大学院では今期は「家族論」をやっている。
今回のお題は「父親」。
発表担当のマスダさんがいろいろな論者の家族論・父親論を引用してくれたので「父親をめぐる言説史」を一覧できた。
日本人の家族論の多くがサル学の知見に依拠しており、精神科医たちまでが霊長類の「延長」として家族をとらえていることに私は一驚を喫した。
人間の家族はゴリラやチンパンジーの「家族」とは成り立ち方が違う。
レヴィ=ストロースは家族論を語るときの必読文献だと私は思うのだけれど、家族論者のどなたもこの人類学者の知見には特段のご配慮を示されておらないようである。
よい機会であるので、レヴィ=ストロースの「親族の基本構造」の考想を簡単にご紹介しておこう。
レヴィ=ストロースはラドクリフ=ブラウンの先行研究をふまえて、親族の基本単位が四項から成ると論じている。
「ラドクリフ=ブラウンによれば、伯叔父権 (avunculat) という術語は相反する二つの態度の体系を意味している。第一の場合、母方の伯叔父は家族の権威を表象する。彼はその甥にとって恐るべき人物であり、甥は彼に服従し、彼は甥に対してさまざまな権力を行使することができる。第二の場合、伯叔父に対してさまざまな親しみの特権を行使し、軽んじることが許されるのは甥の方である。そして、母方の伯叔父に対する態度と父親に対する態度のあいだには相関関係がある。いずれの場合でも、われわれは二つの同一の体系を見出すのであるが、それは逆転しているのである。つまり父親と息子の関係が親密である集団においては母方の伯叔夫と甥の関係は冷たいものであり、父親が親族の権威の受託者である場合には、甥が親しくつきあうことができるのは伯叔父の方なのである。この二つの態度集団は音韻論で言うところの対立する一対 (couple d’oppositions) をなしているのである。」(Claude Lévi-Strauss, Anthlopologie structurale, Plon, 1958,49-50)
問題は甥と母方の伯叔夫との単独の関係ではなく、「兄弟/姉妹」「夫/妻」「父/子」「母方の伯叔夫/その姉妹の息子」という四つの「対立する一対」の有機的連関なのである。
実例を挙げよう。
母系のトロブリアンド島では、父子はへだてのない親密さで結ばれており、甥と母方の伯叔夫はきびしく対立している。コーカサスのチュルケス族では父と子は非寛容な関係にあり、母方の伯叔夫は甥を支援し、結婚に際して馬を贈る。
また、トロブリアンド島では夫婦は親密であるが兄弟姉妹はきわめて厳格なタブーによって親しく交わることを禁じられている。チュルケス族では逆に兄弟姉妹はきわめて親密であるが、夫婦は人前ではけっして一緒に行動せず、夫に妻の健康を訊ねることはタブーになっている。
などなど。
これらの事例からレヴィ=ストロースはこの二対の親族関係が次のようなルールで律されていることを発見する。
「この構造は二つの相関的な対立関係で結ばれた四つの項(兄弟、姉妹、父、息子)から出来ている。その結果、二世代のそれぞれにおいて、一つのポジティヴな関係と一つのネガティヴな関係が存在することになる。この構造は何か? この構造の存在理由は何か? 答えは次のようなものである。この構造は考え得る限り、存在しうる限りもっともシンプルな親族構造である。これがまさしく親族の原基 (l’élément de paranté) なのである。」(Ibid., p.56)
どうして二世代にわたって二対の対立関係が存在しなければならないのか。
その理由をレヴィ=ストロースはあっさりと「インセスト・タブー」として説明している。
「人間社会では一人の男は女を別の男から受け取るしかなく、男は別の男に女を娘または姉妹というかたちで譲渡するのである。(…) 親族は静態的な現象ではない。それが存在する唯一の理由は親族が存続することである。われわれは人種を継続させる欲望について話しているのではない。そうではなくて、われわれが語っているのは、ほとんどの親族体系において、任意のある世代において女を譲り渡したものと女を受け取ったものの間に発生した始原の不均衡は、後続する世代において行われる反対給付 (contre-prestation) によって相殺されるしかないという事実である。」(Ibid.,p/57)
相変わらずレヴィ=ストロース先生は鋭くものごとの本質を言い当てている。
親族の存在理由は親族を存続させることであり、四項から成る基本構造は親族のダイナミズムを担保するための必要最低限のかたちである。
女性はどうなるのか、というお訊ねが当然あるだろう。
どうして「母と娘」「父方の伯叔母と姪」の四項より成る親族の基本単位は存在しないのか、と。
現に、多くのフェミニストたちはレヴィ=ストロースの「女の交換」とか「女の譲渡と反対給付」というような言い方に激怒されて、レヴィ=ストロースはセクシストにすぎぬと断罪して『構造人類学』を悪質な妄言に満ちた書物であると断じて焚書坑儒してしまったのである。
愚かなことである。
どうして男が「交換の主体」であり、女が「交換の対象」であるかというと、答えは簡単。
男それ自体には交換物としての価値がないからである。
男は再生産しない。
再生産のためには女100人あたり、男一人いれば十分である。
99%の男には生物学的には価値がない。
無価値なものをもらっても、反対給付の義務は動機づけられない。
それでは親族は形成されない。
