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ショコラ・リパブリック言語論

学校に行く途中、二号線沿いにチョコレート屋の開店の看板が出ていた。
Chocolat Republic
「ショコラ・リパブリック」と読みながら、「変なの」と思った。
「チョコレート共和国」というのを英語で書くならChocolate Republic だろうし、フランス語で通すならRépublique du chocolat とかRépublique chocolatée (あ、これいいな「チョコレートフレイバーの共和国」)であろう。
どうしてこういうデタラメな表記をするのであろう・・・と学者にありがちな定型的な反応をしたあとに、いや待てよと思った。
「こういうデタラメな表記」がすらすらとできるのはもしかすると日本人だけではないのか。
ある種の錯誤行為が「すらすらとできる」というのはあるいは能力の一種と言ってもよろしいのではないか。
そう思い至ったのである。
しかし、それは一体どのような能力と呼ぶべきなのであろう・・・
と思いっているうちに大学に到着。ばたばたとゼミに駆け込む。
今日の発表は「脳内メーカー」。
それは何かね。
学生さまのご説明によると、「診断系お遊びサイト」で、今年の6月に始まって、10月までで5億アクセスに達した人気サイトなのだそうである。
日本人全員が5回アクセスしている勘定である。すごいね。
拝見してみたが、特になんということもないお遊びである。
自分の名前を入力すると、脳内地図のようなものが出てくる。
そこには自分の脳内にうごめくさまざまな妄念が「欲」とか「嘘」とか「秘」とか「遊」とか「休」といった漢字で表記されている。
ふ~ん。
「脳内メーカー」の手柄はこの「脳内に漢字がひしめく」という図像のアイディアにある。
たしかにこれはかなり私たちの実感に近い。
なるほどね・・・
と思ったところで、さきほどの「ショコラ・リパブリック」とつながった。
もしかすると、この遊びは日本人しか思いつかないし、日本人にしか楽しめないものではないのか。
漢字は表意文字(イデオグラム)である。ひらかなやアルファベットは表音文字(フォノグラム)である。
表意文字と表音文字の組み合わせで言語を構築するのは漢字の周辺文化圏の特徴である。
そこでは、ひさしくローカルな表音記号でシンタックス(連辞)を形成して、そこに任意の外来語をはめこむという混淆的な言語をつくってきた。
日本もそうだし、朝鮮半島もそうだし、インドシナもそうである。
でも、隣国の人たちは漢字を捨てて、ハングル表記に切り換えつつある。韓国の若い人はもう漢字で自分の名前を書くのがやっとだそうである。
ベトナムも漢字を捨て、ベトナム文字も捨て、アルファベットに切り換えてしまった。だから、現在のベトナムの若者たちは70年前のベトナム人が書いたものをもう読むことができない。古い建物に行っても扁額も石碑も読めないのだそうである。
その中で日本だけが現地語の表音文字に外来語の表意文字をはめこむというスタイルの孤塁を守っている。
養老孟司先生は「だから、日本でマンガが発達した」という説を述べられている。
マンガの「絵」は表意文字であり、「ふきだし」は表音文字である。
これを組み合わせることは日本人にとってはごくナチュラルなことである。
だが、欧米人にとっては絵はあくまで絵であり、表音文字は言語である。
彼らには、このふたつを「同じ記号」としてすらすらと読む習慣がない。
表意文字と表音文字はそれを操作する脳内部位が違うからである。
それは失読症という病気から伺い知ることができる。
アルファベットで表記する言語の話者は表音文字部位が損傷すると失読症になる。
日本人の場合は、同じ部位が損傷すると「ひらがなは読めなくなるが、漢字は読める」という特異な病態を示すのである。
日本語を読み書きするということは、脳内部位の二箇所を同時に活動させることである。
こんなことをするのは今ではもう日本人だけである。
日本人の識字率は近世以来一貫して世界最高レベルにある。
これはすぐれた教育システムの成果であるとされているが、私はむしろ日本語の構造的特質のせいではないかと思う。
だって、日本人は言語運用に際して脳内の二箇所を同時に使うのである。
欧米人が一人でやっている仕事を二人がかりでやっているようなものである。
それは効率的であるとも言えるし、逆にさまざまな「逸脱」が可能であるとも言える。
『女は何を欲望するか』にも書いたことだが、「女ことば」というのは欧米語には存在しない。
だから、リュス・イリガライのような人が「父権制を打倒するために女性に特化した言語を創造することが必須である」というようなとんちんかんなことを言い出したりするのである。
不思議なのはこれを読んだ日本のフェミニストの中に「あの~、でも日本語には女性に特化した言語ありますけど・・・」と言った人がいなかったということである。
欧米標準でしかものが考えられないその従属的マインドのありようそのものが「父権制における従者の地位」だということにどうして彼女たちは気づかずにいられるのであろう。
そもそも、アジアローカルの言語の話者のことなんか「はなから勘定に入れる気がない」イリガライの知的な構えこそが「父権制的帝国主義者」に固有のものなのではないかという疑念は彼女たちには浮かばなかったのであろうか。
まあ、フェミニストのことはよろしい。
英語ではIはあくまでIである。
子どもが言おうと、老人が言おうと、男が言おうと、女が言おうとIである。
英語話者がIと発語するそのときに、その脳内にはたぶん[ai]という音について、ソシュールのいうところの「聴覚映像」(image acoustique)が浮かんでいるのであろう。
これはある音韻と別の音韻を切り分ける二項対立の記号群(ローマン・ヤコブソンによると12セットある)のようなものである。
[ai]は[ei]でもないし[oi]でもないという音韻的な対立関係が英語話者の場合は優先的に配慮されているはずである(だと思う、英語話者じゃないからわからないけど)。
しかるに、日本人が「私」というときには脳内には「私」という漢字が浮かんでいる(私の場合はそうである)。
「私」は「僕」でもないし「俺」でもないし「拙者」でもないし「みども」でもないし「余」でもないし「おいら」でもないし・・・という相互互換的paradigmatiqueな選択は脳内において「漢字の図像」のうちの一つを選ぶという仕方で行われている。
[watasi]は[vatasi]ではなく[watazi]でもないというような音韻的な差別化は日本人の脳内ではさしあたり主題化していないはずである。
つまり、こういうことだ。
Chocolat Republic という店名を考案した人がいた。
彼の頭では、まず「ショコラ」という「チョコレート」とは意味的に差別化された「ちょっとお洒落なカカオ菓子」がパラディグマティックに選択されたのである。
ついで、World とかLand とかParadiseとか Countryとか、「・・・の国」を意味する語群からRepublicがパラディグマティックに選択された。
そういうふうに話が進んだのではないかと私は想像するのである。
だから、chocolatがフランス語でrepublicが英語であるというような連辞関係的syntagmatiqueな不整合は意識に前景化しなかったのである。
だって、それは「チョコレートの国」という正しい(!)日本語における統辞的な不整合(英語と日本語が統辞上同一語列に並んでいる)と同じものだからである。
う~む、日本語の奥は深い。

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2007年11月13日 10:50 に投稿されたエントリーのページです。

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