キャリア教育再論

2007-10-15 lundi

大学教授会研修会。
キャリア教育について。
私は大学のキャリア・デザイン・プログラム委員会のメンバーで、今回の現代GPの起案者のひとりであるので、「大学教育におけるキャリア教育の意味」について基調報告を行う。
話はわりと簡単である。
なぜ、文科省は「キャリア教育の充実」を高等教育機関に求めるのか。
前に書いたように、これは「入り口」における「リメディアル教育」と対をなしている。
「リメディアル教育」が大学教育にキャッチアップできない学生たちに対する補習であるのと同じように、キャリア教育は大学を卒業したあとにうまく就労することができない学生たちに対する「補習」である。
人間はどうして労働しなければならないのか。
この社会にはどのような職種が存在するのか。
あなたにとっての適職は何か。
その職業に就くためには在学中にどのような知識やスキルを身につけなければならないのか。
まあ、そういうことを「手取り足取り」教えるわけである。
どうしてそういう補習が必要であるかというと、それをしないと、学生たちは放っておくと就労のモチベーションを発見できないままに卒業後に(あるいは中退後に)その大半がフリーター化する可能性があるからである。
フリーター問題が行政が青ざめるほどに喫緊の政治課題となったのは、当初は安価で雇用調整の容易な不正規労働力の供給元としてもちあげられたフリーター諸君が(可処分所得が生活を支えるぎりぎりであるため)消費活動がきわめて不活発であるのみならず、結婚するだけの資力がないために国民の再生産そのものが危殆に瀕してきたからである。
いくら安い労働力が潤沢にあるせいで短期的には人件費コストが削減できても、「マーケットそのもの」が縮小しては、ロングスパンでは資本主義に生きる道はない。
若いひとたちがフリーター化・ニート化するのを「自己責任」と放置しておいたら、日本資本主義の弔鐘の音が遠くから聞こえてきたので、産業界も行政も尻に火がついて、慌て始めたのである。それくらいのこと、誰でも少し考えればわかりそうなものであるが、なかなかわからないのが不思議である。
それで日本の子どもたちが卒業後にフリーターにならず、ちゃんと正社員になって永年勤続して、ちゃんと結婚もして、子供も作って、末永く健全な消費活動を行って資本主義市場を支えてくれるように、「キャリア教育」ということをやれと大学に対してうるさく言い立てるようになったのである。
めんどうな話である。
人件費削減のために雇用形態を激変させて、若者たちの労働するモチベーションを致命的に損なったのは、「そちら」の台所事情のゆえであって、大学のあずかり知らぬことである。
その「尻拭い」をどうして大学がせにゃならんのか・・・とちょっと「むかっ」とするけれど、仕方がない。
ほかにそういうことを代替する公的機関が存在しない以上、大学がやるしかない。
しかし、文科省が旗を振って始めてキャリア教育は10年ほどの試行錯誤の末、結局ほとんど水泡に帰した。
当たり前である。
だって、学生たちに「労働することのたいせつさ」を理解させるために、「自己利益の追求」を最優先しないと「脱落するぞ」と脅かしただけなんだから。
他人をおしのけて、とにかく自分だけは勝ち残れ、敗残者はみじめだぞ・・・というようなことを教え込むことのどこが「キャリア教育」なのか、私には理解できない。
たしかにそう教えれば、若い人たちはますますエゴイスティックになり、ますます共同生活や集団的作業に不適応な人間になってゆくであろう。
しかし、現在の若年労働者たちが置かれている劣悪な労働環境は、「自社の利益さえ上がれば、日本の若者たちなんかどうなってもいい」と思ってきた企業人たちの近視眼的な自己利益追求行動の帰結そのものなのである。
自己利益の追求のためには共同体を解体することを辞さず、断固として他者との共生を拒むようなタイプ人間が社会に増えすぎたせいで、若者たちの労働するモチベーションが低下しているときに、当の若者たちにむかって、「そういう人間」になって、他人を競争で蹴落とせ・・・と教えることが日本社会全体にとって、どれほどリスキーな選択であるのか、キャリア教育関係者はお考えになったことがあるのであろうか。
