冬休み二日目。
順調に仕事をしている。
『女は何を欲望するか』を新書化(文庫化と書いたけれど、それはマチガイ)に際して、大胆な加筆訂正を行っているのである。
あまりに大胆にリライトしているので、もはや原著の痕跡をとどめぬほどである。
であるからこれから先私の著書からの引用をなされる場合は、同タイトルの著書であっても、内容が全然違う(場合によっては言っていることが逆さま)ということがしばしばあるのでご留意願いたいと思う。
『女は何を欲望するか』は2002年の刊行であり、すでに6年近く前。そこに収録された論考にはそれよりさらに数年前に書かれたものもあり、ものによっては10年を閲している。
そのようなものを読んで、私が「なるほどなるほど、ご説の通りであるよ」と悦に入っていたのでは、この10年間に私が人間的成長というものをまるで遂げていないということになる。
やはりここは、一行ごとに「ああ、恥ずかしいなあ。なんで、こんな愚かなことを得々として書いていたのだろう。ああ、恥ずかしい」と消え入るというのがつきづきしいのである。
というわけで、一気に全面改稿ということになったので、さっぱり仕事が捗らない(とすでに「順調に仕事をしている」という前言と齟齬している)。
能を見に行く時間になったので、腰を上げて、大阪能楽会館へ『竹生島』を見に行く。
電車の中でジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』を読む。
はじめて読む本のはずであるが、本を広げると、そこらじゅうに赤線が引いてあって「ジュディス、キミは賢い!」などと感嘆符つきのコメントが書かれている。
ところが、そのようにほとんど全編にわたってがしがしと赤線を引いて読んだはずのこの著作の内容を私はまったく記憶していなかったのである。(だから読みながら、電車の中でまた赤線の二度引きをした)。
内容を記憶していないどころか、私は『ジェンダー・トラブル』を二度買いしているのである。
感嘆して読んだはずの本を二度買いするということは、「読んだ記憶を失っていた」ということである。
これはどういうことであろうか。
かつてナバちゃんから、「ウチダさんのフェミニズム論はジュディス・バトラーの言っていることとかなり近いですよね」というコメントを頂いたことがある。
それ誰?というので、たしか『ジェンダー・トラブル』を買い求めたら、これが二度買いだったのである。
つまり、こういうことである。
私はジュディス・バトラー(最初の本ね)を読み、これに深く影響を受けたのであるが、そのことをころっと忘れて、「それ、誰?」状態になっていたということである。
こういう選択的な記憶欠損はよく起こる。
むろん、ある種の抑圧が働いているのである。
フロイトが教えているように、人間は「自分にとってつごうの悪いこと」は記憶することができない。
チャールズ・ダーウィンは自説にとって「つごうの悪い」事例に出会った場合には、これを必ずノートに記録していたという。かの天才の記憶力をしても、「自分にとってつごうの悪いこと」は記憶し続けることが困難であったからである。
「自分にとってつごうの悪いこと」はつねに念頭に置かれてあるより、抑圧されていた方がたしかに私たちにとって生存戦略上には有利である。
ただ、それは「つごうの悪いこと」は忘れてしまって、ハッピー・ゴー・ラッキー、ということではない。
逆である。
「つごうの悪いこと」が絶えず念頭にあると、私たちはたぶんそれを「否定する」合理的論拠を探し始める。
つまり、私自身の存在と、「つごうの悪いこと」のあいだに敵対的・ゼロサム的な関係が生じてしまうのである。
このこしゃくな反証事例をなんとかしていてこましたろというふうに知性が攻撃的に機能をし始める。
これはあまりよろしいことではない。
それくらいなら「忘れる」方がずっと宥和的である。
「そんなものがあることを忘れられた反証事例」はいつのまにか私の中に入り込んでしまう。そして、その事例をも説明できるようなより包括的な仮説への書き換えへと無意識のうちに私を誘う。
たぶんそういうことではないかと思う。
つまり、バトラーを読んで私は「おぬし、なかなかやるな」と思ったのである。
そして、手持ちの論理装置ではバトラーの攻略がむずかしいと思ったので、とりあえず「忘れる」ことにしたのである。
でも、もちろん忘れたわけではなく、忘れることでバトラーの理論を血肉化する時間を稼いでいたのである(こういうせこい立ち回り方について、私に勝てる人は少ない)。
だから、ある日さらさらとフェミニズム批判を書き始めたとき、私のワーディングは「ほとんどバトラーそっくり」になっていたのである。
おそらくそういうことであろう。
私はフェミニズムが支配的なイデオロギーになることに対しては一貫して反対してきたけれど、ショシャーナ・フェルマンの知性にはつねに敬意を払ってきた。
そのフェルマンの隣にバトラーの名前も記しておきたいと思う。
この二人をジュディス・フェッタリーとかリュス・イリガライのような偏差値の低いフェミニストと同列に論じては気の毒である。
私はフェミニズムは好きではないが、頭のいい人は好きである。
だから「頭のいいフェミニスト」に出会うと「ああ、どうしよう」と葛藤してしまう。
そして、結果的には「頭のいい人が好き」という嗜癖が勝ってしまうのである。
私はその人の奉じている社会理論の当否よりその人の知性の質の方を優先的に評価する。
フェミニズムを私が評価しないのは、人間の知的なパフォーマンスはその人が奉じている社会理論によって決まると主張しているせいである。
フェミニストたちは父権制社会における性差別の被害者であるせいで、この社会の構造を熟知しており、私はセクシストの男性であるので、この社会の仕組みがまるで理解できていないとフェミニストたちは主張するが、単一の条件で「世の中の仕組みの理解度」が決定するという考え方に私は同意することができない。
どのような状況的立場に置かれようと、世の中の仕組みがわかる人はわかるし、わからない人にはわからない。
それは知性の問題だからである。
知性の成熟にはその人の階級や性別や宗教や国籍や人種や家庭環境や既往症や性的嗜癖など無数のファクターが関与しており、そのうちの一つの条件が整っただけで世の中の仕組みがすらすらわかるようになるということはない。
フェミニストたちは私が「頭のいいフェミニストは好きだけれど、バカなフェミニストは嫌いだ」と言うとあまり機嫌がよくない。
たぶん自分のことを言われているのではないかという疑念が浮かぶからなのであろう。
確かに、たいていの場合そうなんだけどね。
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(2007-12-26 09:10)