またまた東京へ

2007-09-11 mardi

またまた東京へ。
こんどは文春のみなさんによる祝賀会である。
『寝ながら学べる構造主義』以来、文春とはけっこう長いお付き合いとなった。
文庫も出してもらったし、『文学界』に連載もしたし、『文藝春秋』にも何度か寄稿した。
今回の受賞作も文春新書で出していただいたものである。
お礼を言わねばならぬのは私の方なのであるが、先方がお祝いをしてくださるというので、ほいほいと東京へ行く。
学士会館にチェックインして、まず『週刊ポスト』の取材。
少子化問題についてコメントを求められる。
どうして私のような門外漢にそのような問題のコメントを求められるのか、いつも疑問である。
専門家の方々がすでに熟知されている以上のことを私が知るはずもない。
人口はマクロな尺度をとっていえば、環境の「キャリング・キャパシティ」にしたがって変動する。
13000万人が現在の日本の自然環境・社会環境にとって負荷が重すぎ、全員にじゅうぶんな資源を分配することができないということが実感されれば、人々は人口の増加を抑制しようとするであろう。
当然のことである。自然環境は食料をふくめてまだいくぶんか余裕がありそうだが、社会的資源の分配についてはすでに不満が鬱積している。資源の供給の急激な増加が見込めない限り、分配しなければならない頭数を減らす方向にシフトするのは生物学的にはごく自然なことである。
その限りでは、少子化は「問題」ではなく、問題に対する「解答」である。
少子化がこれほど急激に進行したのにはほかにも理由がある。
つねづね申し上げているように、1980年代から全般化した「個人の原子化」趨勢がそれである。
親族、地域社会、企業などの中間共同体への帰属を「自己決定・自己実現」の障害要素とみなし、スタンドアロンで生きることを「善」としたさまざまな言説(広告からフェミニズムまで)にあおられて、日本人は「原子化」への道を歩んだ。
個人の原子化は最初は「市場のビッグバン」をもたらした。
四人家族が消費単位だった場合、「家族解散」がもたらすのは消費単位の四倍増である。不動産に対する需要も、家財に対する需要も、サービスに対する需要も、急増する。
消費単位の個人化はそうやってバブル経済を下支えした。
けれども、非妥協的に自分らしい生き方をつらぬく原子化した個人のアキレス腱は「共同体を作れない」ことである。
「共同体を作る」というのは日常的実感としては単に「不愉快な隣人の存在に耐える」ことだからである。
何が悲しくてそのような苦役に耐えねばならぬのか。
配偶者も子供も、原子化した個人にとっては、「自己実現のみごとな成果」(彼または彼女の社会的能力の高さを誇示する記号)であり、そうでない場合は「自己実現の妨害」である。
原子化した個人は他人の「自己実現の成果の記号」であることを受け容れないので、自動的に親族は他のメンバーにとっての「自己実現の妨害者」になる。
というわけで家族は自由な消費活動を求めて解散し、相互に相手を「道具化」しようとするヘーゲル的な主人と奴隷の弁証法的抗争を展開し、最終的に「だったら家族なんか要らない」という合理的な結論に落ち着いたのである。
ひとりひとりが好き勝手な消費行動をとることで市場が拡大することを奨励したのは日本政府である。
自己決定・自己実現・自己責任、そして「自分探し」イデオロギーを宣布したのも日本政府である。
その犯意が日本政府の要路のひとびとにないことが問題なのである。
柳沢厚労相が「産む機械」発言でメディアからバッシングされたが、私はあの発言の中で問題なのは、むしろそれに続く「ひとりひとりにがんばってもらわねば」という部分だったと思う。
ここには少子化はすべて女性個人の決断の結果であり、この事態に日本政府はなんらの責任もないという認識がはしなくも露呈している。
繰り返し言うが、少子化趨勢は日本政府が80年代以来推進してきた国策の「成果」である。
いまさら政府が「少子化問題」などと困ってみせるのは茶番以外のなにものでもない。
少子化問題を論じるなら、まずこのような事態の招来に政府自身がどれほど積極的にコミットしてきたのか、その「失政」のチェックから始めるべきであろう。
彼らが少子化を「問題」だと考えるのは、行政のサイズを今のままに維持するには納税者の数が少なすぎるからである。
納税者の数が減るなら、それにあわせて行政機構をダウンサイジングするのが論理的なソリューションであるが、役人は原理的に「行政機構のダウンサイジング」という発想ができない。
「納税する国民が少なすぎる」のではなく「税金を使う人間が多すぎる」のであるが、そういう状況理解を役人はしないのである。
というような話をする。
私自身は(いつものことだが)わりと楽観的であり、少子化が進行すれば(明治時代の5000万人くらいまで減少すれば)、それはそれで日本社会は今より住みよくなるだろうと思っている。
少子化を食い止めようと思ったら、「人間は共同的にしか生きることができない(だから、不愉快な隣人の存在に耐えよう)」という当たり前の人類学的事実をもう一度国民的規模で再確認するしかないのであるが、それが実現するということは「日本人がみんな大人になる」ということであるから、これまた日本社会はたいへん住みよくなる。
つまり、どちらに転んでも、日本は住みよくなるので、「少子化問題」というのは存在しない、というのが私の暴論なのである。
そのようなものをメディアが掲載してよろしいのであろうか。
『ポスト』の取材が終わったので、文春に。
こんどは『週刊文春』の取材。またばしゃばしゃ写真を撮られる。
どうして、メディアはこんなにひとの顔写真を載せたがるのか。
そんなものを見たからといって、発言内容についての理解が深まるとはどうしても思えない。
むしろほとんどの場合「こんな間抜けな顔したやつなのか・・・」という思いを読者たちに抱かせることで、内容への信頼性は減殺されるはずである。
自社の報道する内容の信頼性を毀損することでメディアはどのような利益を得ているのか、そのあたりのことをいつもスルドク伺うのであるが、あいまいな笑いしか返ってこない。
もうこれからは「写真を撮るなら取材には応じない」ということにしようかしら。
それなら取材依頼は激減するというか、ひとつもなくなる。
ずいぶんせいせいすることであろう。
それから文春の担当者のみなさんと麹町の四川飯店へ。
嶋津さんはじめなじみのみなさんと久闊を叙す。
編集者たちとおしゃべりをすると話題はもちろん作家たちにまつわる「ここだけの話」の数々である。
ええええ〜、そうなんですか。あの人、そういう人なんだ・・・
という愉快なバックステージ話に花が咲いたのであるが、もちろんそんなことはここに一言とて書くわけにはゆかぬのである。
当然、彼らはまた違う相手には「ここだけの話ですけど、ウチダってね・・・」と盛り上がるのであろう。
ああ、それを聞きたい。
河岸を変えてホテルニューオータニのバーでさらにおしゃべりが続く。
だんだん酔ってきたので、文学の話はもうやめてロックと V シネマの話に興じる。
新書担当のF越くんが『ミナミの帝王』のヘビー・ウオッチャーであることが知れて、ふたりで竹内力の演技と私生活についてするどく専門的な意見を交換する。
宴の中で、さまざまな機会に「次の仕事」についての言及があるが、どういうわけかそのようなトピックについては突然人語が理解できなくなるのが不思議である。
文藝春秋のみなさん、ごちそうさまでした!
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