宴会道心得

2007-12-23 dimanche

ようやく冬休み。
土曜日は多田塾甲南合気会と神戸女学院大学合気道部の納会。
青少年センターの柔道場が取れなかったので、岡田山ロッジで稽古する。
36畳しかないところに40人近くが犇めいている。
80畳近い青少年センターの柔道場もそろそろ手狭になってきた。
ほぼ毎月入門者があり、ほとんど辞めないので、会員は増え続けるばかりである。
武道の道場はどこも入門者と同じくらいの数の人が辞めてゆくので、トータルの人数はあまり変わらないのがふつうであるが、合気道は単純増加を続けている。
これはやはり合気道の術理の汎用性の高さがかかわっているのであろう。
昨日は善ちゃんが合気道の術理と企業組織論について熱弁をふるっていたが、武道は最終的にはどれも「主体と他者」の古典的な哲学問題に帰着する。
つねづね申し上げているように、「主体」概念の根本的改鋳抜きには武道におけるブレークスルーは成り立たない。
モナド(単子)的な主体が「敵」とゼロサム的に対峙しているという構図に固着する限り、武道の術技は向上しない。
先般、「SAPIO」という雑誌に武道論を寄稿したけれど、その中に私は戦後GHQが武道を禁止したあと、50年代の競技武道が「民主化」と「スポーツ化」を代償に復活した事情について、次のように書いた。

競技化が武道の本義を傷つけるだろうということを1950年代の武道家たちの幾人かはすでに予見していたはずである。けれども、その札を切る以外に武道は延命すらおぼつかなかったのである。だから、私はこのときの選択を非とする資格が私たち後代の人間にあるとは思わない。それはその時点においては必至の選択であった。けれども、競技化が武道の本義を傷つけかねない逸脱であるという「病識」はその後も維持されるべきだったと思う。
現に、競技化による武道の変質に対する危機感はつとに大正年間、嘉納治五郎によってはっきり表明されていた(だが、実際には、嘉納が考案した稽古体系である「精力善用国民体育」はほとんど普及することがなかった。それが「乱取り」主体と競技化による柔道の変質を批判し、古伝の形稽古の復権を求めたものであったために学校体育・社会体育の柔道指導者たちから忌避されたのである)。
競技化による武道の衰退は競技化によってもたらされたのではなく、「競技化は武道の衰退をもたらす」という危機感を忘れたことによってもたらされた。私はそう考えている。
スポーツにおいては、生死のあわいでどうふるまうべきかであるとか、主体と対象の二元論をどう超克するべきであるかといったことは主題的には意識されない。
もちろん、どのような競技でも、トップレベルのアスリートは自分のパフォーマンスを最大化するためには「主体」という概念そのものを書き換えなければならないということには遅かれ早かれ気づくだろう。けれどもトップ・アスリート以外はそのような問いを切実なものとしては受け止めないし、指導者たちもそのような問いを選手に向けはしない。現に、ほとんどの競技者は「対戦相手に勝つ」という以上の目的が競技にあるとは考えていない。
もちろん、スポーツならそれでよい。しかし、武道は本来そういうものではない。
(中略)厳密な定義を適用した場合、武道はすでに久しい以前から衰微し続けていると私は考えている。競技化や国際化はその兆候であって、原因ではない。
武道をもう一度蘇生させるために私たちに何かできることはあるだろうか。私はできることは「ある」と信じている。けれども、それは武道を再び国粋化することによっても、(中教審答申が言うように)武道を学校教育で必修化することによっても達成させられはしない。
武道的力量はつきつめれば「人としてよく生きた」というかたちで事後的にしか検証しえぬものであり、数値化することも比較考量して優劣を競うこともできないものなのである。
(ここまで)

ほんらい、先人たちが発明工夫したすべての身体技法は「他者との共生」を「生き延びるための必至の技術」として骨肉化することなしには術技が向上しないように構造化されている。ゲーム性が強いスポーツの場合は、その事実が前景化しにくいというだけのことである。
あらゆる身体技法は、人間の身体能力のうち計量可能なものだけを選択的に発達させようと考えるときに衰微する。
学校体育は「成績評価」をしなければならないという「縛り」があり、プロスポーツは勝敗強弱を明らかにし、タイムを計り、技術を点数化し、ランキングを決定することなしには成立しない。
これらは「計量可能な身体能力」だけの選択的開発を私たちに要求する。
だが、すべての身体技法が最終的に要求している「他者との共生能力」は人間の能力のうちもっとも計測しにくいものの一つである。
なぜなら、それは属人的な能力ではないからである。
その能力は現に所与の、偶然的な「場」において、「共生を果たした」という当の事実を通じて事後的に判定されることしかできないのである。
宴会というのも厳しい言い方をすれば、いわばある種の「共同的身体運用」である。
そこで自分のいるべき場所を探り当て、自分のなすべき仕事を見つけ出し、「宴会する共-身体」の一部になり切ることが実は求められているのである。
知らなかったでしょ。
なんと、私は宴会しながらも、門人諸君の身体能力の開発を心がけているのである。
「自分の割り前」の仕事をそこで果たすことと「自分の取り分」の愉悦を確保することは似ているようだが質の違うふるまいである。
門人諸君もそのあたりの呼吸をよく呑み込んで「宴会道」の極意めざして、さらなる精進に励んでいただきたいと思う。
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