対談と宴会の日々。
水曜が釈老師との「ジッポウ対談」。
これは本願寺系の宗教教養誌。プロデュースは当然 ”魔性の女“ フジモトである。
北野の老香港酒家にて、美味しい中華をいただきながら、日本人の霊性についてディープな対話。
発作的に「日本人の宗教は柳田国男の指摘するとおり、『先祖教』であるが、これがホロコーストの死者たちが『存在するとは別の仕方で』生者たちの規矩として機能するユダヤ人の宗教性と親和するのではないか」という変痴奇論を思いつき、暴走。
釈老師は私のどのような暴走的思弁にも、あの温和かつ思慮深い笑顔で応じてくださるので、暴走が止らない。
ちょうど『文藝春秋』から「日本人とユダヤ人」というお題での寄稿を依頼されており、その締め切りが日曜なので、これをそのまま使いまわしすることにする。
木曜は授業を2コやった後、京都へ。
東寺の境内で新作能『一石仙人』を拝見する。
秋の夕方はけっこう肌寒い。
同行のアダチさんは風邪気味。橋本麻里さんに「ホッカイロ」をもらい、ひざ掛けを半分わけてもらって観能。
これは翌日対談の相方であるワキ方の安田登さんが出ているので、ご挨拶をかねて伺ったのである。
「一石仙人」とはアインシュタイン博士のこと。
シテが相対性原理をツレとワキに説明するというたいへん教化的な内容の能である(いや、ほんとに)。
どうしてそれを能で演じなければならないのかがよくわからないけど・・・
終演後に安田さんにご挨拶だけして、解散。
金曜は会議が朝一つ、授業が一つ、それから会議が6つ(入試委員会、学務委員会、人事委員会、合否判定教授会、定例教授会、人事教授会)。
へろへろになって三宮の神仙閣へ。
安田さんと『考える人』のための対談の続き。
(前回の最後にちょっとだけ話題になった)どうして私が能をはじめたのかという話から始まって、能における「複素的身体」の構築、シテとワキの対話的構造、さらにはおどろくべき麻雀の甲骨文的解釈による古代中国のコスモロジーへと話頭は転々奇を窮めて要約することがかなわないのである。
しかし、麻雀については安田師からたいへん裨益するところの多いご教示があったので、この場を借りて甲南麻雀連盟会員諸氏はじめすべての麻雀愛好家にお伝えしておきたい。
諸君はなぜ麻雀には「筒子、索子、萬子」とあるかその理由を考えたことがあるだろうか(私はない)。
安田師は高校生のときに打牌のさなかにふとその疑念に取りつかれたのである。
西欧渡来のトランプは4種13枚で構成されている。
4×13=52
52とはすなわち1年間の週の数である。
ユダヤ・キリスト教文化圏では暦の基本単位は週である(7日に一度の聖なる安息日によって時間は分節される)。
4種は四季であるから、トランプは時の流れそのものを図像化したものと考えることができる。
麻雀はどうか。
東南西北の4種は方位をあらわす。
これはよろしいな。
では、白發中は。
これはよくよく見ると「黒がない」ということに気づくはずである。
ご存知のとおり、古代中国において宇宙は四神すなわち青龍、朱雀、白虎、玄武によって分節される。
これは空間的方位としても理解されるが、時間的表象としては青春、朱夏、白秋、玄冬の四季を表す。
麻雀には白、青、朱があるが、「玄」がないのである。
世界を表象する根本記号のうちのひとつが抜いてあるのである。
同じことは萬子にも言える。
筒子は「竹を輪切りにして見たかたち」である。
索子は「竹を横から見たかたち」である。
この二つは宇宙を空間的に表象するときの座標軸である。
ということは、萬子もまた本来は「何か」と対になっており、その対は論理的に考えると宇宙を時間的に表象するときの座標軸として機能していたはずである。
それが抜かれている。
高校生だった安田師は麻雀を打ちながら、その「失われた萬子の相方」とは何か・・・という底の深い問いに取り憑かれたのである(珍しい高校生である)。
その問いの答えを求めて安田師はなんと大学の専攻に甲骨文・金文解釈を選ばれたのである(珍しい大学生である)。
そこで師は「萬」の古字がある種の爬虫類をかたどったものであり、「亀」と酷似しているという事実を発見した。
「亀」といえば「鶴」。
鶴は千年、亀は万年。
つまり、論理的に言えば、麻雀にはもうひとつ鶴を象った「千子(せんず)」という牌種が存在しなければならないことになる。
結論を述べよう。
東南西北に白發中にもうひとつ「黒」を入れた四元牌、それに空間を表象する筒子と索子に、時間を表象する萬子と千子を揃えたものが古代中国に存在したはずの「原・麻雀」なのである。
このゲームのうちにはおそらく悠久の過去から永劫の未来までの宇宙の運行のすべてが書き込まれており、かつこのゲームを行う人はそれによって宇宙の運行を司っていたのであろう。
麻雀はしだいに洗練されて今日の形態になったのではなく、そもそものはじめから今のようなものとして突然に出現した。
ということは、それまで古代の知者たちがひそかに「原・麻雀」を「宇宙ゲーム」として行っていたものから二種の牌をあえて「控除」することによって「無害化」したものが人間に与えられたのではないかという推理が成り立つのである。
というのが安田師の麻雀宇宙論である。
すごい。
釈老師がかつて看破したごとくまさしく「人生は麻雀の縮図」だったのである。
こうなると、ぜひ三元牌に「黒」を、萬子の対に「千子」を入れた原・麻雀を作り、これで麻雀をした場合に世界にどのような変異が起こるかを試してみたくなるではありませんか。
おそらく「何か」が起こるのであろう。
しかし、せっかく古代の知者があえて禁忌とした「原・麻雀」である。
小人の賢しらをもって封印を解くべきではあるまい。
というような話をする(麻雀をしない人にはまるで意味不明の話なので、おそらく『考える人』には採録されないであろうから、備忘のためにここに記しておくのである)。
土曜日は合気道のお稽古のあと、またまた神仙閣で、今度は私の小林秀雄賞受賞を祝う会がある。
多田塾甲南合気会と甲南麻雀連盟の共催の一大イベントである。詳細についてはいずれ語る機会があるであろうが、今はただ声涙ともにくだる状にて「みなさん、ありがとう」とつぶやくばかりである。
生きてきてよかった・・・と思いました。
ほんとに。
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(2007-10-21 22:31)