父権制というのはフェミニストたちが正しく指摘するように男に「不当に高い価値を賦与するシステム」のことであるが、どうして男に「不当に高い価値を賦与する」のか、その理由は論理的に考えればすぐにわかる通り、男には価値がないからである。
だから、男性にのみ選択的に与えられるすべての価値は原理的に「不当に高い価値」なのである。
と書くと、また「男性が権力も財貨も情報も文化資本も現にすべての価値を独占しているではないか」ということを言い出す方がおられるかもしれない。
だからですね。
つねづね申し上げている通り、国家や貨幣や威信やなどというものはすべて男が作り上げた幻想であって、このようなものに生物学的には鐚一文の価値もないのである。
現にまともな女性はそういうものにぜんぜん価値がないことを知っているので、定期預金の残高を眺めたり、パソコンのディスプレイに見入っている男に向かって「ねえ、私と仕事とどっちが大事なの?」と訊くのである。
むろん、その場合に「仕事」などと答えた男は再生産の機会から永遠に排除されることになる。
まあ、愚痴はやめておこう。
とにかくそういうわけで、親族というのは本来四項から成るものなのである。
レヴィ=ストロースが言っていないことでたいせつなことが一つある。
それは子どもには先行世代に「対立する態度を取る同性の成人」が最低二人は必要だということである。
これは男女ともに変わらないと私は思う。
成熟のロールモデルというのは単独者によっては担われることができない。
タイプの違う二人のロールモデルがいないと人間は成熟できない。
これは私の経験的確信である。
この二人の同性の成人は「違うこと」を言う。
この二つの命題のあいだで葛藤することが成熟の必須条件なのである。
多くの人は単一の無矛盾的な行動規範を与えれば子どもはすくすくと成長すると考えているけれど、これはまったく愚かな考えであって、これこそ子どもを成熟させないための最も効率的な方法なのである。
成熟というのは簡単に言えば「自分がその問題の解き方を習っていない問題を解く能力」を身に付けることである。
成人の条件というのは「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまうかを知っている」ということである。
別に私はひねくれた逆説を弄しているわけではない。
「私はどうふるまってよいかわからない状況に陥っている」という事況そのものを論件として思考の対象にし、それについて記述し、それについて分析し、それについて他の人々と意見の交換をし、それについて有益な情報を引き出すことができるのが成人だと申し上げているのである。
だって、人生というのは「そういうこと」の連続だからである。
けれどもシンプルでクリアカットで無矛盾的な行動規範だけを与えられて育てられた子どもは「そういうこと」に対処できない。
「どうふるまってよいかわからない」ときに、「子ども」はフリーズしてしまう。
フリーズするかしないかはハードでタフな状況においては「生死の分かれ目」となる。
だから、子どもたちは矛盾と謎と葛藤のうちで成長しなければならないのである。
父と伯叔父は「私」に対してまったく違う態度で接し、まったく違う評価を与え、まったく違う生き方をリコメンドする。
この矛盾を止揚するフレームワークはひとつしかない。
それは「この二人の成人のふるまいはいずれも『私を成熟させる』という目的においてはじめて無矛盾的である」という回答に出会うことである。
だが、この父と伯叔父を統合する包括的フレームワークは父も伯叔父もどちらも与えてくれない。
子どもはこれを自力で発見しなければならない。
それは「成熟」という概念を子ども自身が理解しない限り発見できない。
成熟しない限り、「成熟のための装置」としての親族の意味はわからない。
親族は本来そのように構造化されていたのである。
近代の核家族からは「伯叔父」が排除された。
同性を引き裂く二つの原理の対立から、父が代表する父性原理と母が代表する母性原理の性的対立の中に子どもたちは移管された。
性間の葛藤は同性間の二原理の葛藤よりもはるかに処理しやすい。
というのは、人間は自分がどちらの性に帰属しているかを知っており、どちらの性の原理に従うべきかを知っているからである。
後期資本主義社会になったら、母たちがまでが男性原理を内面化するようになってきた。
権力や年収や威信や情報というそれまで男性にとってしか価値ではなかったものに女性たちも親族の存続よりも高い価値を見出すようになったのである。
これが現代の子どもの置かれた状況である。
かつての子どもたちは父と伯叔父と母という三人の先行世代、三つの原理の併存による葛藤のうちに生きていた。
今の子どもたちは「権力と金が価値のすべて」という単一原理のうちに無矛盾的に安らいでる。
このようなシンプルな原理の下では子どもたちは成熟できない。
だから、成熟することを止めてしまったのである。
親族の解体というのは、当今の社会学者が考えているよりもはるかに射程の広い人類学的問題につながっている。
その日本の社会学者たちが「成熟の問題」を論件としてさっぱり取り上げないのはなぜであろうか。
答えは一つしかない。
ここまでをお読みになった方にはすぐにわかるだろうけれど。
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(2007-11-07 12:53)