接続的コミュニケーションの陥穽

2007-12-21 vendredi

舞台が終わったら、肩の荷が下りて、(斉藤先生にいただいたユンケルが効いたのか)風邪も癒え、すっかり元気になった。
木曜は「メディアと知」に先週の関川さんに続いて、今週は江弘毅さんをお招きした。
江さんに大学でお話をしてもらうのは3回目。来学期からはメディア・コミュニケーションコースの「プレゼンテーションの技法」の講師をお願いしているので、その「顔見世興行」である。
今回は単発なので、「メディアで働くということ」というお題でお願いした。
江さん、教壇からコミュニケーションについてのかなりハイブラウな一般理論を講じる。
コミュニケーションには接続・伝達・理解の三段階がある。
接続コミュニケーションは「これはコミュニケーションですよ」という合図のことである。
「交話的コミュニケーション」とロマン・ヤコブソンが名付けたものである。
「もしもし」とか「後ろの方、話、聞こえてますか?」というようなものがそれである。
コミュニケーションが成立していることを確認するためのコミュニケーションで、「メタ・コミュニケーション」とか「コミュニケーションのコミュニケーション」とか「解錠するコミュニケーション」とか、いろいろな言われ方をする。
これは送信側と受信側で誤解の余地のありえないと想定されているコミュニケーションである。
などと急に言われても意味がよくわからない人もいるであろう。
というようなのが「それ」である。
自分自身が発信している当のメッセージの「読み方」についてのコメントである。
これはジョークです、とかこれはたとえ話ですとか、いうのもそれである。
コミュニケーション・ブレークダウンはふつうこのレベルで起きる。
メッセージは受信できるのだが、それをどう読んでいいのか、読み方がわからない。
「何しに来たの?」という問いがある。
これを「単なる問いかけ」ととるか、「叱責」ととるか、「性的な誘いかけ」ととるか・・・「読み筋」は無数にある。
これを適切に選択することができないことでスキゾフレニーが発症するというのがグレゴリー・ベイトソンのダブル・バインド理論である。
江さんの本日の論件の一つは、ケータイというのはこの交話的コミュニケーション「だけ」で成立しているコミュニケーションではないのか、という仮説の提示であった。
なるほど。
そこには「私はあなたと接続している」というメッセージ以外にメッセージがない。
そういわれてみると、若い人たち(に限らぬが)最近は「空気」とか「場面」とか「流れ」とか、そういう「メッセージが置かれている文脈」を指示することばがコミュニケーションの場で優先的に選択される傾向がある。
「空気読め」とか「場面でいかね」(@『気まぐれコンセプト』)とか「じゃ、あとは流れで」という表現はいずれもそのような支配的傾向を示している。
しかし、そこに問題があるような気がする。
というのは、文脈読解力は、今や「重要」という段階を通り越して、ほとんど「非寛容」の域に近づきつつあるように私には思われるからである。
つまり「誤読が許されない」ということである。
現代日本のコミュニケーションの問題はどうもこのあたりにあるような気がする。
「場の周波数」にいちはやく同調すること「だけ」にコミュニケーションについてのほとんどのエネルギーが投じられているせいで、いったんチューニングが合ってしまうと、あとは「チューニングがまだ合っていないやつ」を探し出して「みんなでいじめる」ことくらいしか「すること」がない。
上野千鶴子の『おひとりさまの老後』という本を読んで、いちばん違和感を覚えたのはそういえばここだった。
上野は「おひとりさま」たちが連合して親密圏を構築すれば家族なんか要らないという主張をしているわけだけれど、このグループには「空気の読めないやつ」は入れない。
上野が「おやじ」を彼女たち「おひとりさま」の愉快な共同体から排除する理由としてあげているのは「おやじ」は「場の空気」が読めないからである。
そんなに「場の空気が読める能力」って大事なんだろうか。
私はそこにひっかかってしまったのである。
「場の空気が読めないやつとは暮らせない」と公言するのはかまわないけれど、そういう人は「他者との共生」とか「多文化共生」とかいう社会理論にもきっぱり反対すべきではないのか。
ともあれ、全国民がそのような能力だけを選択的に発達させた場合にコミュニケーションは豊かになるのかむしろ貧しくなるのか、そろそろそのあたりの損得勘定もしてみてよいのではないか。
フランス語をわりとまじめに勉強していたころ、フランス人の教師にフランスのテレビの「お笑い番組」を見せられたことがある。
このジョークが笑えるようにならないとネイティヴとはコミュニケーションできないとその教師は言った。
私はこんな低劣なお笑い番組に興じてるフランス人には用がなく、「こんな番組を見ないタイプのフランス人」とだけ選択的にコミュニケーションしたいと望んでいるので、そんなジャルゴンとかダブル・ミーニングとかの解説よりも「正しいフランス語の話し方、書き方」の方に軸を置いて教えてほしいと言ったら、その教師に憎悪をこめたまなざしで見つめられたことがある。
まあ、そう言われたら、ふつう怒るわな。
でも、私の言ったことは誰かが言わなければいけないことである。
日本語が崩壊状態になっている理由の一つはたぶんここにある。
「空気を読む」コミュニケーションには豊かな語彙や適切な統辞法や美しい音韻は無用のものである。
ある意味では「んげ」「ほげ」で十分だからである。
交話的コミュニケーションはコミュニケーションを解錠するものであり、その重要性は繰り返し強調する必要があることに変わりはない。
けれども、それが「解錠できないもの」を排除するスクリーニング装置として働くことや、「解錠したあとに送受信するコンテンツ」に対する配慮を軽視することにつながるのであれば、接続的コミュニケーション「だけ」に知的リソースを投じることにはもう少し謙抑的になるべきであろう。
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