書類書くのはイヤだよう

2007-12-22 samedi

待つこと久し。ようやく冬休みである。
むろん、22日から冬休みであるというような話を聞くと、世間の人は「いいご身分で」と皮肉の一つも言いたくなるであろう。
私もそう思っていた時期がある。
研究に没頭し、たまに大学に出てぼそぼそと学生相手にわけのわからないことをつぶやいているだけでお鳥目がいただけた時代もあった。
今でもそういう象牙の塔的大学教師もいないではないし、そのような反時代的な教師に存在理由があることも変わらない。
けれども、おおかたの教師にはもうそのような生き方は許されていない。
膨大な量のペーパーワークが課されているからである。
私に課せられた書類仕事をもし私がまじめにやっていたら、たぶん一年365日書き続けていても空欄を埋めるに足りぬであろう。
本学だけでも年間にトンをゆうに超える量の報告書が起草され、文科省その他に提出されている。
その書類はたぶんどこかの倉庫で誰の目にも触れずに、いずれゆっくり腐敗してゆくのであろう。
森林資源の無駄遣いとしてもそこに投じられた大学人たちの時間とエネルギーにとっても、まことに不経済なことである。
文科省はありとあらゆる大学の教育研究活動について「数値目標の設定と予算の積算根拠と達成度評価」を求めている。
これは正直に言って、まったく、100%、無意味である。
学術研究はそれがどのように展開するか予見できるものではない(それがどこにたどりつくのかあらかじめ予見できるような研究がイノベーションをもたらすということは原理的にありえない)。
教育もそれがどのようなアウトカムをもたらしきたすことになるのか教師はあらかじめ言うことができない。
いろいろなことをやってみるが、どれが「当たり」でどれが「はずれ」になるのかは、やってみないとわからない。
臨機応変というのが環境に適応するために生物に求められる資質である。
私たちに今課されている公的機関の介入はこの「臨機応変」という構えに対してきわめて非寛容である。
何をするのかあらかじめすべてリストアップしておけというのである。
場当たりでやるような教育事業は教育事業として認めないとおっしゃるのである。
あのね。
そんなこと、わかるわけないでしょ。
相手は生身の人間なのである。
私は「シラバス」というものに原理的に反対である。(職務上、私の名前で教員たちにシラバスの記載を求める文書が配布されるのはまことに不条理なことではあるが)。
日本の教育をダメにした根本はこの「シラバス」的なものの瀰漫にあると私は思っている。
シラバスというのは平たく言えば「授業計画」のことである。
その科目の教育目標は何で、教育内容はどんなふうで、何月何日にはどんな教育情報を教授し、読むべき文献は何で、評価は何を基準になされ、学生にはどのような知的特性が求められるか・・・といったことを逐一書き連ねるのである。
私は自分のやっていることの教育目標がよくわかっていない。
強いて問われれば「その後、厚みのある豊かな人生を生きていただくこと」である。
教育内容は、「その時点で私が熱中していること」である。
シラバスを書くのは前年度の秋であるから、それより1年先に自分がどのような論件に熱中しているのか、その時点で私にはわからない。
1年前にすらすら言えるようなことにはおそらく熱中していないであろうことだけは予測できる。
当然、どの日に何を教えるかなど予定が組めるはずもない。
評価の基準も一定しない。
今年度の私の採点基準は「そのような知的な構えをとることが、あなた自身の知的パフォーマンスを向上させるか?」という問いのかたちで立てられている。
もちろん、ひとりひとり構えは違う。
恭順で謙抑的になることで知的に向上する学生もいるし、反抗的で懐疑的になることで知的に向上する学生もいるし、知識を詰め込むことで向上する学生もいるし、詰め込みすぎた知識を『抜く』ことで向上する学生もいる。
そんなの人それぞれであるし、同一人物であっても春先と冬の終わりではこちらの着眼点ががらりと変わることもある。
教育も研究も「なまもの」である。
文科省のお役人だってたまには浅草の路地裏の寿司屋に行くこともあるだろう。
そのときにメニューが一年前からきちんと決められていて、来年の何月何日にはどのような魚をどのように調理するか明示することをキミたちは寿司屋に要求するかね。
せんだろう。
「どう、今日は何かいいの入っている?」と訊くのが定法である。
教育だって同じである。
教育研究というのは「なまもの」相手の商売である。
どう展開するのか、予断を許さない。
日本の教育がここまでダメになった最大の理由はこの「教育は『なまもの』である」という常識を教育関係者がみんな忘れてしまったことに起因している。
彼らが「工場生産」のメタファーに毒されて、適切なマニュアルに従って、適切な練度を備えた教師が行えば、教育的アウトカムとして標準的な質の子どもたちが「量産」できるはずだと考えたせいで、日本の子どもたちは「こんなふう」になってしまった。
繰り返し言うが、いま教育行政が学校にやらせようとしていることは、そのほとんどが(全部がと言いたいところだが)教育的アウトカムの質をさらに低下させるだけの効果しかもたらさないであろう。
とりあえず教師たちに膨大な量の書類を書かせて、学生生徒たちとの接触機会を減らすことにより、教育効果はいっそう向上するはずだという迷妄からはいい加減目を覚ましてはくれないだろうか。
冬休みになったのにまだ書類を書かなければいけないと言われて、私は、心底、怒り狂っているのである。
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