オフなので、定例により三宅接骨院で身体のメンテをしていただく。
いっしょに松本の池上先生のところに行って温泉入って美味しいもの食べたいですねと三宅先生とため息をつく。
家に戻ってゲラの山をながめるうちに軽く気が遠くなる。
そのままベッドに倒れて『バリバリ伝説』を読む。
グンちゃんも生きていればもう40歳くらいだ。
元気なのであろうか。
高校時代の私自身はひ弱なガリ勉少年であり、バイクになんか乗ったことがなかったのだが、どういうわけか『ろくでなしブルース』とか『ビーバップ・ハイスクール』とか『今日から俺は!』とか『シャコタン・ブルース』とかいう「すったら〜」系のマンガに目がないのである。
読み出すと止まらない。
はっと我に返って「おっと、こうしちゃいられない」とゲラの山に取り組む。
とりあえず文藝春秋のヤマちゃん本が仕上がる
タイトルも決定。
『ひとりではいきられないのも芸のうち』。
今回もきっちり5モーラ、8モーラ、5モーラ)。
さくさくと送稿。これは08年1月末に刊行予定。
どうして『羊たちの沈黙』のスターリング捜査官はハンニバル・レクター博士に恋をしてしまうのか・・・ということを人肉嗜食の人類学的・宗教的意味に基づいて考察した(読んだ私も驚いた)「これはびっくり」エッセイが満載。
続いて懸案のレヴィナス老師の『困難な自由』の未訳分に戻る(数ヶ月ぶり)。
あと6頁でおしまい。
こちらもなんとか来春までには本にしたい。
鹿島茂さんの『あの頃、あの詩を』(文藝春秋)の解説を書くという仕事があるので、ゲラを読む。
鹿島さんは私より1コ上の1949年、横浜のお生まれである。
その鹿島さんが中学生、高校生の時代に国語の教科書に掲載されていた詩のアンソロジーである。
これが泣ける。
鹿島さんの言葉を借りれば、それは
「おそらく明治の末年から大正にかけて生まれて戦争をくぐり抜けてきた世代の編者たち(つまりわれわれの親の世代)が、自分たちが思春期(大正末から昭和初期にかけての時期)に感銘を受けた詩を、まだ未来が輝いているように思えた昭和30年代に、自分たちの感情や思想を伝える言葉を子供の世代に託そうと思い、一生懸命に選別し、編纂し、教科書に載せた詩であったということです。」
私も同感である。
九死に一生を得て戦場から戻ってきたこの編者たちは「二度と戦争があってはならないという思いから、自分たちの心の原点であった昭和初期の平和な時代の詩を重点的に選んだ」のである。
だから詩の主題はきわめて傾向的である。
それは「太陽」であり、「朝」であり、「青空」であり、「春」である。
自然と四季の変化を歌ったものと「労働歌」が多い。
私が「じん」と来たのは「おさなご」(大木実)という一編であった。
おもちゃ屋の前を通ると
毬を買ってね
本屋の前を通ると
ごほん買ってね と子供が言う
あとで買ってあげようね
きょうはお銭をもって来なかったから
わたしの答えもきまっている
子供はうなずいてせがみはしない
のぞいて通るだけである
いつも買って貰えないのを知っているから
ゆうがた
ゆうげの仕度ができるまで
晴れた日は子供の手をひき
近くの踏切へ汽車を見にゆく
その往きかえり 通りすがりの店をのぞいて
私を見上げて 子供が言う
毬を買ってね
ごほん買ってね
私はこの一編を読んでいるうちに不覚にも胸が熱くなってしまった。
昭和30年代の下丸子の商店街を父に手を引かれて歩きながら、私もまた控えめに(否定的な答えが返ってくるのを知りながら)、それでも飽くことなく「ねえ、ほん買って」と父を見上げてつぶやいていたことを思い出したからである。
昭和30年代の「戦後教育」の中で、教師たちは15年にわたる戦争のことはとりあえず「かっこにいれて」、彼らの「原風景」である明治大正の日本の田園や下町の風景に、「まだ見ぬ未来の楽土」の幻想を接ぎ木したものを私たちに差し出した。
「もう存在しないもの」と「まだ存在しないもの」だけが選択的に歌われたという点で、私たちの世代の感傷の形成のされかたは特殊だったと思う。
それにつけても宮沢賢治はよいね。
『雨ニモマケズ』の後半はこんなリフレインである。
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
そういうものに私もなりたい。
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(2007-11-08 11:14)