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「愛己心」な人々

引越の片付けは止めて、一日原稿書き。
『論座』の「愛国心論」6000字。
家が変わり、パソコンの位置も変わり、なんとなくキータッチも変わり(コーヒーのしみを拭き取ったせいかもしれない)、いつものようにすらすら書き始められない。しばらく「助走」を重ねる。
夕方近くにようやく浮力を得てテイクオフする。
物を書くときは、この「テイクオフ」までの助走距離がとれるかどうかが質的な分かれ目となる。
「いますぐ書け」といわれれば、そこそこの字数のものは書けるが、「浮力」が得られないで書いたものは、すでに書いたことの焼き直しにしかならない。
そういうものを書いて送稿してしまうと、深い徒労感に襲われる。
わずかでも浮力を得て書かれたものにはたとえ一行であれ、「生まれて初めて思いついたこと」が書かれている。
その一行を手がかりにして一冊の本が生まれることもある。
愛国心についてはこれまでなんどか書いた。
当然、編集者が頼んでくるのは「・・・で書かれたような内容」を本誌読者向けにひとつよろしく、というかたちになる。
それだと書く方はおもしろくない。
せっかくの機会であるから、これまで書いたことがないことを書きたい。
最初のアイディアは「私は愛国者である」ということを前面に押し出して、「愛国」というのがいかに病的な心性であるかを縷々書きつづるという趣向のものであったが、書いてみたら、自分が「真性の愛国者」ではないことに気がついたので、取りやめる。
方向を変えて、「真の愛国者」と「似而非愛国者」の二元論というものを書いてみることにする。
「真の愛国者」と「似而非愛国者」の二本立てというロジックは「似而非フランス人」と「真のフランス人」という、シャルル・モーラスが愛用し(のちにティエリ・モーニエの国民革命論に受け継がれた)フランス極右の思想家の論争ツールをそのままお借りしたのである。
暑気払いに、それをちょっとご紹介しよう。
モーラスによると、フランスには「深層フランス」と「表層フランス」の二種類の存在様態がある。
「深層フランス」はフランスの大地の古層にある水脈のようなもので、そこから「フランス文化の精華」が豊かに湧き出ている。
「真のフランス人」というのはその恩沢に浴すことのできる人間である。
彼らは生まれついてずっと「真のフランス人」である。
ご飯を食べていても昼寝をしていても、まるまる「真のフランス人」であるので、「フランス人であれば、どうふるまうべきであろう?」という問いが芽生えたときには「自分はどうしたいのか?」という問いに書き換えればよろしい。
一方、「表層フランス」というのは歴史的な変動の果てに、たまたま現在「フランス」とよばれている国家「制度」のことである。ここには最近になってフランスに領土として組み込まれた地域や、最近になってフランス国籍を得た人間が含まれる。
この法理的な国民国家のメンバーは「法制上のフランス人」と呼ばれる。
国籍はあっても、彼らは「フランス文化の精華」を自分の内側に感じることはできない。
だから、彼らは精一杯「フランス人らしく」ふるまおうと努力する。
彼らは「フランス人であれば、どうふるまうべきであろう?」という疑問が兆すと、思わずきょろきょろとあたりを見回すので、それと知れるのである。
モーラスによれば、フランスの不幸のすべてはこの「似而非フランス人」どもがフランスの政治・経済・文化制度に入り込み、本来フランス的なものではない(ドリュモン的に言えば「セム」的な)制度を導入し、本来「真のフランス人」に帰属するはずの資源を蚕食したことに起因するのである。
「フランスをフランス人の手に」(La France aux Français)というのがそのスローガンであり、これはドリュモンの『自由公論』誌のエピグラフであり、のちにアクシオン・フランセーズに採用された(ブニュエルの『小間使いの日記』はこのスローガンを大書した旗を掲げてデモをするアクシオン・フランセーズの「真のフランス人」たちのアップで終わる)。
これはたいへん便利でイージーな論争ツールであることはただちにおわかりいただけるであろう。
なにしろ、「私は真のフランス人である」という論点が先取されているのであるからして、「フランスはどうすべきか?」という問いはただちに「私はどうしたいのか?」に書き換えられてしまう。
「私はこうしたい。私は真の日本人である。ゆえにすべての日本人は私に同意すべきである」というどこかの国の首相やどこかの都知事らが好んで口にする論法はいずれもドリュモン=モーラスを祖とする「真の・・・人」論を(それと知らずに)流用したものなのである。
ここには「説得」という契機が存在しない。
「説得」というのは、「たぶん、相手は自分の言うことを簡単には信じてくれないだろうな・・・」という予測があるときにしかなされない。
自分の言うことが真理であると思っている人はそんな面倒なことはしない。
「私の言うことが真理であることはもとより証明の要もないが、真理であることをぜひ証明したいというのなら、それはあなたの仕事である」
まことに合理的な論争術である。
ただ一つだけ問題がある。
自分を「真の日本人」であるとする基礎づけが学的には不可能だということである。
だって自己申告しかないんだから。
この論法で大成功した反ユダヤ主義者エドゥアール・ドリュモンはあるとき「そういうお前はユダヤ人ではないのか?」という嫌疑をかけられて、焦りまくったことがある。
とりあえず祖父の一人がフランス革命のときに農民だったということを示す系図のようなものを取り出してはみせたのだが、ドリュモン自身が「自分は『真のフランス人』だと自称するユダヤ人どもが出してみせる系図などはすべてインチキである」と書いたばかりだったので、あまり説得力がなかったのである。
それでも、日本でも相変わらず「私こそが真の日本人である」という「言ったもの勝ち」の名乗りをする人は多い。
国益と私益がイコールなのであるからして、国益について思量する必要がないのである。
歴史的知識も経済統計も国際関係についての情報も何も考慮する必要がない。
知的負荷ゼロである。
この自称「真の日本人」たる人々の口にする「愛国心」は、だから「愛己心」というのとほとんど変わらない。
自分が好きで好きでしかたがなくて、自分の旗を掲げて、自分を讃える歌を作って歌っている人間がいたとする。彼が通りがかりの人間をつかまえて「旗に敬礼して、歌を歌え。そうしないと、お前は私ではないということになるが、それでいいのか」と凄んでみせたら、彼が救いがたく愚鈍であるということは誰にでもわかるであろう。
というところまでが話の前半で、そのあと「愛国心論」は驚くべきツイストを遂げて、他者論へと展開することになるのである。
詳細は『論座』の次号を読まれよ。

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2007年08月15日 10:47 に投稿されたエントリーのページです。

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