オフなので今日も仕事だ

2007-12-06 jeudi

オフなのだが締め切りが二本たまっているので、早起きして原稿書き。
まず本日締め切りの「エピス」の原稿。
今回は『シルク』。
たいへんよい映画なのであるが、致命的な瑕疵がある。
それについて書く。
私がこの映画評のコラムで批判的なことを書くのはたぶんはじめてである。
どんな映画でも「よいところ」は探せばあるので、それ「だけ」書いてきたのであるが、『シルク』は「それ以外」にほとんど欠点のない例外的にすぐれた映画なので、あえて今回に限り欠点について論じたのである。
それはそれだけこの映画の完成度が高いということであり、それと同時にこの映画の瑕疵がこの映画だけの固有の問題ではなく、現代文明のかかえる病根に通じていると思ったから、論じるに値すると思ったのである。
その原稿の一部を転載する。

(…) でも、人間の声の魅力を最大限に引き出した映画だからこそ僕はある違和感を報告しないわけにはゆきません。
それはフランス人であるエルヴェ(マイケル・ピット)も幕末の奥羽山中の人である役所広司も滑らかなアメリカ英語を話すことです。
極東の島に絹を求めて来たフランスの青年が経験する「現地の言葉がわからない」という状況が劇の軸であり、かつ「大どんでん返し」の伏線である物語で、これほど易々と言語の壁が越えられてしまってよいのでしょうか。
フランス人はフランス語を話し、日本人は日本語を話す。
それでもその間に深い感情の交流が成立する、という奇妙な味わいの物語であるはずなのに、その劇的な言語障壁が「リンガ・フランカ」である英語を、フランス人も日本人もオランダ人も、登場人物たち全員が流暢に話すことですらすらと解決されてしまう。
これはちょっとまずいんじゃないかと僕は思いました。
異邦の言語の理解しがたさ(とそれゆえの魅惑)と声の美しさが主題である映画で、フランス語という(英語話者にとっての)異言語の音声の手触りと美しさが完全に無視されていることに僕は一抹の悲しみを覚えたのでした。(ここまで)

監督のフランソワ・ジラールは(名前からわかるように)カナダのケベック出身だから Canadien francophone(フランス語を話すカナダ人)である。
その監督が、フランスが舞台で、フランス人が主人公の映画であるにもかかわらず(おそらくは興行上の理由で)、フランス語を使うことができなかったというのがどんな気分なのか。
私にはうまく想像できない。
主人公が日本人に置き換えて考えてみよう。
映画の中で、日本人はなぜか全編(日本人同士でも)英語を話す。フランスに行っても、そこで英語を話す人に出会ってさくさくとことが進む。でも、好きになったかわいいフランスの女の子は英語が話せないので、気持ちがうまく通じない・・・
という映画を見たら、「変なの」と思いませんか?
それが「言語障壁で気持ちがうまく通じない物語である」と説明されても、「それはなんか違うでしょ」と言いたくなりませんか?
というふうに考える私が変なのだろうか。
うん、きっと私が間違っているのであろう。

『シルク』の映画評を送稿して、ただちに池上六朗先生の『カラダ・ボンボワイヤージ』の復刻版の解説文にとりかかる。
池上先生について書くのは愉しい。
さくさく書いているうちにあっというまに10枚を超してしまう。
ただちに送稿。

ばたばたと着替えをして大阪の府立清水谷高校へ。
ここの人権研修会に講師としてお招きいただいているのである。
教育崩壊と市場原理について一席。
子どもの成長のためには「わけのわからないことをいう大人」が複数目の前に立ちはだかって子どもを深い混乱のうちに叩き込むことが必要であるという話をする。
という話をしてから家に帰って井上雄彦の『バガボンド』を読み返していたら、武蔵が吉岡清十郎と斬り合うところで、それまでロール・モデルとして新免無二斎しかいなかった武蔵の頭の中に、柳生石舟斎と宝蔵院胤舜というふたりの「じじい」の幻影が出て来て、それぞれが「あーだこーだ」とわけのわからないことを言い、ふたりが武蔵に向かってそれぞれ「そうじゃないこうだ」と違うことを言い出すので、武蔵が混乱して困っているうちにいつのまにか清十郎をばっさり斬ってしまうという場面が出て来た。
おお、井上くん、君もそう思うのか。
そうなのだよ。
単一のロールモデルを後追いしたり、否定したりしているだけで子どもは成長できない。
ロールモデルが複数になり、そのそれぞれが「違うこと」を言い始めるときにはじめて人間は成長のプロセスに入る。
より厳密には「複数のロールモデルを許容しうる」という事実そのものがすでに成長のプロセスに一歩を踏み入れていることの証拠なのである。
いつも申し上げていることであるが、「矛盾」というのは「あらゆる盾を貫き通す矛」と「いかなる矛もはねかえす盾」の二つが同時にそこに存在することなしには、矛も盾もその性能を向上させることができないという事況を指している。
「そこそこの盾」と「そこそこの矛」をばら売りしている限り、盾にも矛にも向上はない。
アメリカとソ連が「宇宙開発競争」をしているときに、宇宙工学は飛躍的に進歩した。
ソ連が崩壊して、宇宙工学がアメリカの独壇場になったとたんに、NASAはまったくイノベーションができない組織になってしまった(予算も削られたし、不祥事も相次いだ)。
そういうものである。
ロールモデルが複数併存して、それが相互に否定しあうゼロサム関係にあるときに、人間はもっとも成長する。
これは人間を「人材」とか「製品」と考えている人間は理解不能であるが、人間を人間だと見ている人間にとっては「当たり前」のことである。
教育改革がことごとく失敗したのは、人間を造型するためには標準的な「単一モデル」を与えればいいと考えたスカスカ頭が教育行政の上の方に大量にわだかまっていたせいである。
彼らは人間は「カンヅメ」とは違うという基本的なことがわかっていなかたのである(今でもわかっていない)。
どこの世界に自己組織化する「カンヅメ」が存在しようか。
経験的には誰でも熟知しているはずのこの人間理解がいまだ「常識」に登録されていないということがわが国の教育の不幸なのである。

谷町六丁目から長駆宝塚南口へ。
元・聴講生の光安清登さんの美容院 Antenne sur Vogue にお邪魔して、カットと頭皮マッサージをしてもらう約束があったのである。
光安さんに芸術的にカットしてもらう。
光安さんとしてはもうちょっとロングにしたいという「ウチダ頭改造計画」をお持ちらしいが、それは来年にやってもらうことにする。
オイルを塗って頭皮をいじってもらううちに、どっと疲れが出て半睡状態となる。
ううう極楽。

家に帰ると『チェインドヒート・コンプリート』がアマゾンから届いている。
シビル・ダニング姐さん映画である。
私はあまり公言できないことだが(しているが)、シビル・ダニング、ダイアン・“イルザ”・ソーン、ステラ・スティーヴンス(“砂漠の流れ者” よろしおましたな)というあたりのライン(わかりますよね)が好みなのである。
『チェイン・ヒート』にはシビル姐さんとステラ姐さんが併せて出ておられる。
まことに眼福。
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