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武道の必修化は必要なのか?

学習指導要領の改定作業を進めている中央教育審議会の体育・保健部会は4日、中学校の体育で選択制の武道を必修化する方針を決めた。
礼儀や公正な態度など、日本の伝統文化に触れる機会を広げるのが狙い。
2011年度から実施予定。男子の武道は92年度まで必修だった。女子について必修化するのは戦後初めて。
伝統文化の尊重は、昨年12月に改正された教育基本法にも盛り込まれていた。
同部会主査の浅見俊雄東大名誉教授は「必修化で一層、日本の伝統に親しんでもらいたい」と話している。
武道とともにダンスも必修化される。
というニュースを見る。
不思議なことを考える人たちである。
武道とダンスを必修化・・・って、それって神戸女学院大学の「武術と舞踊で切り開く新しい教育の可能性」と「同じ流れ」なんですか?と訊かれそうであるが、私は(ぜんぜん)違うと思う。
どこが違うのか、その理路を述べたい。

日本の武道は近代において二度、決定的な「断絶」を経験している。
一度目は明治維新、二度目は敗戦である。
明治維新によって戦国時代以来の伝統的な身体文化の大半は消滅した。
剣道が息を吹き返すのは西南戦争において抜刀隊が示した高度な身体能力・殺傷技術によってである。
以後、軍国ニッポンにおいて武道が重きをなしたのは殺傷技術としての有効性が評価されたことと、武士の「忠君」イデオロギーが天皇制の「愛国」イデオロギーと同型のものであったからである。
この「愛国イデオロギーに強化された殺傷技術」としての武道は敗戦によってGHQによって壊滅的に破壊された。
50年代に武道が学校体育で復活するのは「スポーツ」としてである。
何のイデオロギー性もなく、単に筋骨を壮健にすることをめざすスポーツであるという限定条件を受け入れることで武道は復活の許可を得た。
それから半世紀、日本の武道の主流は「スポーツ」であり続け、それは他の外来の競技(フェンシングやボクシングやレスリングなど)と本質的な違いのないものと認定されてオリンピック種目にもなった。
種族に固有の伝統文化であることを放棄する代償として、国際的認知を得たのである。
柔道や相撲における外国人選手の活躍や、トップアスリートが引退後に「K-1」のラスベガスのリングでご活躍になっている様子などを見れば、これらの武道がとりたてて「伝統文化」の精華たらんとする意思を持たないことはうかがい知れる。
だとすると、中教審が「伝統文化」への回帰のための方途として意味する「武道」というのは、現代のこの「スポーツ武道」のことではない、ということになる。
とすれば、彼らが考えているのは大日本武徳会的な「戦前の武道」のことであろう。
しかし、これも私は「伝統文化」だとは思わない。
というのはここには、中世以来洗練されてきた身体文化のうちもっとも枢要な部分が排除されているからである。
それは、人間の蔵するポテンシャルを開花させ、潜在意識レベルでのコミュニケーション能力の開発する技法である呼吸法、瞑想法、錬丹法などである。
それは軍国主義国家における強兵の錬成のためには不要のものだからである。
兵士がふと宇宙的瞑想に入り、戦争のさなかに突然大悟解脱して「万人は愛し合わねばならない」と言い出したりされては困る。
だから、武徳会系武道では伝統文化のうち「霊的成熟」にかかわる技法は組織的に排除されたのである。
中教審の体育・保健部会におられる「武道専門家」の方々は、この点についてはどうお考えなのであろう。
幕末以前の日本の伝統的な身体文化に立ち戻ることをめざしているのなら、私はこの答申に賛成である。
けれども、この中教審の方々は明治維新の武道と以後の武道の間に存在する「クレヴァス」について、どれほど自覚的なのか、それが私には不安である。
上に書いたように、明治維新のときに伝統的な武道文化はほぼ消滅した。
それについて山田次朗吉は『日本剣道史』にこう書いている。
「政治経済軍制教育風俗次第に推移の歩武を運んでゆく中に、剣道は其命脈をいかに維ぎつつあつたか。顧みれば頗る悲惨の影響を蒙つたのである。(・・・)剣術を以て市井に道場を張れる浪人輩の如きは、皆生活の方針に迷はざるを得ざるありさまであつた。(・・・)昔は弓馬槍剣は軍事の唯一の道具であつたが、洋式輸入の後は銃戦と変じて槍剣は第二と下落した。随て之を学ぶ者も自ずから重きを致さぬ所以である。」
明治初年に伝統的な流派のほとんどは消滅し、そのあと復活したのは「強兵」をつくるために特化された「異常な武道」である。
中教審が再興しようとしているのが、この「異常な武道」であるのなら、私はそれに反対する。
このようなものをいくら復興しても、私たちが得るものは何もないからである。
昭和18年、大陸戦線での合気道門人のあまりの「殺傷技術の高さ」に感動した陸軍幹部が合気道の植芝盛平開祖のもとを訪れた。
剣道、柔道を廃し、今後軍事教練では合気道を必修にする計画への協力を申し出たのである。
開祖は激怒して、「それは日本人全員を鬼にするということである」と一喝して、そのまま東京を去って、岩間に隠遁してしまわれた。
この開祖の怒りに共感できた人が当時の日本の武徳会関係者のうちにどれほどいただろうか。
私はきわめて少なかっただろうと思う。
ほとんど存在しなかっただろう。
「日本人全員を鬼にする」ような種類の「異常な武道」を中教審が「復興すべき伝統文化」だと考えているのだとすれば、それは短見であると言わなければならない。

