ゲームと知性

2008-01-06 dimanche

というわけで昨日は KY 症候群についての同時代の賢者たちの知見をご紹介したわけだけれど、読むにつけ、これはなかなか哲学的な拡がりをもった主題であるということが私にもわかってきた。
鈴木晶先生が書かれている中で私がいちばん興味深かったのは次の箇所である。

どちらのゲームも、「ゲームの範囲」がどこまでかをめぐるトリックなのである。初心者は必死に規則を見つけ出そうとする。だが「正解」は、その規則が適用される範囲、つまりゲームの範囲の外にある。

この種のゲームは無数に存在する。
けれどもこのようなゲームが好まれる集団には共通性がある。
一定期間メンバーが固定されており、そのメンバーたちに斉一的なふるまいが強要されるような集団だということである。
例えば学校。
学校はメンバーが固定されており、ふるまいに斉一性がある。
そのせいで、学校の生徒たちは自分たちの集団に「外部」があるということをふだんは意識させられない。
ごくトリヴィアルな集団内部的差異(成績がどうであるとか、スカートの丈がどうであるとか)に対して過剰にコンシャスであるせいで、「自分たちがそこに決定的な差異があると思っている以外のところで差異づけがなされている」という可能性を吟味する能力が損なわれているのである。
私がいちばん最近見たこのゲームは『気まぐれコンセプト』においてであるけれど、これはご存じのとおり広告業界の話であり、ここはトリヴィアルな差異の検出に敏感であることで飯を食っているような業界であるから、この種のゲームが繰り返し流行する理由はよくわかる。
だから、「私のような人間」のいる場所ではこういうゲームは絶対に流行らない。
こういうゲームは「親疎の差があるだけでメンバーが固定されていて、他にすることがない」ときにしか始まらないからである。
そして、私のような人間がいる場所では、絶えず人が出入りしており、何かさわがしいことが行われているので、そこで「ねえ、ゲームしない?」というような発言がさしはさまれるのはかなり希有のことである。
というのは、私のような人間が主宰する場では、「ゲーム」というのは、「今私がやっている当のことより面白い」ということが高い確率で保障されている場合以外には絶対に開始されないという「ゲーム外的規則」に支配されているからである。
「ゲーム外規則がゲームの規則に優先する場」においては、「ゲームの規則の範囲がどこまでかを見誤るゲーム」はそもそも始まることができない。
もちろん、何かのマチガイで私が「I pass the scissors」のようなゲームに巻き込まれる可能性は絶無ではない。
でも、たぶんそのときも私はゲームが始まって10秒くらいで「え〜、なんだかわかんねーからもうやめよーぜ。オレ的につまんないから」とさっさと席を立って「みんなを仲間はずれにして」しまうであろう。
つまり、このゲームは集団力学を応用した心理テストなのである。
これはその人が集団とどうかかわっているかを見るためのゲームなのである。
このゲームのルールはだからかなり逆説的である。
「集団のインサイダーでありたい」という欲望が強ければ強い人ほどこのゲームに簡単に負ける。
自分は自分がテンポラリーに帰属しているある集団のルール(正確に言えば、この集団では何を以て記号として認知しているのかの規則)をまだよくわかっていないという控えめな立場をとっている人の方がゲームのルールを見当てる確率は高い。
そういう点ではなかなか複雑に構造化されたゲームである。
ポウが『盗まれた手紙』で紹介している「地図の地名あてクイズ」に少し似ている。
これは地図のなかの任意の地名を言って、相手にそれがどこにあるか当てさせるゲームである。町でも、河でも、帝国の名でも何でもかまわない。ゲームの素人は、相手を困らせようと思って、いちばん細かい字で書かれた地名を選ぶ。ところがある程度慣れてくると、本当に見つけにくい地名は、小さく印字してあるものではなく、地図の端から端までひろがっているようなものだということがわかってくる。そのような文字は「極端にめだつせいでかえって見逃されてしまう」からである。
同じ指摘をオーギュスト・デュパンは『モルグ街の殺人』でも繰り返す。無能な警官を評して、デュパンはこう言う。

「あいつは、対象をあんまり近くからみつめるせいで、よく見えなくなっているんですよ。(…) つまり深く考えすぎるというわけですよ。真理はかならずしも、井戸の底にあるわけじゃない。それに、真理よりももっと大切な知識ということになると、こいつは常に表面的なものだとぼくは信じるな。」(『モルグ街の殺人』)

おそらく I pass the scissors でもゲームの素人は、途中からプレイヤーは「はさみ」にどんなふうに指を添えているかとか、「はさみ」の向きはどちらであるかとか、そういう「はさみの開閉」よりもさらにトリヴィアルな差異の方に目を向けたはずである。
記号が「はさみ」よりももっと大きいものの開閉にかかわっているという発想に切り替えること(つまりゲームの範囲を広げること)はその反対よりもずっと困難なのである。
「真理よりももっと大切な知識」はつねに表面的である。
よい言葉である。
「真理よりももっと大切な知識」とは何か。
それは「私は何を以て『真偽』を判定しているのか。その基準の正当性を私自身は基礎づけることができるか?」という問い、つまり自分の知性の「不調」についての知識のことである。
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