おじいさんおばあさんをたいせつに

2007-11-09 vendredi

テレビを見ていたら長塚京三が背中で嗚咽しているCMに遭遇した。
先週見たCMではいっしょに住友信託銀行に訪れて資産管理の引き継ぎをしていた彼の父が急逝したらしく、たっぷり資産を残してくれた父の遺言状を見て「父さん、ありがとう」と感謝の涙を流している中年の息子の背中をさらにその子供が見つめているという絵柄であった。
私はつい3日前に、「金満家の祖父のおかげで一族が栄えるという絵柄のCMがやがてテレビ画面に登場するであろう」とゼミのクロダくんに予言したばかりなのであるが、これほど早く私の予言が的中しようとは・・・
みなさんももうお気づきになったであろうが、最近の商品カタログなどの表紙は「三世代もの」が多い。
いかにもリッチそうな祖父母、その七光りで豊かな生活をエンジョイしている息子・娘夫婦、その倍の14光りの恩沢を受けて屈託なく微笑んでいる孫たち・・・の集合写真である。
これが意味することがおわかりであろうか。
そう、あの1500兆円の個人金融資産である。
これからの日本経済の趨勢はこの1500兆円をどうやってマーケットに還流させるかによって決すると申し上げても過言ではあるまい。
財界とメディアと電通はこの1500兆円を握りしめている高齢者たちの財布のひもをどうやって緩めるかに戦略をピンポイントしている。
安倍政権の命取りとなったのは年金不祥事であるが、事件発覚直後の安倍首相の対応はきわめて鈍いものであった。明らかに「こんなことはたいした問題ではない」と高を括っている風があった。
ところが「年金不安をすみやかに解消せよ」という財界からすさまじい圧力がかかってきた。
大あわてで対応策を講じたが、ときすでに遅く、このときに実質的には安倍首相の命運は尽きたのである。
どうして財界が「年金不安をすみやかに解消せよ」とすさまじい圧力をかけたかというと、年金不祥事の報道直後に高級自動車の売れ行きが一気に低下したからである。
自動車のセールスは消費意欲のもっともわかりやすい指標である。
私たちはちょっと金回りがよくなると、とりあえず「車でも買い換えるか」という気分になる。
車のグレードアップには家族内で反対する人間がいないからである(「ゴルフバッグでも買い換えるか」とか「毛皮のコートでも買い換えましょうか」とかいう提言は相当な力業を使わないと家庭内合意に達しない)。
車の買い控えはいずれ不動産の買い控えに直結し、やがて消費財全品目の買い控えを帰結し、それによって日本経済はようやく手に入れた浮揚力をふたたび失う恐れがある。
年金不祥事は「年金制度は信用できない」という雰囲気を醸成した。
それは要するに「老後の蓄えには手を付けない方がいい」ということである。
1500兆円の個人資産にこの瞬間に「ロック」がかかったのである。
年金をめぐるどたばたは原理的にはこの「ロック」を解除しなければ日本の経済活動全体が停滞することにいちはやく気づいた財界と、それに気づかず政策の整合性や省益維持にかまけていた政官界との危機感の温度差から生じたのである。
と思う(別に証拠があるわけではなく、ただの推理だけど)。
でも、そうだと思う。
年金制度、高齢者医療、介護などについてこの半年間いろいろな制度上の問題点の指摘がなされて、「膿を出す」ということが行われている。
それはべつにわが国の行政官たちがとつぜん博愛的になったからではない(彼らはそういう人種ではない)。
高齢者が社会制度に対して安心感を持ってくれないと、彼らの「財布のひもが緩まない」という厳然たる事実がエスタブリッシュメント内部で無言のうちに了解されたからそうしているだけである。
ご老人たちが1500兆円を残りなく吐き出してそれが市場に還流すれば日本経済は今後20年は大盤石である。
そのためには、高齢者の耳元に向かって「日本の社会保障制度は安心です。老後の生活には何の不安もありません。行政がまるっと面倒みようじゃありませんか。ですから、みなさんの預貯金、そんなふうに定期預金にして退蔵する必要なんかないんです。もっと利回りのいい(そりゃ多少のリスクはありますけどね)金融商品に移転されるとか、消費財にお使いになられたらどうですか?」と官民一体となって囁くというシナリオが出来たのである。
年金制度と高齢者医療介護制度の整備が喫緊の政治課題であるのは、そうしないと高齢者が金を使ってくれないからそうしているのである。
安倍から福田へのシフトの意味もこれでご理解いただけるであろう。
福田首相の掲げたスローガンは「改革のスローダウン」である。
いろいろな制度でもまだ使い回しがきくものはそうそう急に廃棄したりせずにですね、使い伸ばすと。急な変化はですね、まあどうなるか、よく先を見てですね、軽々に判断しない、と。
これが誰に対するアピールであるかは容易に想像がつくであろう。
福田内閣はなんと「高齢者オリエンテッド内閣」だったのである。
小泉構造改革で日本社会の階層化は急激に進行し、グローバリゼーションによる競争原理の導入で、大量の野心的起業者が出るはずだった年齢層からはニート、フリーターが大量出現した。
この世代では少数のリッチマンに資産が集中し、過半が貧困層に転落した。
この資産配分は市場にとっては少しも好ましいことではない。
一番物が売れるのは「一億総中流幻想」の時代だからである。
いずれにしても本来消費活動がもっとも活発なはずの25-35歳の「ロストジェネレーション」は「金がないので、消費しない」という理由で政策的関心の対象からはずされてしまった(気の毒である)。
もちろん行政的な支援によって彼らがこの先中産階級として自己形成し、家族を作り、税金年金を納め、消費活動を行うということをご確約いただけるのであれば行政とてこの世代に税金を注ぎ込むことにやぶさかではないであろう。
だが、この世代の方々はご意見ご要望を徴しても、どうも「郊外に一軒家を建てて、庭には犬を飼って、週末には子供たちとワンボックスカーでキャンプに・・・」というようなベタな未来像を語らないのである。
再生産や消費活動に夢をいだくには、絶望が深すぎるのかもしれない。
ともあれ、行政は「絶望が深すぎる人間」の救済には優先的には税金を投じない。
効率が悪いからである。
それよりは、「ちょっとの呼び水」で労働意欲、消費欲望に火が点く層に焦点化する。
かくして、「高齢者が孫子のためにお金を豪快に使うことで、家族全員が幸福になる」という新しいタイプの消費行動の理想型がメディアをつうじてひろく流布されることになったのである。
私はここにきっぱりと予言するが、このタイプの〈物語〉がこれから洪水のようにメディアに溢れることであろう。
老人が節度なく金を使うのは「孫」のためだけである。
リッチな老人と孫のあいだに親密な関係を打ち立てることできた家族とそれができなかった家族のあいだには、これから消費余力に大きな差ができる。
だから「(金のある)おじいさん、おばあさんをたいせつにしましょうね」という算盤づくの「家族幻想」がうるさいほどにふりまかれるのである。
80年代には家族解体が消費市場のビッグバンをもたらした。
21世紀初頭は家族再統合が消費の活性化につながる。
もちろんそれは人口構成が逆ピラミッドであり、高齢者に所得が偏っているという本邦の特殊な事情によるのであるが、おそらくこのような事態が出現したのは人類史上前代未聞のことであろう。
まことに不思議な時代に私たちは立ち会っているのである。
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