学校体育における武道はどうあるべきかについて明治維新以降もっとも真剣に考えたのは、私の知る限りでは、講道館柔道の開祖である嘉納治五郎先生である。
嘉納先生が大正末年から昭和のはじめにかけて書かれた「学校体育における武道の堕落」を慨嘆する胸痛む文を読んだことのある人は中教審の中に果たして一人でもいるのであろうか。
「武道は日本が誇る伝統文化である」というようなことをしたり顔で言う前に、その「伝統文化」を明治以降私たち日本人自身が国策としてどのように破壊してきたのか、その破壊のすさまじさを確認するところから始めるべきなのではないのか。

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» [クチコミ]中教審の中学校での必修化を決定 送信元 住職日誌
氏は以下に引用した文章のあとに、 国家が明治維新以降、武道を戦争に利用して、古来の武道が もつ伝統を破壊しつくしてきた歴史を認識すべきだと述べて おられ... [詳しくはこちら]

» 武道必修化について 送信元 曹達泉
 朝日新聞、「女子も武道、男子もダンス 中学で「必修」に 中教審」という記事。  学習指導要領の改訂を検討している中央教育審議会(文部科学相の諮問機... [詳しくはこちら]

» 少林武術は禅修行である 送信元 p(^o^)和の空間
 少林武術はスポーツではなくて修行。そうあってほしい。<北京五輪>「少林武術は修行であり、スポーツではない」少林寺、五輪不出場を表明―中国(レコードチャイ... [詳しくはこちら]

コメント (10)

この文部科学省の話が本当なら(本当なのだろうが)、日本はどうなるのかと思ってしまう。ただ、内田先生のように、

>「学校体育における武道の堕落」を慨嘆する

とか

>「武道は日本が誇る伝統文化である」というようなことをしたり顔で言う前に、その「伝統文化」を明治以降私たち日本人自身が国策としてどのように破壊してきたのか、その破壊のすさまじさを確認するところから始めるべきなのではないのか。

ということではないが、内田先生同様、武道の必修化に何の意味があるのか疑問に思う。

そもそも、武道に伝統文化の影を期待すること自体、時代錯誤である。もし、「おらが道場の剣道は日本の伝統文化を最も忠実に伝えているだんべ」などと言い出すことがあったら、むしろ空恐ろしいのである。

内田先生は、フェンシングも近代スポーツとしてボクシングやレスリングと同列に挙げられたが、フェンシングも日本の剣道と同じで、明治維新とか第二次大戦という明確な節目はもたなくても、西洋サムライの伝統からは徐々に万国のスポーツへと変化を遂げたのである。

私自身は剣道とフェンシングの双方をかじっている。フェンシングにはフルーレ、エペ、サーべルの3種の剣と伝統を異にする競技があるが、いずれも剣道同様、礼に始まり礼に終わるところに伝統の香りはあるものの、そうかといって「伝統」を云々といわれると実際の競技者は鼻白んでしまうに違いない。

