忙しい日曜日

2007-09-10 lundi

爆睡から目覚めたら午前10時。
げ。
10時から居合の稽古がある。
ソッコーで芦屋まで行くが30分遅刻。
居合はまだ自主稽古ができる段階ではないので、集まった諸君が困惑されていた。
どうもすみません。
とりあえず基本動作から稽古を始める。
この居合の自主稽古は合気道の稽古の一環をしてやっているので、ふつうの居合とは身体運用が少し違う(ほんとうは同じかもしれないが、現在の全剣連の居合道とは説明の仕方が違う)。
体術で相手を「敵」とみなさないように、剣を「道具」とはみなさない。
剣といかにして複素的身体を構成するか。
人間に比べると剣は構造がシンプルで、自分から勝手に動かないし、関節もないし、筋肉もない。
でも、剣には固有の生理があり、ある初期条件を与えると、そのあとの「最適動線」は自動的に決まる。
剣を抜き、構え、ある種の初期条件(切先の起点と終点)を入力すると、剣は「最適動線」を求めて動き始める。
人間のとりあえずの仕事はこの剣の自発的な動きの邪魔をしないことである。
剣には剣のご事情があり、お立場というものがある。
だから剣の運動に対してレスペクトを示されなければならない。
人間が作為的に操作しようとすると、剣はそのポテンシャルを発揮することができない。
これは体術の場合と同じである。
というか、ビジネスだって、子育てだって、どれも原理は同じである。
「動く」のは剣の仕事であるから、人間の仕事は「止める」ことだけである。
けれども、これはほんとうにむずかしい。
剣の動きが弱々しいものであれば、止めるのは簡単である。
剣がそのポテンシャルを発揮すればするほど、それを止めるのは困難になる。
片手一本の筋肉の力で止められるような剣勢では、そもそも人は斬れない。
剣を止めるためには全身を使わなければならない。
ところが、剣勢がほんとうに強いときには全身をつかっても間に合わない。
というより、操作する人間の全身の筋肉を動員しても止めることができないような剣でなければ、据え物斬りで兜を両断するようなことはできないであろう。
操作する人間の全身の筋肉を動員しても止められないものをどうやって止めるか。
一番簡単なのは、それで何かを「斬ってしまう」ことである。
人間の身体を斬れば、皮膚があり、脂肪があり、筋肉があり、骨格があり、それらの抵抗で剣勢は衰える。
斬る人、剣、斬られる人が「三位一体」の複素的構築物を完成したとき、剣はエネルギーを放出し切って、初期の安定を回復する。
剣はほんらいそのように作られている(と思う。そんなこと書いた伝書を読んだことがないのでわかんないけど)。
ところが居合の稽古の場合、「斬られる人」がいない。
「斬られる人」が担当する「剣勢を殺ぐ障害物」の役割を誰かが担わなければならない。
これを「斬る人」が担当すると、あっというまに肘が破壊され、膝が破壊される。
当たり前といえば、当たり前である。
剣が蔵しているエネルギーはたいへん巨大なものだからである。
居合を長く稽古している人たちの中には肘か膝かあるいはその両方に故障を抱えている人が多いが、これは剣勢を強化する技法の開発に軸足を置いて、剣勢を減殺する技法の工夫に十分なリソースを割かなかったことの結果である。
斬られる人がいないという不利な条件下で、暴走する剣をどうやって止めるか。
これは居合の提示する根源的な「謎」の一つである。
およそあらゆる「道」はいずれも根源的な「謎」を蔵しており、それが修行者たちに(それぞれの技術的な発達段階に応じて)エンドレスの技法上の問題を差し出す。
私が今取り組んでいる「謎」はこの問題である。
斬られる人がいないという不利な条件下で、暴走する剣をどうやって止めるか。
斬る人が止めようとすると身体を壊す、ということはわかっている。
じゃあ、誰が止めるのか。
理論的には剣に止まっていただくしかない。
「止める」という人間を主体とした他動詞的能作を断念して、「止まる」という自動詞的な状態の到成を工夫するのである。
「斬られる人」抜きで、剣と私だけを構成要素とする剣人複合体が、「止まることによって安定を回復する」のはどういう状態においてであるか、それを考える。
理屈はそうである。
「理屈がわかる」ということと、「できる」ということは違う。
理屈はわかるが、実際に「じゃあ、やってみせろ」と言われても私にはできない。
けれども、この方向で稽古して間違わないということはわかる。
剣人複合体をどのようにして構築するか。
とりあえず剣と仲良くする。
古来、武士がほとんど同衾して愛撫するほどに剣を丹念に手入れしたのは、剣との皮膚感覚的なコミュニケーションの重要性を熟知していたからである。
剣に童名をつける、というのもその一つである。
源頼光の愛刀は「膝丸」(途中で改名して「蜘蛛切丸」)、三条小鍛冶宗近が打ったのは「小狐丸」、渡辺綱の愛刀は「鬼切丸」。古来、日本人は剣を「童子」に擬す習慣があった。
童子というのは網野善彦さんの「異形の王権」にあるとおり、中世日本以来、「秩序にまつろわぬもの」のことである。
大江山の「酒呑童子」も「八瀬童子」も子どもではない。
平安時代において牛飼いは童形、童名であったが、これは「牛」という当時最大の野獣とコミュニケーションする能力をもっている人間たちへの違和感と畏怖の存在したことを示していると網野さんは書いている。
半ばは私たちとは別の秩序に属しており、私たちが操作することのできぬ巨大な力にアクセスできるもの、それが「童子」であるとするならば、剣に童名をつける習慣には、そのような魅惑と畏怖の感情が伏流していたと考えることできるであろう。
「剣とのコミュニケーション」という論件は、このあともひさしく私にとっての技法的・理論的な宿題であり続けるであろう。
そう考えると、中教審の「武道必修化」のような安直なプログラムにまた腹が立ってくる。
武道というのは外形的には誰が何といっても、効率的にひとを殺傷する技術である。
それを適切に統御するためには、「よりよく生きるためには他人を殺す技術を学ぶ必要がある」という前提から導かれる必然的な結論「私が最大限の自己実現を果たし得た社会とは私以外のすべての人間が死に絶えた社会である」という根源的なパラドクスに「深く困惑する」ことが必須である。
武道の手柄はそれを学ぶ人をひたすら「深い困惑のうちに叩き込む」ことに存する。
あらゆる術はそういう本態的な「謎」をはらんでいるがゆえに生産的なのである。
中教審の委員たちには、そういうことがご理解いただけているのであろうか。
たぶん考えたこともないのであろう。

居合の稽古を終えて、今度は湊川神社の神戸観世会へ。
能『錦木』の途中から、狂言『萩大名』、仕舞(下川先生の『白楽天』と家元の『江口』)、能『巻絹』。
帰りに芦屋川によって「スミレ」で散髪。
家に戻って、自分が作ったカレー(冷凍)と石川茂樹くんが送ってくれたレトルトカレーを食べ比べつつ、「阪神―巨人」戦を見る。
最後に鳥谷の三塁打で阪神が首位をキープ。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」というのは武道の古諺である(麻雀の古諺でもある)が、阪神の10連勝は「不思議の勝ち」の方である。
このまま勝ち進んで、飯先生が上機嫌で後期をお迎えになられることができればよいのだが。
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