状を発行する。
検定料・登録料はちょっと高いですけど、教員公募書類の「特技」の欄に「財団法人日本ノーバート・ウィナー協会認定ウワノソラー初段」と書けることを考えれば安いものである。
--------
(2008-01-05 15:17)