サーベルは上半身だけが有効面である。それは、コサックの騎馬上の戦いにおいて、相手でなく馬を傷つけることが卑怯とされた<伝統>により、馬に当たらぬように上半身だけ攻撃を加えたといわれるが、ならばいっそ騎馬上で切り合う競技に戻せということにはならないか。

武道にたいそうなことを考えてはいけない。私の机にはいつも競技用のサーベルが横たわっているが、コサック魂のゆえではない。下腹が出てきたので、ときどき振り回すためだ。同じLAで弁護士をしている兄は講道館柔道5段だが、日本の武道文化のために5段になったのではない。ただ単に好きなのと、教えて Law School の学費を稼ぐためであった。

武道など必修にするより、世界の宗教でも学ばせたほうがよいのではないか。(←手前味噌か?)

Mark W. Waterman, Ph.D.

kaizuka [TypeKey Profile Page]:

海外で剣道の稽古をしています。
下手ですが、体中の細胞が独立して、また全体として、相手とダンスをするイメージを持っています。
多分、全体としての部分に、何か特別な秘密があり、内田先生のおっしゃる昔の武術から失われたものでないかと想像します。

礼儀が必要だから武道を必修という発想は、夜道は危険だから鉄砲の稽古みたいな感じですが、提唱している人たちの発想の元には、そういった直接的な効用を世間に言い、本当には狙いは別のことと感じます。

国旗への敬意みたいな法律(?)が出来る過程で、どこかの学校の卒業式で来賓が、掲げられている日章旗に辞儀をして訓話をしている記事を読みましたが、辞儀をする背中が強制するものを拒否できない世間を造りたいのでしょう。

2classes [TypeKey Profile Page]:

ども。

これはあれですよね。

保育園、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、学習塾。
すべて「母親か父親の手作りお弁当」を義務化する。
おかずに冷凍食品の使用は許さない。
買い食いも厳禁。
給食も全廃する。
ってのと同じなんじゃないかと思いました。

これまで、
如何に、
日本の食文化を破壊してきたか。

先生の仰るとおり。
中教審の中に果たしてそのことを考えた者が一人でもいるのであろうか。
その破壊のすさまじさを確認するところから、
始めるべきなのではないのか。

な~んて、
焼酎呑みながら思いました。
アテは冷奴。
ネギと大葉とミョウガの山盛り。

小林哲夫 [TypeKey Profile Page]:

民族の誇り

ご高名な内田先生のブログに、簡単にコメントで参加できることがわかったので、張り切って、第二信を書き込みます。
今回の武道の本質に関する文章も大変説得力のあるもので、感服し、大賛成の内容でした。

武道そのものについて私がコメントできる余地は無いのですが、私が先生の考えを理解し同感している、ということを示すために、「武道」を「天皇制」という言葉に置き換えて、「日本人はもっと、自分が日本人であることに誇りを持つべきだ」という主張をしたいと思います。

天皇制の伝統は、幕末明治時代に根本的に破壊されて、「現人神」などという化け物に変えられてしまい、戦争の景気づけの道具に成り下がってしまいました。

統帥権を持った天皇等という伝統は日本では考えられないことだったのですが、明治の近代化・軍事化のための方策として利用されて、その結果日本史の汚辱となった侵略戦争の旗印になり、結局敗戦を招きました。

ところが現代の右翼は、民族の伝統を守るために、と称して、戦前の間違った天皇制の復活を主張しています。
一方左翼は、戦前の失敗に懲りて、天皇制は廃すべし、と叫んでいます。

要するに日本の素晴らしい伝統であった、江戸時代以前の天皇制の本質を再認識し、それを肯定しようとする日本人は皆無という状況になっています。

こういう現象が起こるのは、日本人が未だに明治維新が何であったか?ということが解らないからだと思われます。

明治のやみくもな西洋化(近代化)が、日本人の西洋に対する劣等感に起因すること、その劣等感が今も続いている、ということを自覚していないからだと思われます。

明治の近代化が「武道の伝統を破壊した」と同じ意味で、「天皇制をだめにした」と思います。

劣等感に囚われて急いだ日本の近代化の間違いを脱して、本当の伝統を知ることによって、民族の誇りを取り戻すことが今の日本に必要なことだ、と私は考えています。

この私の考えは内田先生と同じ方向だと思うのですが、如何でしょうか?


