テレビの仕事

2007-09-15 samedi

福田康夫と麻生太郎が生出演する「報道ステーション」を見る。
私はもともとテレビをまるで見ない人間なのであるが、「選挙速報」を甲野先生たちとわいわいツッコミを入れながら見たときに癖がついて以来、政治番組だけは一人でも見ている。
古舘伊知郎のインタビューを聴きながら、なんだか違和感を覚える。
彼は何か有用な情報を聞き出したいのか、それとも「質問してもきちんと答えない」様子を生放送で全国に放送したいのか、そこのところが私にはよくわからなかった。
相手が答えにくいような質問をして、その絶句するさまや、答えをはぐらかすさまから、その人の人物識見度量などを判定するということはたしかに可能である。
劫を経たジャーナリストの中には「それだけ」しかテクニックがない人(T原S一朗とか)もいる。
セレブたちが思いがけない質問に対応に窮するさまをみて視聴者が溜飲を下げるとか、爽快感を覚えるということもたしかにあるだろう。
けれども、そういうのを継続的に見せられていると、だんだん「いやな感じ」が私はしてくる。
それはそれが「査定する視線」を内蔵させているからである。
「有権者に対して、どう説明責任を果たすおつもりですか?」というような質問は修辞的には質問のかたちをとっているが、実際には相手が答えられないことを知っていて、この窮状をどうしのぐのか、その「お手並み拝見」という高みの見物者で自分があることを確認しているにすぎない。
私はこの種の修辞的質問が嫌いである。
それは負けたチームの監督が選手たちを前にして「どうして負けたのか、お前たちはわかってるのか?」と訊いているのと同型のものである。
この質問に正解すれば、「なぜ、負ける理由がわかっていて、おまえたちは負けたんだ?」というさらに答えにくい次の質問がなされる。
だから、このような質問には誰も答えないで、じっとうつむいている。
その無言の時間が長ければ長いほど、監督と選手のあいだの権力関係の非対称性は強化される。
だから、相手に対して政治的優位に立とうとする人間は、本能的にこの種の「答えることの出来ない質問」を向けて、「査定者」の立場を先取しようとする。
私はそういうゲームを飽きるほど見てきた。
そして、そのゲームが「査定者」の地位を先取りした人間の自己満足以外にほとんど何も生産しないということを学んだ。
相手の話を遮って、選択的に「答えにくい質問」を向ける人間が求めているのは回答ではなく、優位性である。
総裁候補をテレビのスタジオに「呼びつけ」て、答えにくい質問の前で青ざめるのを「ショー」として見せることで、「国民主権」ということのリアリティを私たちは確認しているのかもしれない。
オレたちが「査定者」で、あんたたちは「査定される側」なんだぜ。
古舘くんはそういう甘い幻想を視聴者に提供したいのかも知れない。
それがメディアが大衆に提供できる数少ない快楽の一つであることを私はよろこんで認める。
けれども、敗戦チームの選手たちが黙ってうつむいて監督の罵詈に耐えているとき、彼らが「いつかはちゃんと監督の質問に胸を張って答えられるように、これからはがんばろう」と内心決意を新たにしているというふうに私は考えない。
「うっせーな。ばかやろう。早くおわんねえかな。ああ、くっだねーことばっかねちねちいいやがって」としか私なら考えぬであろう。
福田康夫と麻生太郎の内心を私はいま代弁したのであるが、措辞は多少違っても、これにかなり近いものであったろう。
権力をもつ政治家にメディアが屈辱感を味合わせることができるというのは国民にとって一つの権利である。
しかし、それによって彼らがこの先メディアに対して「より嘘つき」になることはあっても、「胸襟を開いて、率直に真情を吐露する」ようになるということは期待できないと私は思う。
他人の「嘘の付き方」を見破る術に習熟するというのはひとつの社会的能力である。
それがあれば、私たちはその人が嘘をついているということはすぐにわかるようになる。
けれども、それはその人がほんとうは何を考えているのかを知ったということとは別のことである。
テレビは「嘘をついている」徴候を検知する点についてはすぐれたメディアであることをテレビ界の人々は熟知されているであろう。
けれども、テレビが「ほんとうに言いたいこと」を聞き出すためのメディアではないことについて、彼らはどこまで痛みを感じているのだろうか。
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