昼寝のすすめ

2007-09-16 dimanche

夏休みもあと一週間でおしまいである。
今年はほとんど休みらしい休みがとれなかった。
海にも山にもゆかなかった。
唯一の夏休みっぽさは「昼寝」を存分にしたことだけである。
昼寝というのは不思議なものである。
抗しがたい眠気に屈して、よろよろとベッドに倒れ込んで眠りに入るときには至福のヨロコビが訪れるのであるが、目が醒めたときにはべっとり汗をかいていて、頭はぼおっとして、日は西にすでに傾き、無為に何時間かを過ごしてしまったことへの悔いに臍を噛む思いをする。
幸せの予感で始まって、後悔と自己嫌悪で終わる。
なんだか人間的経験の縮図のようである。
そのような縮図的経験をほぼ毎日繰り返していたことになる。
ところで、人間というのは「一夜明けると別人」というペースでだいたい変化するわけであるが、昼寝をすると、これが別人になるチャンスが一日二回訪れるということになる。
「昼寝前」に頭の中にぎっしりとひしめいていた思惑やら不安やらは「昼寝後」になると雲散霧消とはいわぬまでも、その圭角を失って、なんだかうすらぼんやりしたものになっている。
「寝る子は育つ」といい、私の小さいころ、子どもたちはむりにでも昼寝をさせられていたものだが、あれは生理学的理由だけではなく、「昼寝をする子どものほうが精神的にも成長が早い」ということが経験的に知られていたからではないだろうか。
基本的に「人間的成長」というものはだいたいが「それまで非常に気になっていたこと」が「後で考えたらどうでもよくなる」という形式でなされるものである。
私の経験からして、昼寝というのはそれに似た心理的効果をもたらす。
だいたい私はリゾートに行っても、ほとんど昼寝している。
2年前にハワイに1週間行ったときも、ひたすら昼寝をし続けて、兄に「よくそれだけ寝られるものだ」と感嘆されたことがある。
温泉でもいちばん気分がいいのは、昼風呂に浸かったあとに、ちょっと昼ビールなどを飲んでそのまま浴衣のままごろんと畳の上で寝てしまうときである。
昼寝から起き出したあとに最初につぶやくことばもそういえばつねにどことなく達観をにじませたものであった。
「さあ、それではしゃきしゃきとことをすすめましょうか」というようなことばは決して口にされず、「なもん、どーでもいいじゃないの」というようなけだるい言葉だけが選択的に口を衝いて出てしまうのである。
イタリアやスペインの諸君があまり働いていないわりには、どうも「大人」っぽい雰囲気を漂わせているのは、彼らがこまめにシエスタをすることと無関係ではないのかもしれぬ。
昼寝は戦争とか投資信託とかM&Aとか、そういう殺伐としてものともなじみがよろしくない。
日本人のとげとげしい社会的未成熟はあるいは昼寝の不足に由来するのやも知れぬ。
「クールビズ」よりも「サマータイム」よりも、「日本中、午後1時から3時までシエスタ」ということにした方が日本の霊的成熟には資するところがあるのではないか。
少子化対策には間違いなく有効である。
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