朝日新聞広告局主宰の「関西・女子大シンポジウム 女性が未来を切り開く-女子大が果たす役割とキャリア形成」というものに出るために肥後橋のリサイタルホールに行く(ここは先月『トランスフォーマー』の試写会に来て、帰りに日清焼きそばUFOのおみやげを頂いたところである)。
第一部は基調報告でフリーキャスターの草野満代さんがNHKアナウンサー時代のご苦労と女性の自立についてお話をされる。
第二部は大阪樟蔭女子大(森田洋司学長)、武庫川女子大(たつみ都志教授)、京都女子大(槇村久子教授)、そして本学から私と関西エリアの女子大4校から1名ずつパネリストが出て、朝日新聞の論説委員の川名紀美さんの司会で女子大の社会的役割とキャリア教育を論題にあれこれと論じるという趣向である。
ご案内のように、私は「女子大の社会的役割」というのは言語化できないというのが持論である。
女子大の社会的役割というのは、ドミナントなイデオロギーと価値観に対するラディカルな批評性のうちに存するのであるからして、それを適切に言い表す語彙が「現代用語」のうちには存在しない(はずなのに、こういうふうにぺらぺら言えてしまうところが不思議である)。
ともあれ、キャリア形成とかエンパワーメントとかいうことを私が好まないのは、それが「現在ドミナントなイデオロギー」を無批判に映し出しているからである。
「女性はどんどん社会に出て、リーダーシップを発揮せねばならない」というフレーズはコンテンツが「現代風」に変わっただけで、「女性はすみやかに結婚して良妻賢母にならねばならない」というフレーズと「言い方がなんか威圧的」という点では変わりがない。
それは、その時代において公認されている「正しい女性像」に全員を規格化しようとすることであり、規格を押しつけられる側からするとあまり愉快な経験ではない(と思う。女子学生じゃないからわかんないけど)。
私は人を「型にはめる」のも他人に「型にはめられる」のもあまり好きではない。
私の場合、楽しくないからである。
もちろん世の中は広く、そういうことが楽しくてしかたがないという人もたくさんいるのであろう(そうでなければドミナントなイデオロギーは「ドミナント」にならない)。
そういう人たちは同好の士を集めて好きにされたらよいかと思う。
その代わりに、「そういうのはどーもね」という人たちのことはできたら放っておいて欲しいと思う。
私のゼミの教育方針はご存じのとおり「好きにしなさい」(fais ce que voudras) というものである。
ラブレーの「テレームの僧院」の戒律といっしょである。
これはたいへんお気楽な戒律である。
というのも、これは「人はいつでも自分の好きなことだけをやらなければならない」という禁則を含まないからである。
「私は・・・しかしない」という禁則があると、人間の生き方はたいへん不自由なものになる。
自由を求める精神はそれゆえ「私はつねに自由でなければならない」というような当為の言葉さえ口にしないのである。
自由というのは「自由という概念をどう定義するかについての自由」をも含んでいるメタ概念だからである(この点で私はハイエクさんといささか意見を異にする)。
例えば、「言論の自由」というのは、「『言論の自由』っていうけどさ、ちょっとそこまで言うのは非常識じゃないですか・・・」という「言論の自由」概念を吟味する言論の自由をも含んでいる。
むろん「『言論の自由』を吟味する言論の自由なんてあるわけねーだろ。非常識なのはお前だよ、バカ」と述べる言論の自由も含んでいる。
自由というのはご覧の通り、実は「一筋縄ではゆかないもの」なのである。
だから「好きにしなさい」というのは、外見ほどにお気楽な戒律ではない。
そもそも知性の自由というのは、「私が自由に思考しているのか思考していないかを私自身は決定することができない」という不能の自覚から始まるからである。
であるから「好きにしなさい」と私に言われたからといって、「わーい」と喜んではいけない。
よくよく考えると、ウチダに「好きにしなさい」と言われたので、「そうか、好きにすればいいのか。よし! 今日から好きにしよう」と思ったという当の事実が単に「ウチダに洗脳されただけ」ということかも知れないからである。
「私は好きにしているだろうか?」という自問にそう簡単にイエス、ノーの答えは出ない。
だから、「好きにしなさい」という私の言葉にうっかり従ってしまった人は、それ以後「エンドレスの葛藤」を引き受けることになる。
でも、私は教育の本義というのは若い人たちの精神の中に「終わりなき葛藤」を導き入れることのうちに存すると考えているから、それでよいのである。
私はよいのであるが、学生諸君は困るであろう。
気の毒なことである。
というような話をする(話半分)。
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(2007-09-16 19:19)