詩人のコピーライトについて

2007-11-12 lundi

先日のブログ日記で鹿島茂さんの近著の解説を書くことになったという話の中で、大木実という詩人の「おさなご」という詩の全編を載せた。
そしたら、このようなテクスト利用については著作権者から権利侵害のクレームが来る可能性がありますからご注意くださいというご指摘を弁護士の方からいただいた。
これはびっくり。
私は文学研究者であるから、私が文学作品について書く場合、それらは文学的テクストについての「論」であり、そこに引かれたテクストは学術的な「引用」とみなされる(はずである)。
「引用」は著作権の侵害にはならないというのが著作権法の規定である。
しかし、考えてみたら、それが通るのは私が「学者」として社会的に認知されているからである(認知してくれない人もいるが)。もし他の人が私と同じ文章を書いた場合には、それは「学術的引用」とは認められず、著作権侵害に当たるとされる可能性もあるのであろうか。
あるのかもしれない。
よくわからない。
私は日本文藝家協会というところに入会している。
著作権保護は協会の主務の一つである。
協会に入会したら、著作権の管理を協会に一任するという契約書のようなものが送られてきた。
署名捺印して返送すればすむのであるが、いろいろ考えて結局返送しなかった。
自分の著作権は面倒でも自分で管理したいからである。
私が何かを管理するというのは(IT秘書たちが熟知しているように)、それをちゃんと管理しないということを意味している。
というのは、私は著作権を財産権のように扱う態度に対していささか懐疑的だからである。
著作権保護運動の一環として、著作権者の死後50年まで保護対象とする現行規定を70年までに延長するということが要請されている。
70年が世界標準だからだそうである。
著作権者の死後70年も著作権相続者がその恩沢に浴するというのは孫や曾孫が著作権者になるということである。
子々孫々に印税収入を確保できるということが創作のモチベーションを高める作家もあるいは存在するのかも知れない。
顔も知らぬ孫や曾孫にでも「おこづかい」をあげたいという気持ちは私にも想像できないことはない。
けれども、顔も知らぬし、その思想信条も美意識も価値観も知らぬ孫や曾孫に著作権の「管理」を任せるということは、「孫子かわいさ」とは話の次元が違うのではないか。
この子孫諸君が「この著作物をこれこれの仕方で使用することは許すが、こういう使い方はまかりならん」という是々非々の判断を下す権利を持つということに私はどうしても頷くことができない。
文学研究の世界では著作権相続者の拒否権発動のせいで草稿研究が進まなかった事例が多々ある。
こんなものを発表されると個人の「偉大性」が毀損されるかもしれない、というのが理由の多くである。
死んだ芸術家の偉大さについての「幻想」が損なわれない方がご遺族のみなさんだって気楽だろうし、印税収入も安定的に確保されるというのはわかる。
けれども、それはちいとばかり「身勝手」ではないのかと私は思う。
偉大な芸術家はその「偉大じゃないとこ」も含めて人類の財産である。
私はそう思う。
著作権相続者たちが印税を受け取るのは別に構わない。
だが、彼ら自身が創作したのでないものの使い道にまであれこれ口出しする権利までは認めるべきないと私は思う。
私は自分のネット上のテクストについては著作権を主張していない。
今書いているこの文章も含めて、ネット上に掲載されたものは誰でも使用できる「公共財」であるというのが私の考えである。
ネット上の情報を誰でも自由に利用できるということがネットコミュニケーションの最大のメリットなのだから、そこに「私権」を持ち込むのはつまらないことだ。
自分のブログに「コピー禁止」とか「リンクを張る場合には必ず許可を求めること」とか書いている人が多々おられるが、私のブログは「コピーフリー」「盗用・剽窃フリー」である。
私はべつに私の「オリジナリティ」を誇示するためにこのようなところに駄文を記しているのではないからである。
私と「意見」を共にする人を一人でも多く増やしたいがために、このようなものを毎日せっせと書いているのである。
私の望みはできるだけ多くの人に「そんなこと当たり前じゃないか、私だって前からずっとそう思っていたよ」と言わせることであって、「そんなことを考えるのはお前だけだ」と言われるためではない。
「こういう考え方」をする人間は今のところ少数だから、それはさしあたり「ユニークな考え方」と言えるかもしれない。
だが、その「ユニークな考え方」が「ユニーク」なままで終わることを私は少しも望んでいない。
「ついに一人のフォロワーも得ることのなかったユニークさ」には何の価値もない。
「多くのフォロワーを獲得したためにいつのまにか少しもユニークなものでなくなってしまったユニークさ」だけに価値があると私は思っている。
だから、「オリジナリティ」に値札をつける習慣にどうしてもなじむことができないのである。
詩について言えば、詩人がほんとうに求めていたのは読者たちの彼の詩境に対する全面的な共感だろうと私は思う。
理解されず共感されず、それゆえ模倣することもできぬような詩想を有したことでオリジナリティを確立することなど詩人は望んではいない(と思う。詩人じゃないからわからないけれど)。
詩想がひろく共感されるということは、人類の「感受性の財産目録」にそれまでになかった新しい感受性を一つ付け加えるということだと私は考えている。
詩人が求めているのは「人類の詩的資産」を増やすことであり、詩人の著作権相続者の預金残高を増やすことではないと私は思う。
私は間違っているのであろうか(おそらく間違っているのであろう)。
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