きこり [TypeKey Profile Page]:

疑問です。

どうして中央教育審議会のメンバーには、よ~く考える方がいらっしゃらないのか?

>明治以降私たち日本人自身が国策としてどのように破壊してきたのか、その破壊のすさまじさを確認するところから始めるべきなのではないのか。

たぶん、確認してもメンバーの大方はスルーするんでしょうね。若しくは調べても目には映るが頭には入らないのではないかと思います。

もとよりメンバーの選考からよ~く考えないと!
内田先生持論の「現場に任せる」ことにすればいいのに。・・急には変わらないか。

heisan [TypeKey Profile Page]:

きこりさん,初めまして.

> もとよりメンバーの選考からよ~く考えないと!

おっしゃる通りだと思います.
ただ,ここで重要なのは,選考結果が「国民が納得するようなもの」でなければならないという点です.
国民を納得させるには理由が必要です.「分かりやすい理由」が.
各界の実力者であるとか,一芸に秀でていることを認められた経歴があるとか,「そういう人たちである」ということなら,多くの国民は納得します(というか,納得させられます.正確には,「極めて反論しづらい雰囲気」が作り出されることにより,「納得しない」という選択肢が封じられます).

地道にこつこつ教師をやってきている,現場のことを良くわかっていて,地域からの信頼も厚い.そのような先生が抜擢されることが,(適正な行政,空回りでない行政という観点からは)ほんとうは望ましいのですが,それでは国民は納得しないでしょう.
その先生がほんとうに「地域からの信頼が厚く,現場のことを良くわかっていて,地道にこつこつ教師をやってきた人」であるのかどうかを,予備知識のない国民が一発で確認できる方法は存在しないからです.
この故に,選考にのぼる候補というのは,「予備知識を持たない国民でも一発で理解できる」ような実績ないし肩書きを持っている人に,どうしても限定されてしまうわけですね.

悲しいことですが,それが事実だと思います.
この事実を避ける方法を,もちろん私も求めていますけれども,いまだ有効な方策がないのが実情です.

小林哲夫 [TypeKey Profile Page]:

日本文化の位置づけ

ご高名な先生に読んでもらえるかもしれないと思うと、なんだか次々と聞いてもらいたいことが出てきました。

日本文化の素晴らしさ(伝統)を日本人はもっと学ばなければならない、という話です。

先生に向かって日本文化の素晴らしさを説くのは、釈迦に説法ですが、例えば美術の方面です。

モネやマネの名画が来るとインテリぶった人達の行列が出来るのですが、一方日本画の方はサッパリのようです。
私は最近日本美術の様々なジャンルを知るようになって、西洋美術より、日本の方が豊かだ!と認識するようになりました。
所謂日本画という分野だけでなく、絵巻、障壁画、墨絵、掛け軸、俳画、浮世絵、挿絵、着物の絵付け、陶磁器の絵付け、漆器の絵付けなどなど、様々なジャンルで、素晴らしいものが沢山あります。(まだまだありますが・・・)

これらと比較すると西洋の美術史はなんとも、単純な気がしてきます。

最近の日本人には、こういう豊かさを知っている人が、どうして少ないのでしょうか?
そしてなんだか気持の悪い西洋人の磔の絵を有難がったり、印象派ばかりに人気が集まるのでしょうか?

つまり西洋美術と日本美術の比較について、正しい位置づけが出来ていない、と思われます。

もっと言えば日本文化の世界史的位置づけが、なっていないのだと考えます。

これは現在の学校教育が間違っているからなのでしょうか?

