たまのオフなのに愚痴ばかり

2007-11-01 jeudi

ひさしぶりの、ほんとうにひさしぶりのオフ。
ゆっくり朝寝をして、卵焼きとソーセージとトーストとスープの朝ご飯を食べて、日だまりで珈琲を喫しつつ新聞を読む。
うう、幸せ。
三宅接骨院に行って身体の補修をしていただく。
だいぶねじれている。
仕事しすぎですよ、と三宅先生にご注意を受ける。
へい。
待合室でいろいろな人に会う。
身体の不調で受診しているということは重要な個人情報に属するらしいので、ここで誰に会ったのかをこのような場では公開することはできぬのである。
不便な世の中になったものだ。
その伝で行けば、映画館で人と会っても、酒場で人と会っても、それはその人の思想信条無意識的欲望などを漏洩することになるから、公開することができぬ道理である。
いったい個人情報保護では(汚職した役人や警察官が実名公開をまぬがれたという以外に)誰がどのような利益を得ているのか、それについて法の制定者には説明責任があると思うのだが、どうなのであろう。
DVDプレイヤーが壊れたので、梅田の○ドバシカメラまで行く。
1年半ほど前に買ったDVDセットの一部なのであるが、店員は「1年過ぎたものなんか、もう売ってませんからね」とこともなげに言う。
そういうものらしい。
修理代がどれくらいかかるかわからないと言う。
修理にもって行くと(時計も鞄もDVDも)、必ず「修理代いくらまでなら出せますか」と訊かれる。
修理代が高額の場合は、新品を買った方が安くつくというのである。
だが、「修理代が新品を買うより高い」ということの意味が私の世代の人間にはどうしても呑み込めない。
DVDプレイヤーの故障だって、たぶん機械の中にダストが入り込んで読み取りが不自由になっているくらいのことであろうから、ばらして掃除すればたいてい直りそうである。
それでも最低3週間は見てくれと言われる。
そればかりか見積もりを訊いて、1万円を超すようなら、廃棄した方がよいというサジェッションを受ける。
このプレイヤーはコンポの一部であるから、これがないと他の機器との接続がうまくゆかない。
でも、もうこの製品は製造されていないのであり、修理部品もない可能性がある。
その場合は、コンポごと全部買い換えろということなのであろうか。
こういうビジネスモデルのどこが「便利」になったのか、私にはうまく理解できない。
むかしは家電なんかは買った店に持ち込むと、おじさんがその場でばらして、「あ、ここのパッキンがへたってるわ」というようなことをぶつぶつ言って、さくさくと直して「そうだな300円ももらっとくか」というふうにしてものの10分くらいで片が付いたのである。
どう考えても、昔のビジネスモデルの方がコストパフォーマンスが高いように私には思われるのであるが、私は間違っているのであろうか(たぶん間違っているのであろう。300円のパッキン交換に、見積もり、在庫確認、搬送などで3週間の手間ひまをかけて、1万円を請求する方がビジネス的には「正解」とされるのであろう)。
○ドバシカメラの店内のあまりの騒音の激しさに耐えられず、よろよろと外へ出る。
どうしてこのようなきちがいじみた騒音の中で働いたり、商品を選んだり、商品のスペックについて店員と話し合うことがそうでない場合よりも効率的であると判断されているのか、私には理解できない。
紀伊国屋で本を買って家に帰る。
次にいつオフの日があるかわからないので、引き続き元町の○丸に行く。
鞄の修理。
アクアスキュータムの鞄で私は気に入っているものなのだが、もちろん(!)もう製造していない。
修理をお願いして、「つなぎ」の鞄を買う。
ついでに靴も買う。
前から眼をつけていたフェラガモの靴。
「あまり外は歩かないでください。雨の日なんかもっての他です」と注意される。
絨毯の上を歩く用の靴なんですね、と訊いたらにっこりわらって「そうです」と答えてくれた。
しかたがないので、大学の「上履き」としてスリッパ代わりに使うことにする。
何か使い方が間違っているような気もするが。
電車で行き来したので、その間に車中で、岩村暢子さんの本『普通の家族がいちばん怖い』(新潮社、2007年)(アダチさんが送ってくれた)を読む。
岩村さんは「スティーブン・キングより怖い」とかの養老先生をして言わしめたほどに怖い本を書く人である。
『変わる家族変わる食卓』(2003年、勁草書房)は主婦数百人を対象に、「一日三食一週間分連続で、毎日の食卓に載ったものについて、使用食材の入手経路やメニュー決定理由、作り方、食べ方、食べた人、食べた時間などを日記と写真で記録してもらう」ものである。
これが怖い。
どう怖いかは実物を徴されたい。
体温が二度くらい下がる。
「ふつうのうち」でこんなものをこんなふうに食べていて日本社会がこの先続くのであろうかと不安になる。
この本の続きが『〈現代家族〉の誕生』(2005年、勁草書房)で、これはさきの調査で集められた主婦たちのメニューをその母親たち世代に見せて感想を聞いたものである。
「幼稚園の娘の朝食はカップ麺とプチトマト、前日はふりかけご飯と野菜ジュース。父は朝抜きで出社。母と息子はカップ麺。3人が食べたカップ麺の種類はばらばら、食べた時間もばらばら」「夕食は昨夜の残りとコンビニ弁当」「母と息子と娘の昼食は手作りカステラとカップ麺、残り物のブロッコリー、胡瓜の酢の物」などなどのメニューを見せられた60-70代の母たちは「こんなことをしているのは、ごく一部の人にちがいない」「これは子どものころからいい加減な食生活をしてきた特殊な人でしょう」といった反応を一様に示した。
