後両肩取心得

2007-09-07 vendredi

炎天下、自主稽古に行く。
1時に道場に行ったが、誰もいない。
あら、今日は稽古がないのか・・・ととぼとぼ帰ろうとしたら、I田主将に行き会った。
やっぱり稽古はあるらしい。
ぱらぱらと学生たちがやってきたので、稽古を始める。
有段者ばかりなので、ひさしぶりに「後ろ両肩取り」をやる。
武道的には相手に後ろに回られて両肩をつかまれるということは「ありえない」状況設定である(そのときにはもう死んでいる)。
だから、これはそういう危機的状況をどう離脱するかというシミュレーションではなくて、相手が視野のとどかない背後にいるときの独特の体感を感知する気の錬磨の稽古だと多田先生からは教わった。
教わったとおりのことを教える。
暗闇の中でも私たちは眼をこすったり、鼻をつまんだりすることができる。
それと同じである。
相手が見えないところにいても、それが自分の身体の一部のように感じられれば、別段不自由はない。
触覚というか気配というか体感というか、そういうものを手がかりにして動く稽古をする。
だいたい私たちの身に及んでくる危険のうち90%以上は「見えないところ」を起点としている。
危険が目に見えるときにはそうとう切羽詰まっていると考えた方がよい。
危険な因子が「見えて」からすばやく反応できる能力を開発するより、危険な因子が「まだ見えない」段階でそれを感知する能力を開発するほうが費用対効果がよい。
いつも言っている例であるが、ライオンと出会ってから走って逃げ切る走力を身につけるよりは、数キロ手前で「なんか、あっちの方にゆくと『いやなこと』がありそうな気がする」という「ざわざわ感」を感知する能力を身につける方がずっと効率的である。
私たちの生存にとって「危険なもの」はごく微細であれ「危険オーラ」の波動を発信している。
生物は(原生動物でも)そのような「オーラ」を感知することができる。
というか、危険を回避し、生存戦略上有利な資源の方にひきつけられる趨向性をもつもののことを「生物」と呼ぶのである。
私たちは生物であるから、危険をもたらすものは回避し、利益をもたらすものには惹きつけられる。
安全な社会(現代日本人は自分たちの社会をそのような社会だと信じている)では、「利益をもたらすもの」に対する嗅覚は敏感になるが、「危険をもたらすもの」に対するアラームは鈍麻する。
毎朝新聞を開くと、政治家の資金管理団体の「記載ミス」の記事が出ている。
政治献金の記載漏れとか同一の領収書の使い回しなどが「事務担当者の単純なミス」だとされて、「問題にならない」と強弁されている。
問題にならないで済むものもあるし、問題になって議員辞職に追い込まれたケースもある。
私が驚くのは政治家の倫理性の低さではない(そんなことはじめから当てにはしていない)。
そうではなくて、彼らの「危険に対する警戒心のなさ」である。
彼らからすれば「はした金」の処理ミスで政治生命を失うこともあるということに対する恐怖心の欠如に驚くのである。
何度も言っていることだが、「みんながやっている」ということと「非合法である」ということは次元の違う話である。
高速道路のスピードオーバーでパトカーにつかまったときに「他の車もみんな100キロで走ってるじゃないか」と言ってもしかたがない。
「なるほどそうだね。他の車もスピード違反しているのに、キミだけから罰金をとるのはアンフェアだよね」と言って放免してくれた警官に私はこれまで会ったことがない。
そのロジックを許したら、「検挙されていない殺人犯がたくさんいるのだから、私だけを逮捕、起訴するのはアンフェアだ」という殺人犯の言い分にも耳を傾けなくてはならなくなるからである。
「みんながやっている非合法はほとんど合法である」というつごうのよい解釈は「危険」よりも「利益」を優先させる思考が落ち込むピットフォールである。
政治家たちのこの「ワキの甘さ」は、「わずかな利益のために致死的な危険を冒す」ことにほとんど心理的抵抗を感じない現代日本人の全体的趨勢を表している。
そういうことにならないように「後ろ両肩取り」の稽古をするのである。
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