生きていてくれさえすればいい

2007-10-03 mercredi

大学院の演習が始まる。
後期のお題は「家族論」。
この授業はこのまま講談社から『街場の家族論』となって刊行される運命にある。
街場シリーズはミシマくんの独占販売なのであるが、『下流志向』で講談社に拉致されたときに「07年度後期は講談社に売ります」という約束をしたらしい。
おそらくシャンペンなどを奢って頂いていい気分になっていたのであろう。
もちろん、私のことであるから、そんな約束は三歩歩いて忘れてしまった。
先日、講談社の編集者が3名神戸までいらして、ステーキハウスKOKUBUで「お店からのシャンペン」を飲んでいるときに約束を確認されて一驚を喫したのである。
「覚えていないねえ」という私も「たしかに言いました」と3人に言われては衆寡敵せず。
私は私個人の歴史認識問題においては基本的に「私の記憶」を棄却し、「ひとのいうこと」に従うことにしている。
ミシマくんにはまことに相済まぬ事をした。
ごめんね。
その「青田買い」の演習がちゃんと本になるような授業であるのかどうかをチェックするために講談社のA川さんが初回の演習を見に来る。
ところが初回の発表の渡邊さんは前期に発表ができなかったので、後期の第一回に教育論の仕上げとして「寺子屋論」をお願いしていたのを私は忘れていたのである(なんでも忘れる人間である)。
まあ、子どもの教育について論じるわけであるから、家族論と言えなくもない。
近世日本が世界でも例外的に「子どもをかわいがる社会」であったことは、幕末に日本に来た西欧の人々が仰天した記録がたくさん残っていることから知られている。
これほど子どもが幸福そうに暮らしている社会を他に知らないとさえ書かれている。
寺子屋についても記録はたくさん残っているが、絵を見ると、今の学校であれば「学級崩壊」的な状況である。
子どもたちはてんでに好きなことをしている(これは寺子屋の授業が全級一斉ではなく、子どもひとりひとりに与えられた課題が違うせいである)。手習いなんかしないでそこらへんを走り回ったり、まわりの子どもの邪魔をしたり、障子を蹴破ったり、上がり框から転げ落ちたりしている子どもいる。
もちろんおおかたの子どもたちはまじめに勉強しているんだけど。
総じて江戸時代までの日本人は子どもに甘かったようである。
理由の一つは幼児死亡率が高かったことにある。
江戸時代の平均余命は男子が20歳、女子が28歳である。
これほど低いのは、生まれた子供の7割が乳児幼児のうちに死んだからである。
だから、元気で遊んでいる子どもというのは「よくぞここまで育ってくれた」という感懐と同時に「この子は明日も生きているだろうか?」という不安とを同時に親にもたらす存在であったのである。
そういうときには、あまり子どもをびしびし鍛えるとか、そういう気分にはならぬものである。
もちろん西欧だって幼児死亡率は日本と似たようなものであるから、それだけでは日本人が例外的に子どもを甘やかしたことの理由にはならない。
だが、少なくとも現代日本の親たちの口から、わが子について「生きてくれさえすればそれでいい」というところまでラディカルな愛情表現のことばを聴くことはまれである。
それだけ子どもをとりまく衛生環境が向上したからである。
子どもが「生物学的に生き残ることが当たり前」になると、今度は「どのような付加価値をつけて、子どもを社会的に生き残らせるか」ということが親にとって切実な問題になる。
今の日本では、「子どもをどうやって社会的に生き残らせるか」という問いは「子どもにどうやって金を稼がせるか」という問いに書き換えられる。
「生き延びる力」と「金を稼ぐ力」は私たちの社会ではイコールに置かれている。
繰り返しここでも書いていることだが、これは人類史の中ではごくごく例外的なことである。
人類史の99%において、「生き延びる力」とは文字通り「生き延びる力」のことであった。
細菌や飢餓や肉食獣や敵対部族の襲撃や同胞からの嫉妬をどうやって「生き延びるか」ということが最優先の人間的課題であり、そのために必要な資質を子どもたちは最優先で開発させられたのである。
環境適応性が高いのでどこでも寝られ、なんでも食べられる、危機感知能力が高いので危ない目に遭わない、同胞との共感力が高いので誰とでも友だちになれる・・・そういう能力が「生き延びる」ためにはいちばん有用である。
けれども、これらの能力は「金を稼ぐ」という抽象的な作業には直結しない。
だから、現代日本のような極度に安全な社会においては、「生物が生き残るために最優先に開発すべき資質」の開発は顧みられることなく、ごく例外的な歴史的条件下でのみ有意である「金を稼ぐ能力」の開発に教育資源のほとんどが投じられることになったのである。
私はこのような歪みは日本社会が人類史上例外的に安全な社会になったことの「コスト」として甘受せねばならないと考えている。
つねに死の危険に脅かされているために「生物学的に強い子ども」でならなければならない社会と、とりあえず生き死にの心配がないので「生物学的に弱い子ども」でいても平気な社会のどちらが子どもにとって幸福かという問いに答えるのに逡巡する親はいないであろう。
でも、毎日の新聞を読んでいると、ローンが払えないせいで一家心中したり、進路のことで意見が違ったので親を殺したり、生活態度が怠惰なので子どもを殺したり、いじめを苦にして自殺する事件が起きている。
ローンとか生活態度とか進路とかいじめとかいうのは、すべて社会関係の中で起きている「記号」レベルの出来事であり、生物学的・生理学的な人間の存在にはほとんど触れることがない。
でも、そのような記号レベルの出来事で現に毎日のように人間が死ぬ。
社会が安全になったせいで、命の重さについて真剣に考慮する必要がなくなった社会では、逆に命が貨幣と同じように記号的に使われる。
社会はあまりに安全になりすぎると却って危険になる。
そういうこともあるのかも知れない。
「生きていてくれさえすればいい」というのが親が子どもに対するときのもっとも根源的な構えだということを日本人はもう一度思い出した方がいいのではないか。
寺子屋の話を聴きながら、そんなことを考えた。
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