とりあえず安定だよね

2007-10-02 mardi

福田新首相の所信表明があって、小泉・安倍二代の政権によってひっかきまわされたシステムの安定が回復されるという期待から、メディアはおおむねこれを好意的に受け止めている。
改革を持ち上げたり、安定に期待したり、お忙しいことである。
しかし、世の中というのは現にそういうものなのである。
小泉さんは「改革なくして成長なし」と言ったがこれは半分だけ真理という点では、「安定なくして成長なし」と言うのと変わらない。
社保庁の年金問題が起きたときに市場では何が起きたか。
ぱたりと車が売れなくなったのである。
車というのはだいたい割賦で購入するものである。
だから、将来的に安定した収入の当てがなければ大きな買い物はできない。
年金問題を安倍首相が当初は些事としてやりすごそうとしたのに、途中からあわてて信頼回復を言い出したのは別に社保庁の職員の怠業があまりに目に余ったからではない(どこだってお役人の勤務態度は似たようなものである)。
財界が激怒したからである。
年金不安になったせいで、いきなり消費が鈍化したじゃないか。
せっかく景気が回復しかけたのに、それに水かけるようなことをするなと首相を叱責したのである(想像)。
政治はおおかたが幻想的であるということはつねづね申し上げているとおりであるが、消費行動はさらに幻想的である。
あまり言われないことだが、消費行動は「現在手元にある金」ではなく、「将来的に手元にあるであろう金」を基準になされる。
経済学者はそういうことを言わない(だって「将来手元にあるであろう金」なんてひとりひとりが夢想している「画餅」なわけであるから、そのようなものを統計的に数値で示すことはいかなる経済学者にも不可能だからである)。
だが、このことは経験的にはたしかである。
みなさんも私に同意されるであろう。
人間は「明日の米櫃」のことしか考えない。
そういうものである。
手元にどれほど余剰資金があっても明日の収入のめどが立たなければ私たちは消費行動を抑制する。
手元にぜんぜん金がなくても、明日のめどが立てば私たちは金を借りても湯水のように金を使う。
現に、メディアが「景気回復の兆し」と報道すると、とたんにその次の連休に高速道路はワンボックスカーで渋滞するようになる。
連休に遊びにでかける善男善女はべつに財布の中身が突然潤沢になったわけではない。
テレビのニュースでの景況報道をぼんやり見ているうちに「明日の米櫃」についての楽観が忍びより、彼らをして「たまにはちょっと温泉でも行ってみるか、おい?」的な気分にさせるのである。
それが一気に集団的な規模で起きる。
バブルのときには時給750円のラーメン屋のバイトの少年がロレックスをはめていた。上野毛の家賃3万円の木造アパートの駐車場にはベンツやBMWが停めてあった。
別に彼らに金があったわけではない。
「明日の収入は今日より多いだろう」という儚い期待だけで人間はそういう無謀な消費行動をしてしまうことができるのである。
国民経済の帰趨はこの「明日の米櫃についての期待」によって決する。
だから、ようやく政府は年金や保険や介護について、総じて「生活不安の払拭」にわりと本気で取り組む気になったのである。
別に与党議員たちが急に博愛的な気分になったからではない。
「将来の収入についての安定した見通し」が立たないと、人々は消費を手控え、消費が抑制されると株価も雇用も不動産価格も知的イノベーションも全部衰退してしまうということを思い知ったからである。
日本には1500兆円の個人金融資産がある。
爺さん婆さんたちが老後の生活のために蓄えているものである。
老人の蓄えが多いというのは行政の老人福祉に対する信頼が低いということである。
福祉が充実すればこの金が市場に流れ出て高額の消費財の購入に当てられる。
だから年金制度や介護や医療や高齢者福祉の充実は短期的には財政に負荷をかけるが、長期的にはそれなしには経済の持続的成長もありえないのである。
老人がじゃんじゃん金を使わないと若者たちの雇用が確保できない。
そのことに与党の政治家諸君もようやく気づいてきたのである。
その結果、きわめて興味深いことだが、資本主義の繁栄を希う自民党の政策は次第に社会主義政党の政策に接近することになった。
これは「少子高齢化社会で、ヴォリュームゾーンの老人に社会的資源が集中している」というわが国の特殊な人口構成事情も与っているわけであるが、おそらく世界経済史上に前例を見ない事態ではないかと思う。
「老人にどうやって金を使わせるか?」という問いに電通や博報堂のプランナー諸君はいろいろな妙案をご提案してくださったであろうが、結局答えは年金、医療、介護制度の充実というたいへんシンプルなものに帰したのである。
人間は自分が欲するものをまず他人に贈与することでしか手に入れることができない。
ブラジルでのフィールドワークの結論として、レヴィ=ストロースはそう書いている。
マトグロッソのインディオも高度消費社会の日本人も、人間である以上行動パターンに違いはないのである。
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