「あの国」のやるべきことは

2007-10-20 samedi

イラク特措法をめぐっていろいろな議論がなされている。
「テロのない平和な世界」を望むことについては(武器メーカーと武器商人を除いて)世界中これに反対する人はいない。
問題は「テロのない平和な世界」を実現するためにどのような方法を採用すべきかについては国際社会の合意が存在しないということである。
現在日本政府が採用している「平和への道」はアメリカの対テロ軍事行動を支援するというものである。
この軍事行動が対テロ対策として成功しているのかどうかは判定がむずかしい(「成功している」とするためには、それ以外の条件をすべて同じにして、軍事行動以外のオプションを採用したときの世界情勢と比較するしかない)。
だが、現在のアフガンやイラクの国内状態を冷静に見て、これが「軍事行動以外のどのオプションを採択した場合よりも世界平和に効果的に貢献した」という判断に与する人は決して多くないであろう。少なくとも私はしない。
理由はテロリストを「国民国家の構成員」に同定し、その「テロリスト国家」を攻撃し、「反テロリスト的政府」を支援して「国土」を実効支配する戦略を対テロ軍事行動の根幹とするという発想そのものが間違っているからである。
現代のテロリストたちには固定した領土もないし、権力や情報がそこに集中している首都もないし、巨大な行政組織もないし、護るべき国民もいない。
テロリストを相手に古典的な意味での「戦争」をしかけることはできない。
過去に国際社会がテロ活動を軍事行動や経済制裁で効果的に抑制しえた例があるだろうか。
私にはリビアくらいしか思いつかないが、リビアは地理的に釘付けにされた古典的な意味での国民国家である。
リビアや北朝鮮相手にする場合と同じ軍略は変幻自在のトランス・ボーダー・テロリスト相手には通じないと思う(現に通じていない)
私は対テロのためにはまったく別の方法を案出すべきだと思っている。
その方法は国内でのテロ活動の頻発を効果的に抑止することに現に成功している国に学ぶのが合理的であろう。
さて、民主主義の発達した先進国中で、国内でのテロの抑止にほぼ完全に成功している国といえば、誰もが思いつくのは「水と安全がただ」の「あの国」である。
「あの国」はこのごろ外国からの観光客が年々増えている。
スキー場も温泉宿も海外からの旅行客でにぎわっているし、外国資本による国内リゾート地の買占めを着々と進行している。
理由を訊くと「この国は清潔だし、サービスがいいし、銃器を携行する人間がいないし、地下鉄車内で居眠りをしていてもかばんが盗まれないし、第一テロの心配がない。そんな国、他にありますか?」とのことである。
なるほど。
「あの国」のテロ抑止実績に対する国際的評価はずいぶん高いのである。
その成功の理由は「陸海空軍を持たない。交戦権は持たない」と謳った憲法にある。
その憲法が「あの国」をテロリストにとってさえ「安全な国」たらしめているのである。
たしかに「あの国」はテロ活動に対して無防備である。
歴戦のテロリストであれば、「あの国」の首都機能を麻痺させ、経済活動を混乱させ、国民を不安のうちに叩き込むことは容易であろう。
けれども、これまでのところテロ活動は行われていない。
なぜか。
それはテロ活動を行うことによってテロリストが期待できる「利益」と、しないことによって現に確保されている「利益」を考量したときに、後者の方が大であると彼らが判断しているからである。
「あの国」に今テロを仕掛けることは容易である。
だが、それをした場合に「あの国」の国民の圧倒的多数は「交戦権の放棄」を謳った憲法を棄て、増税を受け容れても軍備の増強に国力を傾注し、テロリストとの平和的交渉を支持する言論を圧殺し、対テロリスト報復に国民が撃って一丸となる「復讐国家」が誕生することが確実だからである。
アメリカと共同し、それどころからアメリカでさえ逡巡するような冒険主義的な「対テロ活動」を展開しかねない軍国主義国家を作り出すことから何らかの利益を得るものは国際社会に存在しない。
「あの国」の憲法九条はそれ自体は国際政治上ほとんど無意味な空文である。
けれども、その「空文」である憲法九条がテロを経験したことによって廃されることは国際政治上きわめて重い現実的な意味を持っている。
それは、異常に均質的で付和雷同型の国民性をもった「あの国」が先端的なテクノロジーと強力な経済力とその経済力にふさわしい軍事力をもって「復讐」のために(おそらくは国連の制止など意に介さず)血眼になるであろうという確度の高い予想が成り立つということである。
テロリストたちが「あの国」を襲わないのは、「あの国」に対するテロがテロリスト自身にとっての脅威を爆発的に増大させることを感知しているからである。
しかし、この合理的な計算にもとづく抑制は「あの国」がテロリストたちに対して現に軍事的な「脅威」となった場合にはもう効かない。
人は「いまそこにある危機」を回避するためになら「将来高い確率で予測される脅威」をすぐに勘定に入れ忘れる生き物だからである。
テロリストの思考の合理性を信じるには限度がある(かなり低めに設定しておいたほうがいい)。
「あの国」の対テロ戦略がある閾値(それがどのへんにあるか確実に予測できる人間はどこにもいない)を超えたところで「あの国」は国内におけるテロの可能性を考慮して、対テロのために国家予算の相当部分を投じなければならなくなる。
それがどれほどの社会的コストを要し、「あの国」の経済と国民生活にどれほどの影響を及ぼすことになるのか、計算したことのある政治家は「あの国」にはおそらくひとりもいないだろう。
「あの国」では今対テロ新法の制定をめぐって、「一国平和主義に満足していて、国際社会に顔向けができるのか」という「体面論」が幅を利かせている。
「一国平和主義」というのは興味深い言葉である。
「一国平和主義」の対概念は何であろうか?
「世界戦争主義」か、それとも「世界平和主義」か。
「一国だけが平和のうちに安んじているわけにはゆかない」というのなら、それに続くのは論理的には「わが国も戦争状態の苦しみを他国とわかちあおう」いうセンテンスしかない。
だが、「一国平和主義」が「とりあえず世界の一隅に平和を享受している希有なエリアが存在する」という意味であるなら、それに続くセンテンスは「他の国もわが国のように平和を享受したらどうですか?」となるはずである。
世界の一隅に奇跡的に「安全と水がただ」の国がある。
それは62年にわたる先人の努力の成果である。
少なくとも一国において平和は実現した。
ならば、そのような奇跡的な「一隅」を少しずつでも周辺に拡大することがその国の世界史的使命ではないのか。
そのような「一隅」で特権的に平和を享受することは「国際社会の笑いもの」になるから、そこも他と同じように絶えずテロに怯える場所になるほうが「フェア」であるというのはずいぶんねじれた発想のように私には思われる。
だが、いまメディアの誌面にはそのようないささかヒステリックで自虐的な文言が横行しているように思われる。
「あの国」の将来のために、いささかの危惧を覚えたのでここに贅言を記すのである。
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