礼について

2007-10-31 mercredi

大学院では後期に家族論を講じている。
前期は教育論であった。
『街場の教育論』はミシマ社から、『街場の家族論』は講談社から来年中には出版されるので、私がどのような妄説を教場で獅子吼しているかを知りたい方それらの作物を徴されたい。
先週は小津安二郎に関連して「家族とは何か?」という本質的な問いをめぐって論じた。
だいぶ前に『ミーツ』書いた家族論が『村上春樹にご用心』に再録された。その中に私はこう書いている。

「人々が集まったとき、ある人がいないことに欠落感を覚える人と、その人がいないことを特に気にとめない人がいる。その人がいないことを『欠落』として感じる人間、それがその人の『家族』である。その欠落感の存否は法律上の親等や血縁の有無とは関係がない。家族とは誰かの不在を悲しみのうちに回想する人々を結びつける制度である。」

〈空虚〉を中心にして人間の運命は形成される。
邪悪さも善良さも不幸も幸福も、その起源は〈空虚〉のうちにある。
〈空虚〉は因習的な意味では「存在しない」ものであるから、あらゆる人間的事象に起源は存在しない。
というより、「起源の不在」を起源とすることが可能だということ知った霊長類の一部が人類になったという言い方の方がより厳密であろう。
老師が教えられたように、欲望は欲望の充足が欲望をさらに亢進させるように構造化されている。
動物には欲求 (besoin) はあるが欲望 (désir) はない。
欲望がコミュニケーションを起動する。
コミュニケーションには3つのレベルがあると看破したのはレヴィ=ストロースである。
すなわち「女の交換」(親族形成)「記号の交換」(言語)「財貨・サービスの交換」(経済活動)である。
私はこれに副次的なコミュニケーションレベルとして二つのものを書き加えたいと思う。
一つは葬礼であり、一つは動物との共生である。
葬礼というのは「正しい服喪儀礼を行えば死者は鎮魂されるが、誤った服喪儀礼を行えば死者は甦って災いを為す」という信憑のことである。
この信憑を持たない社会集団は存在しない。
この場合「服喪儀礼」を一つの記号とみなせば、記号の違いに応じて、そのつど死者は別種の反応を示すということである。
これを「コミュニケーション」と言わずして何というべきか。
死者ともコミュニケーションすることができる。
これが人間が動物と分岐した決定的なポイント・オブ・ノーリターンだと私は考えている。
「存在しない」死者ともコミュニケーションできるのであれば、異類とのコミュニケーションなどはるかにたやすいことである。
人間以外の霊長類は異種の生物を家畜として共生することをしない。
人間がそれを行うことができるのは、動物の鳴き声や表情を人間の声や表情に準じるものとして記号的に分節できるということである。
おそらく人間の特徴は「他者」(そこには死者も異類も含まれる)と癒合的なしかたで共-身体を形成することができるという点にある。
生物としてきわめて脆弱な人類が地上最強の種として君臨することになったのはこの「共-身体形成能力」によると私は考えている。
それゆえ、古伝のすべての「人間的教養」はこの能力の涵養に焦点化してきた。
例えば、儒家にいう「六芸」とは礼・楽・射・御・書・数であるが、儒における「礼」とは本来的には葬礼のことである。
死者とのコミュニケーションのために践むべき作法とは何か。
それは老師の言葉を借りれば「存在するとは別の仕方で」生者にかかわり来るものといかに応接するかという問いに向き合うことである。
「楽」とは音楽のことである。
音楽とは端的に言えば「もう聞こえなくなった音がまだ聞こえ」、「まだ聞こえない音がもう聞こえる」というかたちで「現存在」の「現」の桎梏を超え出ることである。
これもまた「存在するとは別の仕方で」私たちに触れてくるものとのかかわり方を教えている。
「射」は弓であり、「御」は馬術のことであるから、射・御とはすなわち本邦でいう「弓馬の道」すなわち武術のことである。
なぜ武術が「刀槍の道」と呼ばれず「弓馬の道」と呼ばれることになったのかについては『複素的身体論』に詳らかにしたので、ここでは繰り返さない。
「書・数」はいわゆる「読み書き算盤」のことであり、「言語記号の交換」と「財貨・サービスの交換」という三つのコミュニケーション・レベルのうちの二つを指している(第一のコミュニケーションである「女の交換=親族形成」は「礼」そのものの前提をなしている)。
ご覧のとおり、孔子が人として学ぶべきこととした「六芸」のうち、現在学校教育で教えられているのは楽と書と数だけである。
武術はまだかろうじて形骸が残っているが、その命は旦夕に迫っている。
もっとも重要な人間的教養である「礼」はもはや一部の葬礼のうちに名残りをとどめるばかりである。
人間は〈種の起源〉において人間を人間化した根本要件である「共-身体形成のためのコミュニケーション能力」そのものを失いつつある。
家族というのは、起源的には「礼」を学ぶための集団であると私は考えている。
「そこにいないひと」の「不在」を痛切に感知する訓練が「礼」の基礎となるからである。
それは死者の弔いというかたちをとることもあるし、やがて家族のうちの誰かから生まれてくる子どもへの期待というかたちをとることもある。
「もういない人」の不在と「まだいない人」の不在をともに欠如として感知する人々が「家族」を構成する。
それが解体しつつある。
そういえば、上野千鶴子の『おひとりさまの老後』という本には、「家族の不在(悼むべき祖先の不在、来るべき子孫の不在)を少しも痛みとして感知しない人間」になるための方法がことこまかに書かれていた。
だが、「もう存在しない他者」「まだ存在しない他者」の現時的な不在を「欠如」として感じとることは人間が種として生き延びるために不可欠の能力である。
この能力の重要性を過小評価すべきではないと私は思う。
あるいは上野はこの能力を選択的に攻撃することによって、人類の「種としての消滅」をめざしているのかもしれない。
たしかに地質学的スケールで考えれば、別に人類が「地上最強の種」として未来永劫地上に君臨すべきであるということはない。
ゴキブリとかウイルスとかが地上に君臨する時代が到来してもよろしいのではないかと上野が考えているとしたら(どういう人間的理由からそう考えるに至ったかは知らないけれど)、それもまた一つの人間的見識としなければならない。
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