そこで話題を変えてこのスレッド本来の話題である、「教育」についての私の考えを述べます。

日本の伝統の考えから言えば、「教育(おしえる)」という考えがそもそもの間違いです。
これは全て「学習(まなぶ)」と言い換えるべきだと思います。

一人の先生が多数の生徒に強制的に知識を押し込んで行くやり方は、西洋的であり、これは生徒の側に拒絶反応が起きやすく、知識を獲得する方法としては良いやり方とはいえません。
江戸時代の塾の方式に戻って、自学自習を主とするのが正しいと思います。

極論すれば、日本の学校制度は全て廃止して、塾に衣替えすべきだと思います。

こういう考えですので、上記のように日本美術の知識が無いことを嘆いたとしても、学校の必修科目に入れるべきだ、というような考えではありません。

要するに日本のインテリの中に、正しい意味の民族意識が欠如しているという根本的な欠陥から来ていることですから、簡単に良くなるものではありません。

先生のような見識の高い方が、少しずつ増えていくのを待つしかない、と思います。

小林哲夫 [TypeKey Profile Page]:

日本の近代化と民族主義

武道についての先生のお考えは、「本来の日本の伝統の武道の真髄は、明治維新で破壊された」というものと理解し、感服して同感しました。
私は「武道」そのものについては知らないのですが、この考えを「日本文化の真髄は明治時代の近代化の中で破壊された」と一般化できると感じて同感しています。

しかしながら普通には、明治の近代化によって、日本は「ネーション(民族)になった」と考えられています。

福沢諭吉や自由民権運動が、人民主権、憲法、人権、議会、選挙、などを叫んだのは、日本がネーションになるために、それらが不可欠のことだと考えたからです。

彼らの努力によって日本は見事に民主主義国家(ネーション)になることが出来ました。

しかしこの明治の民族国家(ネーション)は、過去の日本の伝統を否定して、西洋の近代化を模倣することによって実現したものです。

これを別言すれば、「日本は明治時代に、民族を否定することによって、民族になった」という矛盾が現れます。

「否定された方の民族」が本来の日本だったとすると、明治時代に達成したネーション(民族)とは何だったのか?というのが、私の問題提起です。

我々の「民族になるそのなり方」が間違っていた、と考えると解りやすいと思います。

福沢諭吉が日本をネーションにするそのやり方は、中国を侵略することでした。
そのために日清戦争を煽ったのでした。
以後福沢諭吉の人民主権の考えで煽られた日本国民は、侵略戦争の時代に突入し、軍国主義、全体主義国家になってしまいました。

私は明治時代に行われた近代化を西洋化に他ならないと考え、こういう模倣の民族主義は間違った民族主義だった、と考えます。

本来の正しい民族主義を取り戻すために、日本人はもう一度、日本の伝統、日本の平和の歴史を再認識する必要があると考えます。

先生が提案されている、武道の再認識こそ、その最良の見本だと思いました。

正しい意味の民族国家になることを提案したいと思います。

Mr.FanHong [TypeKey Profile Page]:

>「地域からの信頼が厚く,現場のことを良くわかっていて,地道にこつこつ教師をやってきた人」であるのかどうかを,予備知識のない国民が一発で確認できる方法

多少年齢層が高くなりすぎるかもしれんが、その方面での功績で叙勲された人などを引っぱってくれば、ある程度可能だと思う。

>「地域からの信頼が厚く,現場のことを良くわかっていて,地道にこつこつ教師をやってきた人」であるのかどうかを,予備知識のない国民が一発で確認できる方法
 ◇◇◇
そんなものないんですよ。だいたい信頼が厚い、良くわかっている、地道にこつこつなんて言葉すら一方的な価値観の共通を前提にしてるみたいですし「愛してるのアンタだけよ」って何回だまされたことか。ましてheisanさまが20才になったばかりの美少年だとは、おれにもさっぱりわかりません。これが現代じゃないですか。メディチ家のだれだれで話(神話)が了解された時代じゃないです。
ですから民主主義は試行錯誤する主義で、左右問わずマスコミ(ネットふくむ)と言論人の需要は高く、トイレの落書きまで雑多な言論を保障する必要がありますし、嘘つきとわかった大統領(首相)に即辞めてもらう制度もいると思います。こんなふうに、ときには多大な犠牲者をだしながらヨタヨタ進むのが民主主義で、嫌ってんなら『1984年』みたいな社会(とビッグ・ブラザーの立場)をお選びになるほかないんじゃ?

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2007年09月06日 11:10 に投稿されたエントリーのページです。

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