「これはあなたの実の娘さんの作ったご飯です」と教えるとみなさん絶句されるそうである。
どうして娘たちがこんな悲惨な食生活をしているかというと、母親たちが彼女たちの娘に料理を教える必要を感じなかったからである。
母の世代からしてすでに「料理なんかどうでもいい」(それより学歴やキャリア形成が大事)がと思っていたのである。
食生活の崩壊は実は3世代がかりの「総力」をあげた努力の成果なのである。
これを「達成」といわずして何と言おうか(なんだか既視感のある言い回しであるが)。
これに似たことを三砂ちづるさんも『オニババ化する女たち』(光文社新書、2004年)の中で指摘していた。
出産育児についていまの30-40代の女性に普及している思想(妊娠出産を「不快な出来事」ととらえる発想)はその母親たちの世代から受け継いだものである。
「六十代、七十代の女性たちの多くは、自分たちのしてきた結婚や出産、そして夫との関係を、『楽しかった』と言いきれるようなものとは考えていないようなのです。『あんな結婚ならしなければよかった』『娘たちは出産を避けて通れるものならそうしてほしい』とさえ思っています。そしてそのような考え方は、現在の二十代から四十代の女性に見事に反映しているようです。」(29頁)
三砂さんが出産育児について指摘していることと、岩村さんが食生活について指摘していることはかなりの部分が重なり合う。
結婚、出産、育児、家事労働など、総じて家庭生活を成り立たせるために不可欠の諸活動は「アンペイド・ワーク(「父権制社会において男性に社会的リソースを占有させるために女性に強制された労働」)」にカテゴライズされるべきものであり、それゆえ女性たちはできる限りこの負荷を軽減し(理想的にはゼロにして)、一方できる限り多くの活動を「自己表現」「自己実現」に資するもの、できれば「有償」たらしめるべきであるというのが私たちの時代を支配している「男女共同参画社会」イデオロギーである。
別に誰に押しつけられたわけでもなく、私たちが嬉々として選びとってきたものである。
この食卓は日本人が総力を挙げて三世代にわたる努力の末に「達成」したものなのである。
クリスマスと正月料理に調査対象を絞った岩村さんの最近刊の本の中でいちばん怖かった話。
「クリスマスに家の窓やベランダにイリュミネーションを飾り立てる家」についての統計である。
「出した年賀状の枚数は電飾をする家(平均134.3枚)の方が電飾をしない家(平均113.3枚)より多くて、家族の写真入り年賀状を出す割合もやや高い。外へ向けて家族をアピールしたい気持ちがやはり強いということであろうか。だが、それよりも電飾をする家と電飾をしない家を比較すると、こんな違いが見えてきて興味深い。
クリスマス料理の種類も手作り率も、クリスマスケーキを手作りする率(電飾あり家庭6.1%、電飾なし家庭20.0%)も、電飾している家の方が低い。そして御節はほとんど全品目にわたって、電飾をしている家の方が手作り率が低く(例:「煮しめ」は、電飾あり家庭29.2%、電飾なし家庭60.8%)、御節の品目数自体少ないし、主婦が雑煮を作っている率も少ない。また自宅で家族で御節を食べている率(電飾あり家庭58.8%、電飾なし家庭70.9%)も低い。
さらに言えば、電飾している家では、親子一緒にクリスマスイベントに参加することも少なく(電飾あり家庭56.0%、電飾なし家庭82.4%)、親族と一緒にクリスマスの会食を楽しむ率も低く(電飾あり家庭4%、電飾なし家庭11.8%)、夫婦間でクリスマスにプレゼントし合う率も低い(電飾あり家庭8.8%、電飾なし家庭13.9%)。」(197-8頁)
まことに「興味深い」
岩村さんが指摘しているのは、外に向けて電飾をしてにぎやかにクリスマスを言祝いでいるかに見える家の方が、そうでない家よりも「家族一緒に」「仲良く」している率が低いということである。
私も「そうだろうな」と思う。
このような家の親たちの主たる関心は家族それ自身よりもむしろ、「この家族が外からどう見えるか」にあるからである。
「家族のひとりひとりの幸福や満足」よりも、「家庭が他人から見て幸福であるように見えること」が優先的に追求されている
それは「家庭の幸福」というものがもっぱら「社会的成功」の記号として機能しているということである。
そういう家ではおそらくすべての家族メンバーが「社会的成功の記号」として機能することを他のメンバーから期待されることになるだろう。
年収や学歴や特技など外形的・数値的なものしか記号的には役に立たない。
記号の条件は「誰が見てもすぐにそれとわかる」ということだからである。
「どこでも寝られる」とか「何でも食べられる」とか「誰ともすぐ友だちになれる」とか「相手の気持ちを配慮できる」というような資質は外形的には無徴候であるから、記号的には役に立たない。
だから、そのような能力の開発には現代の家族たちは誰も資源を投じない。
悲しい時代である。
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