しかし、実際には「キャリア教育」の名のもとに、正社員に比べてフリーターはどれほど労働条件が不利であるか、とか休職期間が長いとどれくらい生涯賃金が目減りするか、とかそういうことが「労働のモチベーション」を鼓舞するためのデータとして学生に開示されている。
「あなたがた、こんなふうになりたくないでしょう?」と脅しをかけている。
それは要するに「金がないこと」が諸悪の根源であり、「金さえあれば」おおかたの問題はかたがつくという、私たちの時代にあまねく伏流し、そのせいで子どもたちが学びと労働への意欲を失い、他者との共生能力の開発を止めてしまった当のイデオロギーに同意署名することである。
もしほんとうの意味で学生たちに生涯にわたって労働し続けるモチベーションを賦活するような「キャリア教育」があるとすれば、それは「私の労働を喜びとする他者がいる、私からの労働の贈り物を嘉納してくれる他者がいる」という考え方を内面化することに尽くされると私は考えている。
自己利益の追求は人々が思っているほどにオールマイティなものではない。
というのは、人間は「自己利益の追求を後回しに、共同体全体のパフォーマンスを向上させることに快楽を感じる」能力によって、他の生物を圧倒する「強さ」を獲得した生き物だからである。
共同体の利益よりも自己利益の追求を優先させることが許されるのは、人類の歴史の中でも例外的に平和な社会に限定される。
もちろんそのような社会に生きられたことはたいへん幸福なことであるという判断に私は喜んで同意する。
絶えず餓死や凍死や肉食獣や敵対部族の襲撃におびえているせいで、共同体が一つの身体のように緊密に結びついている社会に生きるより、そのようなフィジカルな恐怖がないので、いくらでも孤独でいられる社会に生きられることのほうが100倍も幸福である。
だが、現代の日本はもうそれほど「例外的に平和な社会」ではなくなりつつある。
サポートしてくれる集団をもたない孤独な若者たちはしだいに「フィジカルな恐怖」の接近を予感しはじめている。
百万規模の日本人が、このままではいずれ金もなく、職もなく、家族もなく、誰からも尊敬されず、誰からも信頼されない孤独な老人として死ぬ可能性がある。
敗戦後の日本は今よりはるかに貧しかったが、45年―46年の冬はほとんど餓死者を出さなかった。
それは貧しい日本人たちがその貧しい食料をわかち合ったからである。
今のフリーターたちが老齢に達する頃に、彼らを扶養することを市民として「当然の義務」と考える日本人が何人いるだろうか。
もし「キャリア教育」というのが、十分な社会性を備えた共同体のフルメンバーを育て上げることを意味するのであれば、学生たちの利己心を選択的に強化するような教育には害だけがあって利がないと私は思う。
私たちの社会組織はオーバー・アチーブする20%と「とんとん」の60%と、「アンダー・アチーブ」の20%を含んでいる。
オーバーアチーブする人間はしばしば標準の5倍10倍のパフォーマンスの高さを示すことがある。
それはアンダー・アチーブの人々の不足分を補って余りある。
だから、つねづね申し上げているように、人間のつくる組織は「5人に1人がオーバーアチーブする」だけで回るように設計されているのである。
5人に2人がオーバーアチーブしないと動かない組織というのは、制度設計自体が間違っているのである。
そして、この「5人に1人」も別に固定メンバーではない。
どれほどポテンシャルが高い人間でも、誰もがかつては非力な幼児であったし、これからだって、病気になることもあるし、怪我をすることもあるし、トラウマ的経験に遭遇して生きる意欲を失うことだってあるし、いずれは老齢化して、足腰にがたが来るようになる。
そのような「アンダー・アチーブ状態の私」に対して、今の自分自身に対するのと同じような配慮を示すことが(いきなり実行できなくとも、とりあえず)必要であるということが理解できるというのが共同体の成員条件である。
「社会人になる」ということを単純に「金を稼ぐ」ということだと思っている人間は長期にわたって労働を続けることはできない。
そんな基本的なことを私たちは久しく忘れてきたのである。
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