県と県下の大学の共催事業があり、その幹事会というのがあるので炎天下神戸まででかける。
近いんだけどね。
車で15分くらいである。
お役人の仕切りで、大学人が30人くらい坐って、お話をうかがい、いくつか議案を承認する(別に挙手をするわけでもない。全員がおし黙っていると「承認された」ことになる)。
事業自体はたいへんよいものだし、役所の準備も遺漏のないものなのだけれど、自分が何のためにここにいるのかの意味がよくわからない。
ここにいるのは各大学を代表して賛意を(無言で)表示する人間なら「とりあえず誰でもいい」というリアルでクールな事実が私を疲労感のうちに沈ませる。
人間は「別にあんたじゃなくても、いいんだよ」と言われると(言われなくても)、出口のない脱力感を覚えるものである。
「あんた程度の人間なら、いくらでも替えが利くんだ」と言われると私たちが深い疲労感に襲われるのは、それが「ほんとうのこと」だからである。
私たちは「いくらでも替えが利く」というのは動かしがたい事実なのであるがゆえに、その事実を示されると哀しくなるのである。
私たちはどんな批判でも、事実ではないことをいくら言われてもあまり傷つかない。
私は「ウチダは堅物だ」とか「ウチダは細かいことにこだわりすぎだ」とか「ウチダは痩せすぎだ」とか言われてもぜんぜん無反応であるが、「ウチダは卑屈なところがある」とか「ウチダは鷹揚に見せているが吝嗇だ」とか「ウチダはデブだ」とか言われると深く落ち込む。
言われて傷つくのはそれが「不当な指摘」だからではなく「妥当な指摘」であることを私が知っているからである。
厄払いに神戸大丸に出かけて、ワイシャツの「大人買い」をする。
帰りにL.L.Beanで秋冬ものをまとめ買いする。
少し気分がよくなる。
家にもどってレヴィナスの翻訳の続き。
『デス・プルーフ』を見たらカート・ラッセルの映画をまとめて見たくなったので、未見の『NYからの脱出』と『LAからの脱出』と『遊星からの物体X』をアマゾンで購入。その第一弾が届いたので、『NY』を見る。
つ・・・つまらん。
1997年にマンハッタン島全体が刑務所と化し、そこに犯罪者は「島流し」されて二度と戻れない。そこに大統領の乗ったエアフォース・ワンが不時着し、アイパッチのスネーク・プリスケン(カート・ラッセル)が恩赦と引き替えに、大統領救出に向かう。制限時間は24時間・・・という物語の設定は最高なんだけれど、犯罪者たちのマンハッタン島での生活ぶりにリアリティがない。
何万人かが暮らしている以上、そこには食料の配給を管理し、上下水道、電気ガスなどのライフラインを整備し、都市衛生をコントロールする人たち、自治警察組織、学校、劇場、賭博場、売春宿などの「都市として必要な機能」が備わっていなければならない。
少なくとも西部劇映画の場合なら、人口数十人規模のフロンティアの果ての街にでも基本的な都市機能は揃っている。
人間はそういう社会的インフラを整備した上でないと、反社会的な行動をとることさえできないほどに「政治的な動物」なのである。
『NY』に描かれたマンハッタン島には「公共的な仕事」をする人間が誰もいない(例外的にタクシードライバー一名と娯楽用の俳優とレスラーがいるだけ)。
これだとたぶん数週間で全員飢餓か伝染病か殺し合いで死亡してしまうであろう。
人間はどんな境遇に陥っても、そこに「公共的な制度」を作って、自己利益の追求よりも公共の福祉を優先させることに同意しなければ、長くは生き延びることができない。
私が見たかったのは「犯罪者の島」に構築されたそれなりに公共性のある「疑似社会」であるのだが、ジョン・カーペンターはあんまりそういうことには興味がなかったみたい。
口直しにケーブルテレビで『ミナミの帝王』を見ようと思ったら、今日はやってなかった。
うう、くるしい。
わてがミナミのマンダだす。うちとこの利息ちいとたこおおまっせ・・・という定型にアディクトしつつあるらしい。
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(2007-09-08 19:02)